今日は「葛飾北斎」と「歌川広重」の違いについて、塾長が分かりやすく解説します。

「北斎と広重って、どっちがすごいの?」と気になる人も多いでしょう。実はこの二人、同じ浮世絵師でもまったく違う作風を持っています。北斎はダイナミックな構図で見る人を驚かせ、広重は雨や霧を繊細に描き、しっとりとした雰囲気を大切にしました。

この記事では、二人の作品の違いや、どんな影響を与え合ったのかを詳しく見ていきます。最後まで読むと、浮世絵を見るのがもっと楽しくなるはずですよ!

葛飾北斎と歌川広重の違いを比較!どこがどう違うのか?

葛飾北斎と歌川広重は、浮世絵の歴史において重要な役割を果たした二大絵師です。彼らの作品は、同じ時代に活躍していたものの、その画風やアプローチには大きな違いがありました。

ここでは、二人の違いを作品を通して比較し、どのように浮世絵界で独自の道を切り開いたのかを詳しく見ていきます。

葛飾北斎と歌川広重の違いを一覧表で比較!

まずは、北斎と広重の違いを表にして分かりやすくまとめてみました。

比較項目葛飾北斎歌川広重
生年1760年1797年
作風ダイナミックな構図、大胆なデザイン叙情的で繊細、雨や霧の表現が得意
代表作『富嶽三十六景』『東海道五十三次』
得意ジャンル風景画・人物画・妖怪画など幅広い風景画(名所絵)に特化
使用した色プルシアンブルー(ベロ藍)ヒロシゲブルー(藍色)
海外への影響印象派(ゴッホ・モネ)に影響ヨーロッパで情緒的な風景画として評価

これを見ると、二人の作風が全く違うことがよく分かりますね。

葛飾北斎のダイナミックな構図と歌川広重の叙情的な表現

北斎の絵は、まるで動き出しそうなほどエネルギッシュな構図が特徴です。たとえば『富嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」は、大きな波が船を飲み込もうとする迫力ある構図。波しぶきが鋭く描かれていて、まるで水しぶきが飛んできそうな臨場感があります。

一方、広重の作品は、落ち着いた雰囲気が魅力です。『東海道五十三次』では、雨や雪、霧を巧みに描き、旅人たちの生活や気持ちが伝わってくるような作品が多いです。たとえば、「庄野 白雨」は、大雨が降る中を旅人が急いでいる様子を描いた作品で、広重独特の「雨の線」が特徴です。

このように、北斎は「動」を、広重は「静」を感じさせる画風なのが大きな違いです。

代表作の違い:「富嶽三十六景」と「東海道五十三次」

北斎の代表作といえば、『富嶽三十六景』です。このシリーズでは、富士山をさまざまな角度から描いており、「赤富士」として有名な「凱風快晴」や、波が迫る「神奈川沖浪裏」が有名ですね。北斎は、富士山をただの山として描くのではなく、見る人が驚くような構図で表現しました。

一方、広重の代表作は『東海道五十三次』です。このシリーズでは、江戸から京都までの宿場町の風景を描いています。広重の作品は、ただの風景ではなく、そこに住む人々の生活や旅の情景が描かれ、見ていると江戸時代の旅の雰囲気が伝わってきます。

同じ「風景画」でも、北斎は「ドラマチックに」、広重は「しみじみと旅情を感じさせる」ように描いたのです。

使用した技法の違い:プルシアンブルーとヒロシゲブルー

北斎と広重は、どちらも「青色」を効果的に使いましたが、その種類が違います。

北斎は、ヨーロッパから輸入された「プルシアンブルー(ベロ藍)」を使い、深みのある青色を表現しました。これは西洋絵画でも使われる顔料で、北斎の浮世絵に力強さを与えています。

一方、広重が使ったのは「ヒロシゲブルー」と呼ばれる独特の藍色。雨や霧を描く際に、この青が美しく映え、情緒的な雰囲気を生み出しました。特に「名所江戸百景」では、この色が効果的に使われています。

この「青色の違い」も、二人の絵の印象を大きく変える要素の一つです。

生涯と作風の変化 :成長し続けた北斎と安定した広重

北斎は、「絵を描けば描くほど成長する」と考えていたため、90歳近くまで新しい表現を模索し続けました。彼は「100歳になったら本当の画家になれる」と言っていたほどです。

一方、広重は、40代で『東海道五十三次』を発表して以降、安定した作風を保ちました。晩年には『名所江戸百景』を発表し、旅人の視点を大切にした作品を描き続けました。

このように、北斎は「革新の画家」、広重は「情緒の画家」と言えるでしょう。

葛飾北斎と歌川広重の違い:ライバル関係?

