「徳川秀忠(とくがわ ひでただ)」という人物を知っていますか?

江戸幕府を開いた徳川家康の息子で、江戸幕府の2代目将軍になった人です。でも、家康や3代将軍の家光に比べると「目立たない」「地味」と言われがちです。

実は、秀忠こそが江戸幕府を強くして、260年以上も続く大きな基盤を作った人物なんです!戦には少し苦手な一面もありましたが、法律を作ったり、大名をしっかりまとめたりして、戦のない時代を作り上げました。

この記事では、「徳川秀忠がやったこと」をわかりやすく解説します!

徳川秀忠がやったこと一覧!何をした人か詳しく解説

まずは、徳川秀忠が行った重要なことを一つずつ見ていきましょう。幕府を強くした政策や、戦いでの活躍など、秀忠の人生を振り返ります。

徳川秀忠は江戸幕府の基盤を築いた!武家諸法度の制定と統制強化

徳川秀忠の一番の功績は、「武家諸法度(ぶけしょはっと)」という法律を作ったことです。この法律は、大名たちが勝手な行動をしないように決められたもので、「江戸幕府のルール」ともいえます。

例えば、次のようなことが決められました。

  • お城を新しく作ったり、勝手に直したりしてはいけない
  • 大名同士が幕府の許可なしに結婚してはいけない
  • 武士はしっかり勉強して、戦の訓練も続けること

この法律があったおかげで、大名たちは幕府の言うことを守らなければならなくなりました。その結果、戦争が減り、江戸時代は長く続いたのです。

関ヶ原の戦いに遅刻?徳川秀忠の「痛恨の大失態」とその影響

関ヶ原の戦いは、徳川家康が全国をまとめるきっかけになった大きな戦いです。しかし、このとき秀忠はなんと「遅刻」してしまいました!

秀忠は3万8千人の軍を率いて戦いに向かいましたが、途中で「上田城(うえだじょう)」に寄り道をしてしまいます。ここには真田昌幸(さなだ まさゆき)という武将がいて、秀忠はこの城を攻めようとしました。

しかし、真田軍の作戦に引っかかってしまい、城を落とすことができませんでした。結局、関ヶ原の戦いが終わった後に戦場に到着するという大失態…。

家康は「御不予(ごふよ)」(気分が悪い)と言って、しばらくの間、秀忠と顔を合わせなかったそうです。

しかし、この経験があったからこそ、秀忠は「もっとしっかりしなければ!」と考え、将軍になってからは、政治を真剣に行うようになりました。

豊臣家を滅ぼした決断!大坂の陣での役割と千姫との関係

関ヶ原の戦いの後も、豊臣家はまだ大阪城にいました。徳川家は「豊臣家がまた戦を起こすかもしれない」と考え、大坂冬の陣(ふゆのじん)と大坂夏の陣(なつのじん)で攻めることにしました。

このとき、秀忠は「総大将(そうだいしょう)」として6万人の軍を率いて出陣!家康とともに戦い、ついに豊臣家を滅ぼしました。

そして、この戦いには「千姫(せんひめ)」という女性も関わっています。千姫は、秀忠の娘で、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)という豊臣家の跡取りと結婚していました。戦が始まると、千姫は「豊臣家の命を助けてほしい」と父の秀忠にお願いしましたが、結局、豊臣秀頼とその母・淀殿(よどどの)は自害しました。

この戦いによって、徳川家は完全に日本を支配することになり、江戸時代が本格的に始まるのです。

鎖国政策の礎を築く!徳川秀忠の対外政策とキリスト教弾圧

秀忠の時代、日本にはポルトガルやスペインなどの外国の人が来ていました。しかし、彼らがキリスト教を広めることを幕府は問題視し始めます。

秀忠は「二港制限令(にこうせいげんれい)」を出し、外国の船が入れる港を「長崎(ながさき)と平戸(ひらど)」だけにしました。また、「キリスト教を禁止する命令」も出し、多くのキリスト教徒を処罰しました。

