新選組の「鬼の副長」として有名な土方歳三(ひじかた としぞう)を知っていますか? 幕末を駆け抜け、最後まで幕府に忠誠を尽くした武士です。
しかし、その最期についてはさまざまな説があり、「本当に亡くなったのか?」と考える人もいるほどです。
この記事では、土方歳三の死因や最後の様子、さらには彼の辞世の句や生存説についても分かりやすく解説します!
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土方歳三の死因とは?何歳で亡くなったのか
土方歳三の死因については、長年にわたりさまざまな説が語られてきました。戦場での死というのは、当時の武士にとっては一般的なことではありましたが、土方の最期はその後の日本史にも大きな影響を与えました。
ここでは、土方歳三の死因について、その詳細を徹底解説します。
土方歳三の死因は「銃撃による失血死」が定説
土方歳三の死因として最も有力なのは「銃弾を受けたことによる失血死」です。彼が亡くなったのは、1869年(明治2年)5月11日、函館戦争の最中でした。
函館・五稜郭の南にある「一本木関門」という場所で、土方は馬に乗って戦いの指揮をとっていました。ところが、戦闘中に敵の銃弾が腹部に命中。馬から落ち、そのまま絶命したとされています。
当時、すでに幕府軍は劣勢でしたが、土方の指揮力によって何とか持ちこたえていました。しかし、彼が戦死したことで味方の士気は大きく下がり、それからわずか6日後の5月17日に旧幕府軍は降伏しました。
土方歳三の遺体はどこに?未だに見つからない理由
実は、土方歳三の遺体は今も見つかっていません。歴史に名を残した偉人の多くは、お墓があり、遺骨が残されているものですが、彼の場合は例外です。その理由として、いくつかの説が考えられます。
① 味方が敵に遺体を奪われないよう隠した説
当時、新政府軍(官軍)は、倒した敵の首を持ち帰ることで手柄を認められる仕組みがありました。そのため、土方の部下たちは彼の遺体を持ち去られないよう、密かに埋葬した可能性があります。
② 戦闘の混乱の中、埋葬された説
函館戦争では多くの兵士が亡くなり、土方もその中に埋もれてしまった可能性があります。戦後、新政府軍が戦死者をまとめて葬ったため、個別の遺体が分からなくなったのかもしれません。
③ 実は生き延びていた?生存説につながる説
遺体が見つかっていないことから、「土方歳三は生きていたのでは?」という生存説もあります。これについては後ほど詳しく解説します。
土方歳三暗殺説?榎本武揚との確執の可能性
実は、土方歳三は「味方に暗殺されたのではないか?」という説もあります。その背景には、旧幕府軍のリーダーの一人榎本武揚(えのもと たけあき)との確執があったのではないかと言われています。
土方は最後まで戦い続ける覚悟を決めていました。しかし、榎本武揚は「新政府と和平交渉をしたほうがよい」と考えていたため、土方の強硬な姿勢が邪魔だったとも考えられます。
また、土方の死からわずか6日後に旧幕府軍が降伏したことも、暗殺説を後押ししています。「土方さえいなければ、早く降伏できた」と考えた一部の勢力が、彼を裏切った可能性もゼロではありません。
土方歳三生存説?ロシア亡命説や『ゴールデンカムイ』の影響
土方歳三には「実は生きていたのでは?」という説が昔からささやかれています。その中でも有名なのがロシア亡命説です。この説によると、土方は函館戦争で死んだふりをして、その後ロシアへ逃れたと言われています。
この生存説は、近年大人気となった漫画『ゴールデンカムイ』でも採用され、作中では年老いた土方歳三が登場しました。
もちろん、これはフィクションですが、「もし土方が生きていたら?」というファンの想像をかきたてる設定になっています。
土方歳三の辞世の句「鉾取りて~」に込められた意味
土方歳三は最後の戦いに向かう前に、辞世の句を残したとされています。その一つが以下の句です。
「鉾(ほこ)取りて 月見るごとに思うかな 明日は屍(かばね)の上に照るかと」
この句の意味は、「槍を手に戦いながら月を見るたびに思う。明日は自分の亡骸の上に、この月が照るのだろうか」というものです。土方は戦場で死ぬことを覚悟しており、それを和歌の形で表現していました。
また、もう一つの有名な辞世の句には、
「よしや身は 蝦夷が島辺に朽ちぬとも 魂(たま)は東(あずま)の 君やまもらむ」
というものがあります。これは、「たとえ自分の肉体は北海道で朽ち果てようとも、魂は東(江戸)の将軍を守り続ける」という意味です。
この辞世の句からも、土方歳三が最後まで幕府に忠誠を尽くしていたことが伝わってきます。
土方歳三の死因の後に:最後の戦い(函館戦争)の様子
土方歳三が迎えた最期の戦い、函館戦争での激闘は、彼の忠義と覚悟を証明するものでした。その戦いでは、土方歳三がどのように戦い、そして最期を迎えたのかが注目されています。
