今回は「朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)」について、やさしく解説していきます。
歴史の授業で「日本が朝鮮を支配していた」と聞いたことがあるかもしれませんね。そのときに中心となったのが「朝鮮総督府」という役所です。
この記事では、朝鮮総督府がどんな目的で作られたのか、何をしたのか、そして最後はどうなったのかを、わかりやすく紹介していきます。歴史に興味がなくても、きっと「へぇ〜!」と感じる内容になっていますよ。
朝鮮総督府とは何かをわかりやすく解説!設立と役割

日本が朝鮮半島を支配していた時代、その中心にあったのが「朝鮮総督府」です。でも名前だけ聞いても、どんな場所なのかよく分からない人も多いと思います。
ここでは、朝鮮総督府とは何か、なぜ作られたのか、そしてどんな役割を果たしたのかを順番に見ていきましょう。
朝鮮総督府とは?日本による朝鮮支配のための行政機関
朝鮮総督府とは、日本が1910年に朝鮮を併合(へいごう)したときに作った「朝鮮を支配するための役所(行政機関)」のことです。日本はこの年に「韓国併合ニ関スル条約」という取り決めを結び、朝鮮半島を正式に自分の領土にしました。
そして、その支配をスムーズに行うために、首都・京城(現在のソウル)に朝鮮総督府を置いたのです。
この役所は、国の政治、法律、経済、教育など、すべてをまとめて管理するとても強い力を持っていました。トップに立ったのは「朝鮮総督(そうとく)」と呼ばれる人で、軍の大将クラスの偉い人が任命されました。つまり、日本が朝鮮をコントロールするための一番大事な役所だったのです。
朝鮮総督府の設立理由は?韓国併合と統治体制の強化
では、どうして日本は朝鮮総督府を作る必要があったのでしょうか?
その答えは、「朝鮮を完全に自分たちの国として治めたい」と考えていたからです。
もともと、日本と朝鮮の関係はあまりうまくいっていませんでした。日本は1895年の日清戦争、1905年の日露戦争に勝って、朝鮮での影響力をどんどん強めていきました。そして、1905年に「韓国統監府(かんこくとうかんふ)」という役所を作り、韓国(朝鮮)の外交をコントロールするようになります。
その後、1910年にはついに「韓国併合ニ関スル条約」を結んで、朝鮮を日本の一部にしてしまいました。このとき「統監府」はなくなり、新しく「朝鮮総督府」が作られたのです。日本はこの役所を通じて、朝鮮のすべてのことを自分たちで決められるようにしました。
韓国統監府との違いとは?保護国支配と植民地支配の境目
よく間違えられるのが「韓国統監府」と「朝鮮総督府」の違いです。名前も似ていてややこしいですよね。でも、役割はぜんぜん違います。
「韓国統監府」は、1905年に日本が韓国を「保護国」にしたときに作ったものです。このときはまだ韓国という国が残っていて、日本は表向きは「助けるために外交を手伝うよ」という形で支配していました。トップにいたのが「韓国統監」で、初代は伊藤博文です。
一方の「朝鮮総督府」は、1910年に韓国という国を完全になくして、日本の「植民地」としたあとに作られました。つまり、統監府は“間接的な支配”、総督府は“完全な支配”のための機関だったというわけです。支配の強さもまったく違いました。
朝鮮総督府の組織構成をわかりやすく!どんな部署があった?
朝鮮総督府は、とても大きな組織でした。いくつもの部署があって、それぞれがいろんな分野の仕事をしていました。たとえば次のような部署があります。
- 学務局(がくむきょく):学校のことや教育制度を担当
- 警務局(けいむきょく):警察や治安を担当
- 財務局(ざいむきょく):お金の使い方や税金の管理
- 農商局(のうしょうきょく):農業や商業の発展をサポート
- 法務局(ほうむきょく):法律や裁判に関わる仕事
また、朝鮮各地にも「道(どう)」という地方行政の支所がありました。こうして、日本は全国すみずみまで自分たちのルールを行きわたらせようとしていたのです。
まるで「日本の出張所」が朝鮮全体にあるような感じです。
朝鮮総督府がやったことまとめ!教育・警察・経済政策など
朝鮮総督府が行ったことはたくさんあります。
まず、教育面では日本語を教える学校を増やし、「日本人のような考え方を身につけさせる」教育(皇民化教育)を進めました。次に警察面では、憲兵(けんぺい)とよばれる軍の警察が一般の警察官のような仕事もして、朝鮮の人たちの行動をしっかりと監視していました。
さらに経済政策としては、鉄道や道路の整備、農地の開発、工場の建設なども行われました。これによってインフラが整い、朝鮮の産業も発展しましたが、その利益は日本のために使われることが多かったのです。
こうしたことから、朝鮮総督府の活動には「良かった面」と「問題のあった面」の両方があったと言えるでしょう。
朝鮮総督府を分かりやすく:解体理由や現在

