「院政」という言葉を聞いたことがありますか?
「天皇が政治をするのではなく、上皇が政治を動かした時代」と言われても、なぜそんなことが起こったのか、どうして必要だったのかが分からないと、覚えにくいですよね。
この記事では、塾長の私が「院政とは何か」を簡単に分かりやすく解説します。さらに、院政が始まった理由や、どんな人が関わっていたのかについても詳しく見ていきます。
院政とは何か簡単に?意味や仕組みをわかりやすく解説

院政は、平安時代の後半に登場した新しい政治の形です。
従来の天皇中心の政治とは異なり、天皇を退いた上皇が実権を握り、政治を動かしました。この制度によって、日本の政治は大きく変化し、その後の武士の台頭にもつながっていきます。
それでは、院政の意味や仕組みを詳しく見ていきましょう。
院政とは?簡単に言うと「上皇が政治を行う仕組み」
院政とは、簡単に言うと「天皇を引退した上皇が政治を動かす仕組み」のことです。普通、天皇は国のトップとして政治を行いますが、院政の時代では、天皇の代わりに上皇が政治の決定をしていました。
なぜ「院政」と呼ばれるのでしょうか?これは、上皇が住んでいた屋敷が「院」と呼ばれていたことが関係しています。上皇が政治を行うようになると、その「院」から発せられる命令が、朝廷の決定と同じくらいの力を持つようになりました。これが「院政」の始まりです。
院政が始まる前の日本では、天皇の力が強い時代と、藤原氏のような貴族が実権を握る時代が交互にありました。しかし、平安時代後期になると、新しい政治の形として院政が登場し、天皇が直接政治を行わないという特徴を持つようになったのです。
院政の目的とは?上皇が政治を行った理由
では、なぜ上皇がわざわざ政治を動かしたのでしょうか?実は、院政にはいくつかの重要な目的がありました。
1つ目は、皇位の安定です。天皇が即位すると、その後に誰が次の天皇になるかが問題になります。上皇が政治を握ることで、自分の子や孫が確実に天皇になれるよう調整できるのです。
2つ目は、貴族の力を抑えることです。平安時代の前半では、藤原氏という貴族が「摂政」や「関白」として、天皇よりも強い権力を持っていました。しかし、上皇が政治を行うことで、藤原氏の力を弱めることができました。
3つ目は、自分の思い通りの政治を行うことです。天皇には格式や伝統があるため、自由に政治を動かすことが難しい場合もあります。しかし、上皇はすでに天皇を退位しているため、より柔軟に政策を実行できました。
このように、院政は「皇位の安定」「貴族の力の抑制」「自由な政治運営」の3つの目的を持っていたのです。
院政の仕組みを簡単に!誰がどんな役割を果たしていたのか
院政が行われた時代には、さまざまな人物が関わりました。それぞれの役割を理解することで、院政の仕組みがより分かりやすくなります。
- 上皇(院):政治の実権を握る存在。院宣(いんぜん)という命令書を出し、政治を動かした。
- 天皇:名目上のトップだが、実際には上皇の決定に従うことが多かった。
- 摂関家(せっかんけ):藤原氏の一族で、天皇を補佐する役割を担っていたが、院政が始まると権力を失っていった。
- 院近臣(いんのきんしん):上皇に仕えた側近のこと。武士も含まれることがあり、武士の力が強まるきっかけになった。
- 武士:上皇を守るために雇われ、次第に力を持つようになった。
特に、上皇が「院宣(いんぜん)」という命令を出すことで政治が動く仕組みが重要です。この院宣が、天皇や貴族たちの命令よりも優先されることが多く、実質的に上皇が国の支配者となっていました。
院政が始まるまでの流れ!なぜこの政治形態が生まれたのか
院政が始まる以前、日本の政治は主に「天皇中心」か「藤原氏中心」のどちらかでした。しかし、平安時代後期になると、新たな問題が発生し、院政が必要になりました。
1つ目の問題は、藤原氏の摂関政治の衰退です。藤原氏は長年にわたり天皇を支配していましたが、後三条天皇が即位すると、藤原氏の力を抑えようとしました。その後、白河天皇が即位し、さらに藤原氏の影響力を減らしていきました。
2つ目の問題は、天皇が若すぎることが増えたことです。白河天皇が息子の堀河天皇に譲位したとき、堀河天皇はまだ8歳でした。このように、幼い天皇が即位すると、自分で政治を行うのが難しくなります。そこで、上皇が代わりに政治を行うことが必要になりました。
3つ目の問題は、武士の台頭です。院政の時代には、武士が次第に力を持ち始めていました。上皇は、自分の地位を守るために武士を味方につけ、政治に活用するようになりました。
こうした背景から、上皇が政治を動かす「院政」が誕生したのです。
何か簡単に:始めたのは誰?いつどのように始まったのか

院政を始めたのは誰なのか、いつからこの制度が生まれたのかを詳しく見ていきましょう。院政のきっかけとなった出来事や、最初に院政を行った人物について学ぶことで、歴史の流れをしっかり理解できます。
院政を最初に始めたのは白河上皇!その理由とは?