土方歳三はなぜ函館にいたのか?新選組から旧幕府軍へ
土方歳三が最期を迎えた地、函館(蝦夷地)にいた理由を説明しましょう。
もともと彼は新選組の副長として、幕府のために戦っていました。しかし、1868年に始まった戊辰戦争(ぼしんせんそう)で幕府が劣勢になり、新選組も敗退を重ねます。
近藤勇が処刑され、沖田総司も病に倒れた後、土方は残された隊士たちとともに戦い続けました。会津戦争で敗北した後、彼は榎本武揚が率いる旧幕府軍と合流し、北海道へ向かいます。 こうして土方は「蝦夷共和国」という新しい国を作り、新政府軍に対抗しようとしました。
土方は蝦夷共和国の軍司令官として、箱館(函館)五稜郭の防衛を指揮します。しかし、明治新政府軍の圧倒的な力の前に、旧幕府軍は次第に追い詰められていきました。
函館戦争での土方歳三の活躍「鬼の副長」最後の戦い
函館戦争(箱館戦争とも言う)は、旧幕府軍が最後の抵抗を見せた戦いです。土方歳三はこの戦争でも戦場の最前線に立ち、勇猛果敢に戦いました。
彼は軍の「陸軍奉行並(りくぐんぶぎょうなみ)」という役職につき、五稜郭の守備を担当していました。特に、最前線となる「一本木関門」での戦いでは、自ら兵を指揮し、果敢に戦い続けました。
しかし、戦況は次第に悪化します。新政府軍は優れた武器と戦術で攻め込み、旧幕府軍の拠点は次々に陥落。ついに、土方歳三が戦死する5月11日を迎えることになります。
土方歳三戦死!一本木関門での最期の瞬間
1869年(明治2年)5月11日、戦況は最悪の状態になっていました。土方歳三は一本木関門という場所で馬に乗り、兵を鼓舞しながら戦っていました。
ところが、その最中に銃弾が腹部を貫通!
土方はそのまま落馬し、地面に倒れました。彼の部下である大野右仲が駆け寄ったときには、すでに息絶えていたと言われています。
戦場では「討ち死に」を覚悟する武士も多かったですが、土方の死は味方の士気を大きく下げました。彼が戦死したことで、旧幕府軍の抵抗は完全に崩れ落ち、わずか6日後の5月17日、五稜郭は降伏しました。
土方歳三は、最後まで幕府に忠誠を尽くし、戦場で命を落としたのです。
土方歳三の死後、五稜郭の降伏とその後
土方の死後、旧幕府軍は総崩れとなり、榎本武揚をはじめとする幹部たちは降伏しました。 こうして、戊辰戦争は幕を閉じ、日本は新政府の時代へと移り変わっていきます。
興味深いのは、榎本武揚は投獄された後、明治政府に迎えられ、外交官として活躍したことです。一方、土方歳三のように最後まで戦い抜いた者たちは歴史の中で語り継がれることとなりました。
土方の墓は東京都日野市の「石田寺」にありますが、彼の遺体は発見されていません。 これが、彼の「生存説」につながる理由の一つです。
土方歳三の人気の理由とは?後世に語り継がれる「最後の武士」
なぜ、土方歳三は今でも多くの人に愛されているのでしょうか? その理由の一つは、彼が「最後の武士」としての生き方を貫いたからです。
✅ 新選組の副長として、厳格な規律を守った
✅ 幕府が崩壊しても、最後まで戦い続けた
✅ 仲間を大切にし、戦場で共に散った
さらに、土方の辞世の句や彼の美学を貫いた生き方が、多くの人の心を打ちます。彼の最期はまさに「戦う男の生き様」そのものであり、それが後世の人々の憧れを集めているのです。
また、小説や映画、漫画『ゴールデンカムイ』などの影響もあり、土方歳三は現代でも非常に人気の高い歴史上の人物となっています。
総括:土方歳三の死因まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 死因の定説:1869年(明治2年)5月11日、函館戦争の最中に一本木関門で 銃弾を受けて戦死(失血死) したとされる。
- 遺体が未発見の理由:
- 味方が敵に奪われるのを防ぐため隠した可能性
- 戦場の混乱の中で埋葬された可能性
- 生存説の根拠にもなっている
- 暗殺説の存在:
- 旧幕府軍の降伏を望んでいた 榎本武揚との確執 により、味方に暗殺された可能性も指摘されている。
- 生存説:
- 「ロシア亡命説」などがあり、一部では函館戦争後に生き延びたという説も語られる。
- 漫画『ゴールデンカムイ』でも生存説が採用されている。
- 辞世の句:
- 「鉾取りて~」:戦場で死ぬ覚悟を表した和歌
- 「よしや身は~」:死後も幕府を守るという忠誠心を示した句
- 最後の戦い(函館戦争):
- 新政府軍との戦いで奮闘するも、最前線で戦死。
- 土方の死により旧幕府軍は士気を失い、6日後に降伏。
- 死後の影響:
- 幕府側の最期を象徴する人物として語り継がれる。
- 榎本武揚は降伏後に明治政府の外交官として活躍。
- 後世の人気の理由:
- 最後まで信念を貫いた「最後の武士」
- 小説・映画・漫画での影響
- 新選組副長としての厳格な規律や忠義の生き方が、多くの人の心を打つ。