みなさんは、江戸幕府の将軍の中で、わずか20歳という若さで亡くなった人物がいることを知っていますか? それが徳川家茂(とくがわ いえもち)です。彼は江戸幕府第14代将軍として、日本の政治を背負った人物ですが、病によって突然この世を去ってしまいました。

では、徳川家茂はなぜ亡くなってしまったのでしょうか?

脚気(かっけ)という病気が原因とされていますが、実はそれだけではなく、虫歯やストレス、さらには暗殺説までさまざまな話があるのです。

この記事では、家茂の死因を「脚気衝心(しょうしん)」を中心に、その他の説や最後の様子まで詳しく解説していきます。歴史が好きな人はもちろん、勉強のために知りたい人にも分かりやすく説明するので、ぜひ最後まで読んでみてくださいね!

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徳川家茂の死因は何だったのか?有力な説を徹底解説

徳川家茂の死因については、歴史の中でさまざまな説が語られてきました。その中で特に有力とされているのが、「脚気衝心(かっけしょうしん)」という病気です。

しかし、虫歯が悪化したことや、当時の政治的状況を考えると、他の要因もあったのではないかと考えられています。ここでは、家茂の死因に関する説を一つずつ解説していきます。

徳川家茂の死因は「脚気衝心」が有力とされる

脚気とは、ビタミンB1(チアミン)が不足することで発症する病気です。当時の日本では白米ばかりを食べる生活習慣があり、ビタミンB1を摂取する機会が少なかったため、多くの人がこの病気にかかっていました。

特に、将軍や貴族など贅沢な暮らしをしていた人々の間では、脚気は「江戸患い(えどわずらい)」とも呼ばれるほど一般的な病気だったのです。

脚気になると手足のしびれやむくみ、疲れやすさなどの症状が現れます。さらに重症化すると心臓に負担がかかり、心不全を引き起こすことがありました。これが「脚気衝心」と呼ばれる状態で、家茂の死因として最も有力な説とされています。

家茂は死の直前、足がむくみ、座ることも困難だったという記録があります。このことからも、脚気が悪化し、心臓に大きなダメージを与えた可能性が高いのです。

徳川家茂は虫歯が原因で健康を悪化させた?

徳川家茂は大の甘党(あまとう)だったことで知られています。彼が好んで食べていたのはようかん、金平糖、氷砂糖、カステラなど、とにかく甘いものばかり!

そのため虫歯がひどく、現代の研究によると31本中30本の歯が虫歯だったそうです。

虫歯は単なる「歯の病気」と思われがちですが、放置すると体全体の健康に悪影響を与えることが分かっています。例えば、虫歯菌が血液に侵入すると心臓や脳の病気を引き起こす可能性があるのです。

家茂はすでに脚気で体が弱っていたため、虫歯の影響がさらに悪化したと考えられています。

徳川家茂は暗殺された?「毒殺説」の真相

徳川家茂の死には、「暗殺されたのではないか?」という説もあります。幕末の日本は、幕府と反幕府勢力の間で政治的な争いが続いていました。その中で、次期将軍の座を狙う一橋派(ひとつばしは)と呼ばれるグループが、家茂を毒殺したのでは?という話もあったのです。

特に、家茂の養母である天璋院(てんしょういん)篤姫は、「家茂の顔が黒ずんでいた」と証言し、毒殺を疑っていました。しかし、当時の医学では正確な死因を特定することができなかったため、本当に毒殺されたのかどうかは今でも分かっていません。

家茂の死因はストレスと過労も関係していた?

家茂はわずか13歳で将軍になり、日本の政治を背負うことになりました。そのため、大きなストレスを抱えながら生活していたことは間違いありません。

彼の時代は幕府の存続が危うい時期であり、孝明天皇との関係や、長州藩(ちょうしゅうはん)との戦争など、次々と問題が発生していました。これらのプレッシャーによって体調を崩し、免疫力が低下していた可能性も考えられます。

徳川家茂の死因まとめ – どの説が最も有力なのか?