この政策は後に3代将軍の徳川家光に引き継がれ、最終的には鎖国(さこく)という形になります。

鎖国によって、日本は海外との関係をほとんど断ち、約200年もの間、自分たちだけで国を治めていくことになりました。

幕府と朝廷の関係を決定づけた!紫衣事件と天皇家への介入

江戸時代、天皇と幕府の関係はとても重要でした。秀忠は「天皇よりも幕府の方が強い」と示すために、紫衣事件(しえじけん)を起こします。

この事件では、天皇が高い位のお坊さんに紫色の服(紫衣)を着る許可を出したのですが、秀忠は「幕府に許可なく決めてはいけない!」と反対しました。
結局、天皇が決めたことを秀忠が無効にしてしまいます。

また、秀忠は自分の娘・和子(まさこ)を後水尾天皇(ごみずのおてんのう)に嫁がせることで、天皇家とのつながりを作りました。こうすることで、天皇の動きを幕府がコントロールしやすくなり、「幕府が日本の政治の中心」という考えがさらに強まりました。

徳川秀忠がやったこと人物像と晩年のエピソード

ここからは、徳川秀忠がどんな性格の人だったのか、また晩年はどのように過ごしたのかを見ていきましょう。家康や家光に比べて目立たない存在と言われがちですが、彼には彼なりの魅力や苦労がありました。

温厚で真面目?徳川秀忠の性格とエピソード

秀忠は「温厚で真面目な性格」と言われています。一見すると、戦国武将としては少し頼りなく思われるかもしれませんが、彼の強さは「忍耐力」と「冷静さ」にありました。

例えば、こんなエピソードがあります。あるとき、地震が起こったとき、周りの人たちはパニックになりました。しかし、秀忠だけは落ち着いて「揺れは強いが、ここで動くほうが危険だ」と冷静に指示を出しました。

また、家臣がミスをしてしまったときも、すぐに怒るのではなく、「なぜそうなったのか」をしっかり考える慎重な一面もありました。ただし、ルール違反に対してはとても厳しく、決まりを破った者には厳罰を下しました。

「戦にはあまり向いていなかったが、政治家としてはとても優秀だった」これが、秀忠の評価の一つです。

奥さんには頭が上がらなかった?徳川秀忠と正室・江の関係

徳川秀忠の正室(奥さん)は「江(ごう)」という女性でした。江は、豊臣秀吉の養女であり、浅井長政(あざい ながまさ)の娘でもあります。彼女はとても気が強く、秀忠は「尻に敷かれていた」と言われています。

実際にこんなエピソードがあります。秀忠が側室(そくしつ)を持とうとしたとき、江が大激怒!「正室である私に黙ってそんなことをするなんて許さない!」と強く抗議したそうです。

その結果、秀忠は側室を持たず、他の将軍と比べても「一途な人」として知られています。

しかし、この2人の間には愛情もありました。秀忠の死後、江は「彼の供養をしっかりしなければ」と言って、心を込めたお寺を建てています。戦国時代の夫婦関係としては珍しく、現代の価値観に近い関係だったのかもしれませんね。

江戸幕府の3代目を育てる!息子・家光との関係

秀忠の息子が、後に3代将軍となる「徳川家光(とくがわ いえみつ)」です。
しかし、秀忠と家光の関係は少し複雑でした。

実は、秀忠は「次男の忠長(ただなが)」のほうを将軍にしたがっていたと言われています。忠長は頭が良く、武勇にも優れた人物だったため、戦国武将としての理想に近かったのです。

しかし、家康が「将軍は家光にするべきだ」と決め、秀忠はそれに従いました。その後、秀忠は家光を厳しく教育し、「江戸幕府を続けるための知識や考え方」を徹底的に叩き込みました。

