みなさんは「八艘飛び(はっそうとび)」という言葉を聞いたことがありますか?
これは、歴史の授業やテレビの時代劇でよく登場する言葉です。八艘飛びとは、源義経(みなもとのよしつね)という有名な武将が戦いの最中に見せた、驚異的な跳躍のことを指します。
でも、本当にそんなことができたのでしょうか?また、なぜ「八艘」なのか、不思議に思いますよね。
本記事では、八艘飛びの意味や由来をわかりやすく解説し、歴史の裏側に迫ります。では、一緒に学んでいきましょう!
八艘飛びとは?意味や由来をわかりやすく解説

八艘飛びとは、壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で源義経が行ったとされる伝説の動きです。
義経は、敵の猛将・平教経(たいらの のりつね)に追い詰められたとき、次々と船を飛び移りながら逃げたと伝えられています。この身軽な動きが「八艘飛び」と呼ばれるようになりました。
それでは、この言葉の意味や歴史的な背景について詳しく見ていきましょう。
八艘飛びとは?その意味を簡単に解説
八艘飛びとは、義経が敵の攻撃から逃れるために、次々と船を飛び移ったという逸話から生まれた言葉です。
「八艘」とは、8隻の船のことを指します。しかし、実際に8隻も飛び移ったのかどうかは、歴史的に見ると疑問が残ります。物語の中では、義経が驚くほど素早く動けることを強調するために、こう表現されたのかもしれません。
現在では、「素早く移動する」「俊敏な動きをする」といった意味でも使われます。
八艘飛びの由来|源義経が行った驚異の跳躍
この伝説が生まれたのは、1185年の壇ノ浦の戦いの最中でした。
源氏と平家の最後の戦いであるこの合戦で、平家は敗北し、多くの武士が海に身を投げました。その中で、平教経は源義経を討ち取ろうと襲いかかりました。
しかし、義経は驚くべき身軽さで船から船へと飛び移り、難を逃れました。この動きが「八艘飛び」として語り継がれ、伝説となったのです。
八艘飛びの実際の距離は?本当に可能だったのか?
歴史書には「義経が約6メートル(2丈)を飛んだ」と書かれています。
しかし、当時の武士は重い甲冑(かっちゅう)を着て戦っていました。その重さは約30〜40kgにもなります。そんな状態で本当に6メートルも跳べたのでしょうか?
実際には、義経が1回船を飛び移っただけかもしれませんが、後世の人々が話を誇張し、「八艘」も飛んだという話に膨らませた可能性があります。
八艘飛びの語源とことわざとしての使われ方
八艘飛びは、戦場での俊敏さを表す言葉として広まりました。
現在では、「素早く移動する」「機敏な動きをする」という意味で使われることもあります。また、「ピンチをうまく切り抜ける」というニュアンスも含まれており、スポーツや仕事の場面でも比喩として用いられることがあります。
相撲技にもある八艘飛び|舞の海・炎鵬が披露
相撲の世界でも「八艘飛び」という技が使われています。
小柄な力士が大きな相手を翻弄するために、立ち合いと同時に大きく横に跳び、相手の攻撃をかわす技です。特に、元関脇の舞の海(まいのうみ)や、現在の炎鵬(えんほう)といった軽量級の力士がこの技を得意としています。
義経の俊敏さが、相撲の世界でも生きているというのは面白いですね。
八艘飛びとは何か:逸話や歴史的背景を深掘り

八艘飛びはただの戦場での俊敏な動きではなく、歴史や文化に深く根付いた伝説となっています。この伝説はどのようにして生まれたのか、そしてどのように語り継がれてきたのかを詳しく見ていきましょう。
壇ノ浦の戦いとは?八艘飛びが生まれた歴史的背景
壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)は、1185年4月25日に現在の山口県下関市の関門海峡で行われた戦いです。この戦いは、源氏と平家が長年にわたって戦ってきた「源平合戦」の最後の戦いとして知られています。
源義経が率いる源氏軍は、潮の流れを巧みに利用し、平家軍を追い詰めました。
敗北を悟った平家の武士たちは次々と海に身を投げましたが、平家の猛将・平教経(たいらの のりつね)は、せめて義経を道連れにしようと、彼の船へ飛び移りました。そこで義経が見せたのが、伝説の「八艘飛び」だったのです。
