「平治の乱ってどんな戦い?」と聞かれたとき、すぐに説明できますか?
歴史の授業で習うけれど、内容が複雑でよくわからないという人も多いでしょう。
実は、平治の乱は「源氏と平氏が戦った大きな事件」であり、その後の鎌倉幕府の成立にもつながる重要な出来事なのです。
この記事では、塾長が平治の乱を「簡単に」「わかりやすく」解説します!
平治の乱とは?簡単に解説:誰と誰が戦ったか

平治の乱とは、1159年(平治元年)に平安時代の京都で起こった政変のことです。
この戦いでは、「源氏の源義朝(みなもとのよしとも)」と「平氏の平清盛(たいらのきよもり)」が敵味方に分かれて戦いました。
平治の乱で戦ったのは誰?源義朝と平清盛の関係とは
平治の乱では、次の2つの勢力が戦いました。
①藤原信頼・源義朝の軍
- 藤原信頼(後白河上皇の側近だったが、信西と対立)
- 源義朝(河内源氏の棟梁で、源頼朝の父)
- 源義平(義朝の長男で、武勇に優れた若武者)
- その他の源氏の武将たち
②平清盛・藤原経宗の軍
- 平清盛(伊勢平氏の棟梁で、武士として初めて太政大臣になる)
- 平重盛(清盛の息子で、平家の後継者)
- 藤原経宗・藤原惟方(信西の支持者で、二条天皇派)
- その他の平氏の武将たち
源義朝と平清盛は、かつて保元の乱で協力していました。しかし、戦いが終わった後、平清盛だけが出世し、義朝は冷遇されました。これに不満を持った義朝は、藤原信頼と手を組み、平清盛と戦うことになったのです。
なぜ平治の乱が起こった?その原因と経緯を簡単に解説
平治の乱が起こった理由は、大きく分けて3つあります。
①武士の出世争い
源義朝と平清盛は、どちらも武士のリーダーでした。しかし、平清盛だけが出世し、義朝は大きな恩賞をもらえませんでした。これが、義朝の不満の原因になりました。
②朝廷内部の権力争い
後白河上皇の側近だった信西と藤原信頼が対立しました。信西は朝廷の改革を進める人物でしたが、信頼はそのやり方を気に入らず、源義朝と手を組んで信西を討つ計画を立てました。
③平清盛の不在
1159年12月、平清盛が熊野詣に出かけている間に、信頼と義朝はクーデターを起こしました。京都にいた信西は逃げましたが、すぐに捕まり、自害しました。こうして、藤原信頼と源義朝が政権を握ったのです。
しかし、この後、平清盛が京都に戻り、すぐに反撃を開始しました。これが平治の乱の本格的な戦いの始まりです。
平治の乱の戦いの流れを時系列で簡単にまとめる
1. 1159年12月9日:藤原信頼・源義朝がクーデター
- 藤原信頼と源義朝が、信西の屋敷を襲撃し、信西を討つ
- 後白河上皇を味方につけて、新しい政権を作る
2. 1159年12月25日:平清盛が帰京し、反撃を開始
- 紀伊国(和歌山県)から急いで帰京
- 二条天皇を六波羅へ移動させ、信頼・義朝討伐を決意
3. 1159年12月26日:六波羅合戦が勃発
- 平清盛が軍勢を集め、藤原信頼・源義朝と戦う
- 戦いは平清盛の圧勝で、源義朝は敗走する
4. 1159年12月29日:源義朝、逃亡先で家臣に裏切られ殺害
- 東国へ逃げる途中、家臣の長田忠致(おさだただむね)に裏切られ、入浴中に殺害される
5. 1160年1月3日:藤原信頼、処刑される
- 捕えられた藤原信頼は、六条河原で斬首
- 源義朝の息子、源頼朝は助命され、伊豆へ流される
平治の乱の勝者と敗者、それぞれの運命とは
平治の乱の結果、勝者と敗者の運命は大きく分かれました。
勝者:平清盛
- 武士として初めて太政大臣になり、朝廷での地位を確立
- 平氏の全盛期を迎え、「平家にあらずんば人にあらず」と言われる時代が到来
敗者:源義朝
- 家臣に裏切られ、尾張で殺害される
- 息子の源頼朝は助命され、伊豆へ流される(この後、鎌倉幕府を開く)
敗者:藤原信頼
- 平清盛に捕らえられ、処刑される
- 彼を支持していた貴族たちも処罰される
こうして、平治の乱は平清盛の圧勝で終わり、武士が政治の中心に進出する時代が始まりました。
平治の乱を簡単に解説:源平合戦や鎌倉幕府へのつながり

平治の乱の影響とは?その後の歴史をわかりやすく解説
平治の乱の影響は、後の日本の歴史に大きな変化をもたらしました。この戦いによって「平家の時代」が始まり、源氏は一時衰退しました。しかし、源義朝の息子である源頼朝が後に挙兵し、鎌倉幕府を開くことにつながっていきます。
① 平家が政治の中心となり、「平家政権」が確立
平治の乱の勝利により、平清盛は武士として初めて太政大臣に就任しました。これは武士が朝廷の中心で政治を動かす時代の始まりでした。平家の権力は絶大になり、「平家にあらずんば人にあらず」と言われるほどでした。
② 源氏が衰退し、頼朝が伊豆へ流される
平治の乱で敗れた源義朝は家臣の裏切りによって命を落としました。彼の息子源頼朝も捕らえられましたが、平清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)の嘆願により助命され、伊豆へ流されました。この出来事が後の源頼朝の鎌倉幕府につながっていきます。
③ 平家の横暴が激しくなり、反感を買う
平清盛が政権を握ると、平家の勢力は拡大しました。しかし、一族による政治の独占や朝廷への圧力が強まり、公家や武士の間で不満が募るようになります。これが後に「源平合戦(治承・寿永の乱)」の原因になります。
④ 源頼朝の挙兵と鎌倉幕府の成立
平家の支配が強まる中、1180年に源頼朝が挙兵しました。これをきっかけに「源平合戦」が始まり、最終的に1185年の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡しました。
その後、源頼朝は1192年に征夷大将軍となり、日本初の武家政権である鎌倉幕府を開きました。
平治の乱の重要ポイント!テスト対策に役立つまとめ
歴史のテストで「平治の乱」に関する問題が出たときに、しっかり答えられるようにポイントを整理しましょう!