朝鮮総督府は日本が朝鮮を支配していた時代の中心的な存在でした。でも、その時代が終わるとともに、総督府も役目を終えることになります。
ここでは、朝鮮総督府がどうやって終わりを迎えたのか、建物はどうなったのか、そして今の韓国ではどう受け止められているのかを見ていきましょう。
朝鮮総督府はいつまで存在した?終戦後の運命とは
朝鮮総督府は、1945年に日本が第二次世界大戦で負けたことで終わりを迎えました。8月15日の終戦によって、日本は朝鮮半島の支配を放棄することになり、35年続いた植民地支配が終わったのです。
その後、朝鮮半島にはアメリカ軍が南側に進駐し、「アメリカ軍政」が始まりました。朝鮮総督府の建物や組織の一部は、このアメリカ軍政に引き継がれる形で使われました。しかし、日本の支配からの解放を強く望んでいた朝鮮の人々は、自分たちの手で新しい国を作ろうと動き始めます。
こうして登場したのが「朝鮮建国準備委員会(ちょうせんけんこくじゅんびいいんかい)」です。彼らは、朝鮮を自立した国として再出発させようと努力を重ねていきました。
朝鮮総督府の庁舎はどうなった?保存か解体かの論争とその結末
朝鮮総督府の建物は、終戦後もしばらく残されていました。立派な石づくりの建物で、ソウルの真ん中にありました。この建物は、戦後は韓国政府の中央庁舎や、国立中央博物館として利用されました。
しかし、この建物には「日本の植民地時代の象徴」というイメージがついていました。そのため、韓国では「このまま残しておいていいのか?」という意見と、「歴史の証拠として保存するべきだ」という意見で大きな議論になったのです。
そして、1995年、韓国の金泳三(キム・ヨンサム)大統領の時代に、ついにこの庁舎は解体されることになりました。その跡地には、かつての朝鮮王朝の王宮「景福宮(けいふくきゅう)」の正殿が復元されることになります。これによって、韓国は歴史の誇りを取り戻すことを選んだのです。
朝鮮総督府の評価は分かれる?功績と批判の両面を解説
朝鮮総督府の評価は、今でもさまざまな意見があります。
一方では、「鉄道や道路などのインフラが整備された」「教育制度や病院が作られた」といった点を評価する人もいます。近代的な制度が導入され、朝鮮半島が変わったことはたしかです。
しかし、もう一方では「朝鮮人の自由や文化を奪い、日本に同化させようとした」「土地や資源を奪って日本のために使った」という批判も多くあります。教育も、日本語を強制したり、日本の天皇に忠誠を誓わせる内容だったりと、抑圧的な面が目立ちました。
そのため、朝鮮総督府の評価は「便利なものを作ったけれど、それ以上に人々を苦しめた」という見方が主流です。
朝鮮総督府と三・一独立運動の関係とは?抵抗運動との対立も解説
1919年、朝鮮では大きな独立運動が起こります。これが「三・一独立運動(さんいちどくりつうんどう)」です。日本の植民地支配に反対する多くの朝鮮の人々が、平和的なデモを行い、独立を求めました。
この運動に対し、朝鮮総督府は厳しく取り締まり、多くの人が逮捕されたり、命を落としたりしました。この出来事は、日本の「武力による支配(武断政治)」に対して強い反発を生んだのです。
その後、日本は国際的な批判を受け、朝鮮での支配のやり方を少し変えることになります。「文化政治(ぶんかせいじ)」と呼ばれる新しい方法で、表向きには朝鮮の人々の意見を聞く姿勢を見せるようになりましたが、支配の本質は変わらなかったとも言われています。
朝鮮総督府の跡地は今どうなっている?現在の景福宮と独立記念館
では、朝鮮総督府の跡地は今どうなっているのでしょうか?
現在、その場所には「景福宮(けいふくきゅう)」という昔の王様の宮殿が復元されています。これは、朝鮮王朝の時代に作られた建物で、日本の支配によって一部が壊されたり、隠されたりしていたのです。

総督府の建物があった場所には、正殿「勤政殿(きんせいでん)」が再び建てられ、昔の姿を取り戻しました。これは、韓国の人々が「自分たちの歴史を大切にしたい」という思いを表しているのです。
また、韓国の「独立記念館」では、朝鮮総督府をはじめとした日本統治時代の歴史が展示されており、多くの人が訪れて学んでいます。このように、過去をしっかり学び、未来に生かそうという動きが広がっているのです。
総括:朝鮮総督府とは何かわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 朝鮮総督府は1910年の韓国併合と同時に設立された、日本による朝鮮支配の行政機関です。
- 首都・京城(現在のソウル)に置かれ、政治・法律・教育・経済などあらゆる統治を担っていました。
- 総督府設立の目的は、朝鮮を完全に日本の植民地として支配することでした。
- 韓国統監府は「保護国支配」、朝鮮総督府は「植民地支配」のための機関で、役割が異なります。
- 総督府には教育・警察・財務などの部署があり、日本の政策を朝鮮全土に行きわたらせました。
- 教育では皇民化、経済ではインフラ整備、警察では憲兵制を導入するなど、多くの政策が実施されました。
- 1945年の終戦で朝鮮総督府は解体され、その機能はアメリカ軍政や朝鮮建国準備委員会へ引き継がれました。
- 庁舎は戦後も使われていましたが、1995年に解体され、景福宮の復元が行われました。
- 総督府はインフラ整備などの功績もある一方で、自由や文化を奪ったとの批判も多く、評価は分かれています。
- 1919年の三・一独立運動では朝鮮人の抵抗が高まり、支配体制は武断政治から文化政治へと変化しました。
- 現在は景福宮が復元され、独立記念館では当時の歴史が展示・継承されています。