これまで紹介した4つの説をまとめると、以下のようになります。

  1. 脚気衝心(かっけしょうしん) → 最も有力な説。ビタミンB1不足が原因
  2. 虫歯が悪化した影響 → 栄養不足を招き、脚気を悪化させた可能性
  3. 毒殺説 → 証拠はないが、天璋院が疑っていた
  4. ストレスと過労 → 幕末の激動期、将軍としての責務が健康を蝕んだ

こうした状況を考えると、家茂の死因は「脚気が最も大きな要因」であり、そこに虫歯の悪化やストレスが重なったことで、若くして亡くなってしまったと考えられます。

徳川家茂の死因:最後の様子&何歳で死んだのか

徳川家茂はわずか20歳(満21歳)という若さで亡くなりました。彼の死は幕府にとっても大きな衝撃であり、結果として幕府崩壊を早める要因にもなりました。

ここでは、彼の最期の様子や、どのように歴史に影響を与えたのかについて詳しく解説します。

徳川家茂は20歳で急死!死の直前の体調悪化

家茂は1866年(慶応2年)7月20日、大阪城で亡くなりました。 享年20歳(満21歳)でした。死の数ヶ月前から深刻な体調不良を訴えており、その症状は典型的な脚気の進行状態に一致していました。

特に記録に残っている症状は、

  • 胸の痛みを訴える(心不全の兆候)
  • 足のむくみがひどく、座ることもできない状態
  • 嘔吐や極度の倦怠感(体力の消耗)

そして、7月19日になると急激に容態が悪化。翌20日の朝7時ごろに静かに息を引き取ったとされています。彼の死は、幕府にとっても非常に大きな衝撃となりました。

徳川家茂の最期の言葉

家茂の最後の言葉について、公式な記録は残っていません。しかし、彼は死の直前に遺言を残していたことが知られています。

その内容は、次の将軍として田安亀之助(後の徳川家達)を指名するというものです。しかし、この遺言は無視され、結局一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)が第15代将軍に就任しました。

もし家茂が生き続けていたら、幕府の未来は違ったものになっていたかもしれません。家茂は非常に誠実な人物だったと言われており、彼の死がなければ徳川幕府はもう少し長く続いていた可能性もあるのです。

死後の処置:徳川家茂の遺体はどこに埋葬されたのか

家茂の遺体は、亡くなった後は大阪から江戸に運ばれました。 その際、船を使って海路での移送が行われました。

彼の遺体は、徳川将軍家の菩提寺である「増上寺(ぞうじょうじ)」に埋葬されました。現在でも、増上寺には家茂のお墓があり、徳川家の歴代将軍とともに眠っています。

また、1958年(昭和33年)に増上寺で墓地の改葬(改めて整備し直すこと)が行われた際、

  • 家茂の身長は156.6cm だったこと
  • 血液型はA型 だったこと
  • 虫歯の状態が極めて悪かったこと(31本中30本が虫歯)

が判明しました。これにより、彼が非常に甘いものを好んでいたことや、栄養状態が悪かったことが医学的にも証明されたのです。

家茂の死が幕府に与えた影響

家茂の死は幕府にとって非常に大きな打撃でした。なぜなら、彼の死後、すぐに幕府の終わりが近づいてきたからです。

  • 家茂の死後、一橋慶喜が第15代将軍に就任
  • その2年後の1868年(慶応4年)、幕府は「大政奉還」を行い、事実上崩壊
  • その後、戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まり、幕府は完全に終焉を迎える

このことから、家茂の死は江戸幕府が終わるきっかけになったとも言えるのです。もし彼がもう少し長生きしていたら、歴史は違っていたかもしれませんね。

総括:徳川家茂の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

1. 徳川家茂の死因について

  • 徳川家茂(第14代将軍)は 20歳(満21歳)で急死 した。
  • 死因の最有力説は 「脚気衝心(かっけしょうしん)」 で、ビタミンB1不足による心不全。
  • 31本中30本が虫歯 だったことが判明しており、虫歯による健康悪化の影響も考えられる。
  • ストレスや過労 も免疫力を低下させ、死因に関係した可能性がある。
  • 毒殺説 もあるが、確かな証拠はなく、養母の天璋院が疑っていた。

2. 徳川家茂の最後の様子

  • 死の数ヶ月前から 足のむくみや胸の痛み を訴えていた。
  • 嘔吐や極度の倦怠感 が続き、最後は座ることも困難な状態だった。
  • 1866年7月20日、大阪城で 朝7時ごろに息を引き取る

3. 家茂の遺言と死後の処置

  • 次期将軍に田安亀之助(後の徳川家達)を指名 するも、無視され 一橋慶喜 が将軍に。
  • 遺体は大阪から江戸へ運ばれ、 徳川家の菩提寺「増上寺」 に埋葬された。
  • 1958年の墓地改葬で 身長156.6cm・血液型A型 だったことが判明。

4. 家茂の死が幕府に与えた影響

  • 家茂の死後、幕府は急速に衰退
  • 1867年に「大政奉還」が行われ、幕府崩壊 の流れへ。
  • もし家茂が長生きしていたら、幕府存続の可能性もあった かもしれない。