北斎と広重は、同じ浮世絵師でありながら作風が大きく異なることを前半で解説しました。では、二人は本当にライバルだったのでしょうか? 直接競い合っていたのか、それとも互いに影響を受けたのか?

ここからは、二人の関係について深掘りしていきます。

葛飾北斎と歌川広重はライバルだったのか?

結論から言うと、北斎と広重は「直接的なライバルではなかった」と考えられます。なぜなら、二人は37歳も年が離れており、活動時期にズレがあるからです。

北斎が『富嶽三十六景』を発表したのは70歳の頃(1831年ごろ)。一方、広重が『東海道五十三次』を発表したのは37歳の頃(1833年ごろ)。つまり、広重が風景画を描き始めた頃には、北斎はすでに第一線で活躍する大ベテランでした。

また、北斎と広重が直接交流した記録は残っていません。しかし、広重は北斎の作品に影響を受けていると考えられるため、「憧れの存在」として見ていた可能性は高いです。

ライバルというより、「師匠と後輩」のような関係だったかもしれませんね。

広重は北斎の影響を受けた?

広重の作品には、北斎の影響が見られるものがあります。たとえば、北斎の『富嶽三十六景』の「尾州不二見原」と、広重の「葛飾翁の図にならいて」という作品を比べると、非常に似た構図になっています。

広重がこの作品を発表したのは1836年で、『富嶽三十六景』が出たわずか数年後。広重は北斎の画風を学び、自分の作品に取り入れた可能性が高いのです。

ただし、広重は北斎の模倣にとどまらず、自分の個性を加えました。北斎のダイナミックな構図を基に、より叙情的な雰囲気を作り出したのが広重の特徴です。

北斎は広重をどう思っていた?

では、北斎は広重のことをどう思っていたのでしょうか? 実は、北斎は広重が『東海道五十三次』を発表した頃から、木版画をやめ、肉筆画(手描きの絵)に力を入れるようになりました。

この流れを見て、「もしかすると、北斎は広重の人気に押されて版画から離れたのでは?」と考える人もいます。

また、北斎は「自分は100歳まで生きれば本当に素晴らしい絵が描ける」と言っていたことからも分かるように、常に新しいことに挑戦し続けていました。もしかすると、広重の登場によって「新しいことをしなければならない」と感じ、肉筆画にシフトしたのかもしれません。

ライバル関係というより、広重が北斎の背中を追い、北斎もまた広重の成功を見て刺激を受けた、という関係だったのでしょう。

海外での評価の違い:北斎は印象派で広重はジャポニスム

北斎と広重の作品は、日本だけでなく海外でも高く評価されました。ただし、評価のされ方には違いがあります。

北斎は、フランスの画家ゴッホやモネに影響を与え、「近代絵画の父」とまで言われました。特に『富嶽三十六景』のダイナミックな構図は、西洋画の遠近法とは違う斬新な視点を持っていたため、印象派の画家たちに大きなインスピレーションを与えました。

一方、広重は「ジャポニスム」と呼ばれる19世紀ヨーロッパの日本ブームの中で人気を集めました。広重の作品は、静かで情緒的な風景が特徴的で、西洋の画家たちは彼の「青色(ヒロシゲブルー)」に注目しました。

つまり、北斎は「革新の画家」として西洋美術に影響を与え、広重は「日本的な美しさを伝えた画家」として愛されたのです。

どっちが人気? 現代での評価と美術館巡り

では、現代ではどちらの方が人気なのでしょうか?

実は、知名度で言えば「北斎の方が圧倒的に有名」です。北斎の『神奈川沖浪裏』は日本だけでなく、世界中で知られています。2024年からの新千円札にも採用され、ますます知名度が上がっています。

しかし、美術館巡りをする人の間では「広重の風景画の方が好き」という人も多いです。広重の作品は、北斎ほどインパクトは強くないものの、静かで心に染みる魅力があります。

二人の作品をじっくり楽しむなら、以下の美術館がおすすめです!

北斎の作品が見られる美術館

  • すみだ北斎美術館(東京)
  • 太田記念美術館(東京)

広重の作品が見られる美術館

  • 静岡市東海道広重美術館(静岡)
  • 太田記念美術館(東京)

ぜひ、実際の作品を見て、自分の好みの浮世絵師を見つけてみてくださいね!

総括:葛飾北斎と歌川広重の違いまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

比較項目葛飾北斎歌川広重
生年1760年1797年
作風ダイナミックな構図、大胆なデザイン叙情的で繊細、雨や霧の表現が得意
代表作『富嶽三十六景』『東海道五十三次』
得意ジャンル風景画・人物画・妖怪画など幅広い風景画(名所絵)に特化
使用した色プルシアンブルー(ベロ藍)ヒロシゲブルー(藍色)
海外への影響印象派(ゴッホ・モネ)に影響ヨーロッパで情緒的な風景画として評価