江戸幕府の将軍の中で「暗愚の将軍」と呼ばれる人がいるのを知っていますか? それが、江戸幕府第13代将軍・徳川家定です。
でも、本当に彼は「愚か」だったのでしょうか? 実は近年、家定の評価が見直されていて、「実は賢かったのでは?」という説も出てきています。
今回の記事では、「徳川家定とはどんな人だったのか?」をわかりやすく解説します。彼の生い立ちや将軍としての役割、さらには「うつけのふり」をしていたのかどうかも考えていきましょう。
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徳川家定はどんな人?生い立ちから将軍就任まで
江戸幕府第13代将軍・徳川家定は、幕末の激動する時代に生まれました。彼は生まれつき体が弱く、将軍としての役割を果たせるのか疑問視されていました。しかし、最近の研究では「ただの暗愚な将軍ではなかったのでは?」という説も出てきています。
まずは、家定の生い立ちから見ていきましょう。
徳川家定とは?病弱で癇癪持ちとされた13代将軍
徳川家定(とくがわいえさだ)は1824年(文政7年)に生まれ、1853年(嘉永6年)に第13代将軍となりました。彼は、先代の12代将軍・徳川家慶(いえよし)の四男として生まれましたが、幼いころから病弱で、大勢の家臣から「将軍としてやっていけるのか?」と不安視されていました。
また、「癇癪(かんしゃく)持ち」とも言われ、すぐに怒る性格だったという記録も残っています。そのため、周りの家臣たちは家定を「扱いにくい」と思っていたようです。
しかし、彼の行動の裏には別の意図があった可能性もあります。後ほど「うつけのふりをしていたのか?」という点について詳しく見ていきましょう。
徳川家定の生い立ちと家族構成|父・家慶と母・本寿院
徳川家定の父は12代将軍・徳川家慶、母は側室の本寿院(ほんじゅいん)です。家定はもともと「政之助(まさのすけ)」と名付けられ、その後「家祥(いえさち)」と改名し、将軍になってから「家定」となりました。
父・家慶は、将軍としての力を発揮しようとしましたが、当時の江戸幕府はすでに衰退しつつあり、大奥の勢力が強かったために思うように政治を進めることができませんでした。母・本寿院は大奥での発言力が強く、家定の育ちにも大きな影響を与えたとされています。
また、家定には兄や姉がいましたが、ほとんどが幼くして亡くなり、成人まで生き残ったのは家定だけでした。そのため、家慶は病弱な家定を跡継ぎにせざるを得なかったのです。
徳川家定の性格は?本当に「暗愚」だったのか
歴史の教科書では、家定は「暗愚(あんぐ)の将軍」として紹介されることが多いです。しかし、最近の研究では「本当にそうだったのか?」という疑問が持たれるようになっています。
例えば、幕末の記録を残した人物の中には「家定は実は賢かったのではないか?」と述べる人もいます。また、外国の記録では、アメリカの総領事ハリスが「家定は冷静で、しっかりと話を聞いていた」と評価しています。
確かに病弱だったことは事実ですが、それがすぐに「愚か」ということにはなりません。もしかすると、家定は「愚かに見えるようにふるまっていた」のかもしれませんね。
将軍継嗣問題と家定の立場|幕府の存続をかけた決断
家定が将軍になったころ、幕府の中では「次の将軍を誰にするか?」という問題が発生しました。なぜなら、家定には子供がいなかったからです。
この問題をめぐり、「一橋派」と「南紀派」という二つのグループが対立しました。
- 一橋派(ひとつばしは)…徳川慶喜(よしのぶ)を次の将軍にしようとするグループ
- 南紀派(なんきは)…徳川慶福(よしとみ)を次の将軍にしようとするグループ
家定自身はどちらの味方をするか明言しませんでしたが、最終的には大老・井伊直弼(いいなおすけ)が南紀派を支持し、徳川慶福(のちの14代将軍・徳川家茂)が跡継ぎに決まりました。
この決定は、幕府の運命を大きく左右することになり、「安政の大獄」と呼ばれる大規模な弾圧へとつながっていきます。
徳川家定とうつけのふり|実は賢明だった?