院政を最初に始めたのは、**白河上皇(しらかわじょうこう)**です。彼はもともと「白河天皇」として即位していましたが、1086年に息子の堀河天皇(ほりかわてんのう)に皇位を譲り、自らは上皇となって政治の実権を握るようになりました。これが日本で最初の「院政」です。
白河上皇が院政を始めた理由は、大きく3つあります。
- 自分の子孫に皇位を継がせるため
当時の皇位継承は不安定で、藤原氏や他の皇族が関与することもありました。白河上皇は、息子である堀河天皇が確実に皇位を維持できるよう、政治の実権を握る必要があったのです。 - 貴族の力を抑えるため
平安時代中期まで、藤原氏が摂政・関白として天皇の代わりに政治を動かしていました。しかし、白河上皇は藤原氏の影響力を排除し、自分の力で政治を運営しようと考えました。 - 武士の力を活用するため
白河上皇は、自分の政権を安定させるために、貴族ではなく武士を重用しました。これが後の武士の台頭につながり、やがて鎌倉幕府の成立へとつながっていきます。
このように、白河上皇が院政を開始したことで、日本の政治の形が大きく変わりました。
院政が行われた期間はいつ?何年続いたのか
院政は、白河上皇が1086年に始めてから、約170年間も続きました。特に、以下の3人の上皇が中心となって院政を行いました。
- 白河上皇(1086年~1129年)
→ 院政の創始者。武士を側近に置き、貴族の力を抑えた。 - 鳥羽上皇(1129年~1156年)
→ 自分の孫を天皇にするなど、院政を強化した。 - 後白河上皇(1158年~1192年)
→ 平清盛と協力し、院政を継続。しかし、源平合戦が起こり、武士の時代へと移行するきっかけを作った。
院政が終わったのは鎌倉時代の始まりと関係があります。鎌倉幕府が成立すると、政治の中心は武士へと移り、上皇が政治を動かす力は次第に弱まっていきました。
院政による政治の影響とは?メリットとデメリット
院政が行われたことで、日本の政治にさまざまな影響がありました。良い点と悪い点を比較しながら、院政の特徴を理解しましょう。
メリット(良い点)
- 天皇が幼くても政治を安定させられる
院政では、上皇が政治を行うため、幼い天皇でも即位が可能でした。これにより、政権の安定が保たれました。 - 貴族の権力を抑えられた
それまで強い影響力を持っていた藤原氏の摂関政治が衰退し、天皇家が主導権を握ることができました。 - 武士が政治に関与するきっかけとなった
院政では、上皇が自分の政権を守るために武士を登用しました。これが武士の力を強め、後の鎌倉幕府の成立につながりました。
デメリット(悪い点)
- 二重政治による混乱
天皇と上皇の両方が政治を行うため、意見の対立が発生し、政治が混乱することがありました。 - 財政の悪化
院政を行うためには、多くの人を雇う必要がありました。これにより、朝廷の財政が悪化していきました。 - 武士の力が強まり、貴族の時代が終わった
院政によって武士が成長し、やがて貴族に代わって政治を支配するようになりました。
このように、院政は一時的には効果的な政治体制でしたが、長期的に見ると、日本の政治の変化を加速させる要因となりました。
テストで押さえるべき院政の重要ワード
院政について勉強する際に、テストに出やすい重要なキーワードを押さえておきましょう。
- 院政(いんせい)
→ 上皇が政治を行う仕組み - 白河上皇(しらかわじょうこう)
→ 最初に院政を始めた人物 - 院宣(いんぜん)
→ 上皇が出した命令書 - 摂関政治(せっかんせいじ)
→ 藤原氏が行っていた政治形態 - 武士の台頭(ぶしのたいとう)
→ 院政によって武士の力が強くなったこと
テストでは、「院政とは何か?」「誰が始めたのか?」「なぜ必要だったのか?」といった問題がよく出題されます。これらのキーワードをしっかり覚えておくと、スムーズに解答できるでしょう。
総括:院政とは何か簡単に解説!のまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 院政とは
→ 上皇(退位した天皇)が政治の実権を握る仕組み。天皇は名目上の存在に。 - なぜ「院政」と呼ばれるのか
→ 上皇が住む屋敷が「院」と呼ばれていたため、その「院」から政治を動かすことに由来。 - 院政が始まった理由
- 皇位の安定(自分の子孫に確実に皇位を継がせる)
- 貴族の権力を抑える(藤原氏の摂関政治を排除)
- 自由な政治運営(上皇は天皇よりも柔軟な政治が可能)
- 院政を最初に始めたのは?
→ 白河上皇(1086年に開始) - 院政の主な流れ
- 10世紀頃から摂関政治(藤原氏による政治)が続く
- 1069年、後三条天皇が藤原氏の力を抑え「親政」を開始
- 1086年、白河上皇が院政を開始し、新たな政治形態が確立
- 鳥羽上皇・後白河上皇も院政を継続し、約170年間続いた
- 院政の仕組み
- 上皇(院):政治の実権を握る
- 天皇:名目上のトップだが、実際の政治には関与しない
- 院宣(いんぜん):上皇が出す命令書で、絶対的な権限を持つ
- 院近臣(いんのきんしん):上皇の側近、武士も含まれる
- 武士:上皇を守る役割から、次第に政治の中心へ
- 院政の影響(メリット・デメリット)
- メリット
- 幼い天皇の即位でも政治が安定
- 貴族(藤原氏)の権力を抑えられた
- 武士が政治に関与するきっかけに
- デメリット
- 天皇と上皇の対立による政治混乱
- 院の財政悪化(多くの人を雇う費用が増加)
- 武士の勢力が拡大し、貴族の時代が終焉
- メリット
- テストで覚えておくべきキーワード
- 院政:上皇が行う政治
- 白河上皇:最初に院政を始めた人物
- 院宣:上皇が出す命令書
- 摂関政治:藤原氏による政治体制
- 武士の台頭:院政によって武士の力が強まったこと
- 院政の終わり
- 鎌倉幕府が成立(1192年)し、政治の中心が武士へ移行
- 上皇の影響力が弱まり、院政は衰退