義経の武芸と鞍馬の天狗伝説|八艘飛びとの関係
源義経は、幼い頃に鞍馬寺(くらまでら)に預けられたと伝えられています。そして、彼が武芸を磨いたのは「鞍馬山の天狗(てんぐ)に教わった」とも言われています。
天狗は日本の伝説に登場する妖怪で、飛ぶように素早く動くことができるとされています。この天狗伝説が、義経の八艘飛びと結びついたのではないかと考えられています。
また、義経は小柄ながらも身のこなしが非常に軽く、馬上でも自由自在に動けたとされています。そのため、実際に船を飛び移ることができたかもしれませんが、八艘もの船を飛んだというのは、後世の脚色が加わった可能性が高いのです。
八艘飛びの逸話はどこまで本当?歴史資料の検証
八艘飛びの伝説は、『平家物語』や『源平盛衰記(げんぺいせいすいき)』などの歴史書に記されています。しかし、これらの記録は戦いの後に書かれたものであり、実際に目撃した人が書いたものではありません。
そのため、話が誇張されている可能性があります。
たとえば、『平家物語』の中では、義経は一度だけ船を飛び移ったとされています。しかし、後の時代になると「八艘の船を飛び移った」と話が大きくなり、伝説となったのです。
こうしたことから、八艘飛びは完全な事実ではなく、義経の勇敢さを強調するための「作られた話」と考えられています。
八艘飛びに関する語呂合わせや覚え方
歴史の勉強をするときに、「語呂合わせ」で覚えると便利です。
八艘飛びに関連する語呂合わせには、次のようなものがあります。
- 「義経が飛ぶよ 八艘飛び(1185年)」 → 1185年(壇ノ浦の戦いの年)と八艘飛びをセットで覚えられる。
- 「義経ピョンピョン 八艘飛び」 → 義経の俊敏な動きをイメージしやすい。
こうした語呂合わせを使うと、歴史のテストでも役立ちます。
八艘飛びの文化的影響|大河ドラマや漫画での描写
八艘飛びは、日本の歴史や文化の中でたびたび描かれています。たとえば、NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、俳優の菅田将暉さんが義経を演じ、八艘飛びのシーンが迫力ある映像で描かれました。
このように、映像作品では、義経の超人的な動きをCGなどで再現し、視聴者を魅了しています。
また、漫画やゲームでも「義経の八艘飛び」はよく登場します。歴史を題材にした作品では、義経は「スピードと俊敏さの天才」として描かれ、敵を翻弄するキャラクターとして人気があります。
こうして、八艘飛びの伝説は現代にまで語り継がれているのです。
総括:八艘飛びとは何か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 八艘飛びとは?
- 源義経が壇ノ浦の戦いで、敵の攻撃をかわすために船を飛び移った伝説的な動き。
- 八艘飛びの由来
- 1185年の壇ノ浦の戦いで、平家の猛将・平教経から逃れるために義経が船を飛び移ったことが語り継がれた。
- 本当に可能だったのか?
- 歴史書には「約6メートル(2丈)を跳んだ」と記録されているが、甲冑を着た状態では現実的ではない可能性が高い。
- 1回船を飛び移った話が、後に「八艘」まで飛び移ったと誇張されたと考えられる。
- 八艘飛びの意味と使われ方
- 「素早く移動する」「機敏な動きをする」ことの比喩として使われる。
- 困難な状況を切り抜ける意味でも用いられる。
- 相撲技としての八艘飛び
- 小柄な力士が相手を翻弄する技として使われ、舞の海や炎鵬などの軽量級力士が得意とする。
- 八艘飛びに関する語呂合わせ
- 「義経が飛ぶよ 八艘飛び(1185年)」→ 年号とセットで覚えられる。
- 「義経ピョンピョン 八艘飛び」→ 俊敏な動きのイメージを持ちやすい。
- 八艘飛びの文化的影響
- NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』などで映像化され、CGを駆使した迫力あるシーンが話題に。
- 漫画やゲームでも「スピードの天才」として義経のキャラクターが描かれる。
- 八艘飛びの歴史的検証
- 『平家物語』では「1回飛び移った」との記述があり、八艘飛びは後世に脚色された可能性が高い。