① 平治の乱の年号と時代を覚える
「いいごく(1159)平治の乱」
→ 語呂合わせで年号を覚えましょう!「いい(1159)国(く)」と覚えると、平治の乱が起こった年を思い出せます。
② 誰が戦ったのか?
- 源義朝 vs 平清盛
- 藤原信頼 vs 藤原経宗・藤原惟方 → 源氏と平氏が対立した戦いだった!
③ なぜ起こったのか?
- 朝廷内部の権力争い(信西 vs 藤原信頼)
- 武士の出世争い(源義朝 vs 平清盛)
- 平清盛が不在の隙を狙ったクーデター
④ 平治の乱の結果
- 平清盛が勝利し、平家政権が確立
- 源義朝は敗れて殺害される
- 源頼朝は助命され、伊豆へ流される(後の鎌倉幕府のきっかけ)
平治の乱をもっと簡単に覚える!語呂合わせやクイズで暗記
歴史の出来事は、語呂合わせやクイズを使うと簡単に覚えられます。
① 平治の乱の語呂合わせ
- 「いいごく(1159)で戦った義朝(よしとも)と清盛(きよもり)」
- 「いいごく(1159)、源氏と平氏の戦い勃発!」
→ これを繰り返し口に出して言うと、自然と記憶に定着します!
② 〇×クイズで覚えよう!
- 平治の乱は、源義朝と平清盛の戦いである。(〇 or ×?)
→ 答え:〇 - 源義朝は戦いに勝利し、鎌倉幕府を開いた。(〇 or ×?)
→ 答え:×(義朝は敗北し、頼朝が後に鎌倉幕府を開く) - 平清盛は武士として初めて太政大臣になった。(〇 or ×?)
→ 答え:〇 - 平治の乱の後、平家の支配が強まり、「平家にあらずんば人にあらず」と言われた。(〇 or ×?)
→ 答え:〇
総括:平治の乱を簡単に解説!誰と誰が戦った?のまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 平治の乱とは?
- 1159年(平治元年)に京都で起こった政変
- 源氏(源義朝) vs 平氏(平清盛)の戦い
- 後白河上皇の側近の対立が発端
2. 誰と誰が戦った?
- 藤原信頼・源義朝の軍
- 藤原信頼(後白河上皇の側近)
- 源義朝(源頼朝の父、河内源氏の棟梁)
- 源義平(義朝の長男)
- 平清盛・藤原経宗の軍
- 平清盛(伊勢平氏の棟梁)
- 平重盛(清盛の息子)
- 藤原経宗・藤原惟方(信西の支持者、二条天皇派)
3. なぜ起こった?
- 武士の出世争い → 義朝が冷遇され、不満を持つ
- 朝廷内部の権力争い → 信西と藤原信頼の対立
- 平清盛の不在 → 熊野詣中に藤原信頼・義朝がクーデターを決行
4. 戦いの流れ(時系列)
- 1159年12月9日 → 信頼・義朝がクーデター、信西を討つ
- 1159年12月25日 → 清盛が帰京し、二条天皇を六波羅へ移す
- 1159年12月26日 → 六波羅合戦勃発、清盛が勝利
- 1159年12月29日 → 義朝が逃亡するも家臣に裏切られ殺害
- 1160年1月3日 → 藤原信頼が処刑される
5. 勝者と敗者
- 勝者:平清盛
- 武士として初めて太政大臣に就任
- 平家政権が確立し、武士が朝廷の中心へ
- 敗者:源義朝
- 裏切られ殺害される
- 息子の源頼朝は助命され、伊豆へ流される
- 敗者:藤原信頼
- 清盛に捕らえられ、処刑される
6. 平治の乱の影響
- 平家が政治の中心となり「平家政権」が確立
- 源氏が衰退し、源頼朝が伊豆へ流される(のちの鎌倉幕府につながる)
- 平家の横暴が激しくなり、貴族や武士の反感を買う
- 1180年、源頼朝が挙兵し、最終的に鎌倉幕府を開く
7. 平治の乱の覚え方(語呂合わせ)
- 「いいごく(1159)、源氏と平氏の戦い!」
- 「いいごく(1159)、義朝と清盛が激突!」
8. 平治の乱のテスト対策ポイント
- 年号:1159年(平治元年)
- 戦った勢力:源義朝 vs 平清盛
- 原因:武士の出世争い、朝廷内部の対立、清盛の不在
- 結果:平清盛が勝利し、平家政権が確立
- 源頼朝が伊豆へ流される(のちの鎌倉幕府につながる)