結果的に家光はとても優秀な将軍になり、江戸幕府の基盤をさらに強化しました。秀忠の厳しい教育が、江戸時代の安定につながったのです。

質素な葬儀を希望!徳川秀忠の晩年と最期

秀忠は将軍を引退した後、大御所(おおごしょ)として息子・家光を支えました。しかし、年を取るにつれて体調を崩すことが増え、1632年に亡くなります。

興味深いのは、秀忠の葬儀のやり方です。彼は「派手な葬儀はしないでくれ」と遺言を残し、実際にとても質素な形で葬儀が行われました。これは、父・家康の考えを受け継ぎ、「将軍も贅沢をするべきではない」と考えていたからかもしれません。

また、家康のように「神として祀(まつ)られる」ことも望まず、ひっそりと歴史に名を刻みました。

この謙虚な姿勢が、彼の本当の強さを表しているのかもしれませんね。

地味だけどすごい?徳川秀忠が評価される理由とは

秀忠は、家康や家光に比べて「地味な将軍」と言われがちです。しかし、実際には彼の功績があったからこそ、江戸時代が260年以上も続いたのです。

彼の評価をまとめると…

戦にはあまり向いていなかったが、政治手腕は抜群だった!
武家諸法度を作り、大名をしっかり統制した!
朝廷とも巧みに関わり、幕府の権威を強めた!
キリスト教を厳しく取り締まり、鎖国の基盤を作った!
将軍の息子・家光を厳しく教育し、幕府をさらに強くした!

「地味だけど重要なことをやり遂げた将軍」これこそが、徳川秀忠の本当の姿なのです!

総括:徳川秀忠がやったことまとめ一覧

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

1. 江戸幕府の基盤を築いた

  • 「武家諸法度」を制定し、大名を統制
  • 大名の結婚や築城を幕府の許可制にする
  • 江戸幕府の支配を強固にし、戦のない時代を作る

2. 関ヶ原の戦いに遅刻

  • 1600年、関ヶ原の戦いに向かう途中で上田城攻めに時間を取られる
  • 結果、戦いに間に合わず、家康に叱責される
  • これを反省し、将軍になってからは統治に力を入れる

3. 豊臣家を滅ぼし、完全な支配を確立

  • 1614年・1615年、大坂冬の陣・夏の陣で豊臣家を滅ぼす
  • 総大将として出陣し、幕府の権威を確立
  • 娘の千姫が豊臣秀頼に嫁いでいたが、助命は認めず

4. 鎖国政策の礎を築く

  • 「二港制限令」を出し、外国との貿易を長崎と平戸に制限
  • キリスト教を禁止し、信者を厳しく弾圧
  • この政策が後の鎖国へとつながる

5. 朝廷との関係を強化

  • 「紫衣事件」で天皇の決定を無効化し、幕府の権威を示す
  • 娘・和子を後水尾天皇に嫁がせ、天皇家を幕府の影響下に置く

6. 温厚で真面目な性格

  • 戦には向かないが、政治家としては優秀
  • 家臣には厳しいが、冷静で慎重な判断をする
  • 家臣や庶民のルール違反には厳罰を下す

7. 正室・江に頭が上がらなかった

  • 豊臣秀吉の養女・浅井江と結婚
  • 側室を持とうとしたが、江に反対され諦める
  • 江の死後、彼女の供養のためにお寺を建てる

8. 将軍・家光を育てる

  • 次男・忠長を将軍にしたかったが、家康の意向で家光が3代将軍に
  • 家光を厳しく教育し、幕府の安定に貢献

9. 質素な葬儀を希望

  • 1632年、54歳で死去
  • 「派手な葬儀をしないでほしい」と遺言を残す
  • 家康のように神格化されることを望まず、静かに歴史に名を刻む

10. 「地味だが重要な将軍」として評価

  • 戦国武将としては目立たないが、江戸幕府を盤石にした立役者
  • 彼の政策が260年続く江戸時代の基盤を作った
  • 「家康が幕府を開き、秀忠が安定させ、家光が完成させた」と評価される