ここで「うつけ」という言葉について説明しましょう。「うつけ」とは、わざと愚かなふりをして、相手を油断させることを意味します。織田信長も若い頃、「うつけ者」と呼ばれていましたが、実際はとても賢い戦略家でした。
家定も「暗愚」とされていましたが、本当にそうだったのでしょうか? もしかすると、彼は幕府内の争いに巻き込まれないように、わざと愚かにふるまっていたのかもしれません。
一方で、「家定は本当に病弱で、政治を動かす余裕がなかった」という説もあります。真実はわかりませんが、単なる「愚かな将軍」として片付けてしまうのはもったいない人物です。
徳川家定はどんな人?政策・対外関係・篤姫との関係
徳川家定は、政治の主導権を握ることは少なかったものの、幕府の中で重要な決断が行われた時代に将軍を務めました。また、彼の正室となった篤姫(あつひめ)との関係も注目される点です。
ここでは、家定が将軍として何をしたのかを詳しく見ていきましょう。
家定の時代に起こった出来事|ペリー来航と開国問題
家定が将軍になった1853年(嘉永6年)は、日本の歴史において大きな転換点でした。この年、アメリカのマシュー・ペリー提督が黒船を率いて浦賀に来航し、日本に開国を求めたのです。
当時、日本は「鎖国」をしていたため、多くの人々が「外国と貿易をするのは危険だ」と考えていました。しかし、ペリーは強硬な態度を取り、日本に開国を迫ります。家定自身は病弱だったため、外交の決断を自ら下すことはできませんでしたが、老中・阿部正弘(あべまさひろ)が中心となって対応しました。
その結果、幕府は1854年(嘉永7年)に「日米和親条約」を結び、日本はついに鎖国政策を終わらせることになりました。これにより、幕府の権威は大きく揺らぐことになります。
日米和親条約の影響と幕府の変化
日米和親条約によって、日本はアメリカと正式に交流を持つようになりました。この条約では、以下のようなことが決められました。
- 下田(しもだ)と函館(はこだて)を開港し、アメリカの船が補給できるようにする
- アメリカの船員を助けるためのルールを作る
- 日本とアメリカは平等な関係を持つ(しかし実際は不平等な内容だった)
この条約の締結により、日本にはさまざまな西洋文化が流入することになりました。しかし、国内では「幕府は外国に弱腰すぎる!」と反発する勢力も現れ、政治の混乱を引き起こします。
家定は、これらの問題に直接関わることはありませんでしたが、彼の時代に日本が大きな変化を迎えたことは間違いありません。
篤姫との関係|政略結婚の裏にあった想い
家定の正室となったのが、薩摩藩(さつまはん)出身の篤姫(あつひめ)です。篤姫はもともと薩摩藩主・島津家の血を引く女性でしたが、将軍家に嫁ぐために近衛家の養女となり、正式に公家の身分を得てから江戸城に入りました。
篤姫と家定の関係については、あまり詳しい記録が残っていません。しかし、家定が非常に病弱だったことから、夫婦としての時間は短かったと考えられます。一部の記録では、篤姫は家定をとても大切にしていたとも言われています。
家定の死後、篤姫は「天璋院(てんしょういん)」と名を改め、大奥に残り、幕府が滅亡するまで徳川家を守るために尽力しました。
家定の死因とその後の幕府の行方
家定は1858年(安政5年)7月6日、35歳の若さで亡くなりました。死因については「持病の悪化」「脚気(かっけ)」「中毒死」など、さまざまな説がありますが、病弱だったため長く生きられなかったことは確かです。
家定の死後、幕府では「安政の大獄」と呼ばれる事件が発生します。これは、大老・井伊直弼(いいなおすけ)が幕府に反対する人々を厳しく取り締まった出来事です。これにより、多くの志士や大名が処罰され、幕府の支配体制がさらに揺らぐことになりました。
最終的に、幕府は1867年に15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の大政奉還によって終わりを迎えます。家定の時代に始まった幕府の混乱は、そのまま幕末の動乱へとつながっていきました。
徳川家定の評価|暗愚な将軍か、それとも賢明な人物か?
徳川家定は「暗愚な将軍」と言われることが多いですが、実際にはそう単純な話ではありません。
- 病弱だったことは事実だが、判断力はあった可能性がある
- アメリカの総領事ハリスは、家定を「冷静な人物」と評価していた
- 幕府内の権力争いに巻き込まれないよう、あえて「愚かに見せていた」可能性もある
もし家定が健康で、もっと長く生きることができていたら、幕府はもう少し安定していたかもしれません。しかし、彼の時代はあまりにも激動の時代であり、病弱な家定がリーダーとして活躍するのは難しかったでしょう。
近年では、家定を単なる「愚かな将軍」とするのではなく、「時代の犠牲になった将軍」として再評価する動きもあります。
総括:徳川家定はどんな人かまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 徳川家定(とくがわ いえさだ)は江戸幕府第13代将軍(在位1853年~1858年)。
- 幼少期から病弱で癇癪持ちとされ、将軍としての資質を疑問視されていた。
- 父・家慶の跡を継ぎ、激動の幕末期に将軍に就任したが、政務は老中に任せることが多かった。
- ペリー来航(1853年)後、日本の開国を決定する「日米和親条約」が締結されたが、幕府内の混乱を招くことに。
- 次の将軍をめぐる「将軍継嗣問題」が発生し、一橋派(徳川慶喜支持)と南紀派(徳川慶福支持)が対立。
- 大老・井伊直弼が南紀派を支持し、徳川慶福(のちの家茂)が14代将軍に決定。
- 正室の篤姫(あつひめ)との結婚は政治的な目的が強かったが、篤姫は後に徳川家の存続に尽力。
- 1858年(安政5年)、35歳で病死(死因は持病悪化、脚気、中毒死など諸説あり)。
- 死後、幕府では「安政の大獄」が発生し、反対派が弾圧される。
- 「暗愚の将軍」と評価されることが多いが、近年では「戦略的にうつけのふりをしていた可能性」や「外国人からの評価は冷静で賢明」との見方もある。
- 結果的に、幕府の崩壊へとつながる混乱の時代の象徴的な将軍となった。