今回は「伊藤博文(いとうひろぶみ)」がどんな人だったのか、子どもでも分かるようにやさしく解説します。
伊藤博文は、今の日本の政治の形をつくった「近代日本の土台を築いた人物」です。「千円札になった人でしょ?」と知っている人もいるかもしれませんが、実はもっとすごいことをたくさんしているのです。
さあ、いっしょに見ていきましょう。
※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。
↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓


伊藤博文は何をした人か簡単に!近代日本の土台を築いた人物
伊藤博文は、日本の近代化に大きな貢献をした政治家です。初代内閣総理大臣として、政治の仕組みや憲法を整え、近代国家の基盤を築きました。
ここでは、彼の主な功績をわかりやすく解説します。
初代内閣総理大臣として政治の仕組みを整えた人物
伊藤博文は「日本で一番はじめの内閣総理大臣(ないかくそうりだいじん)」になった人です。今でいう「首相(しゅしょう)」のような役割ですね。
それまでは、政治を動かす人たちははっきりと決まっておらず、バラバラに力を持っていました。そこで伊藤博文は、きちんと国をまとめるために「内閣制度(ないかくせいど)」というルールをつくり、政府の仕組みを整えたのです。
この制度のおかげで、日本は国のリーダーを中心にして物ごとを進められるようになりました。つまり、伊藤博文は、今の日本の政治のしくみを作った中心人物のひとりと言えるのです。
「日本のはじめのリーダー」として歴史に名を残しました。
明治憲法を作った人!日本のルール作りに尽力
伊藤博文が行ったもうひとつの大きな仕事は、「大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)」を作ったことです。これは、日本で初めての本格的な「国のルールブック」といえるもので、今でいう憲法のことですね。
伊藤博文は、ヨーロッパの国々を見てまわり、特にドイツやオーストリアの憲法を参考にしながら、日本に合った形の憲法を考えました。明治天皇(めいじてんのう)の名前で出されたこの憲法は、1889年に発布され、翌年からは「国会」も開かれるようになります。
つまり伊藤博文は、ただの政治家ではなく、「日本という国のルールを考えた人」なのです。これによって日本は「近代国家」として一歩を踏み出しました。社会のしくみをつくった伊藤博文の働きは、本当にすごいことだったのです。
岩倉使節団で海外を視察
伊藤博文は、日本をよりよい国にするために、海外の国々を実際に見てまわりました。1871年には「岩倉使節団(いわくらしせつだん)」のメンバーとして、アメリカやヨーロッパをまわる長い旅に出かけたのです。この旅では、海外の法律や教育、文化や政治のしくみをじっくり見て学びました。
伊藤は特に、イギリスやドイツの政治体制に注目しました。そこから「国を動かすためには、しっかりとした憲法と制度が必要だ」と考え、帰国後に憲法づくりを進めていきます。実は、このときの経験が、のちに「大日本帝国憲法」を作る大きなヒントになったのです。
また、この岩倉使節団には、津田梅子(つだうめこ)などの女子留学生も参加していて、伊藤博文は彼女たちにも優しく接したと伝えられています。
海外視察で学んだことを日本のために活かした伊藤博文の努力は、日本の近代化を支える大きな力となりました。
韓国統監になった理由とその影響
伊藤博文は、日本が朝鮮半島に大きく関わるようになった時代に、「韓国統監(かんこくとうかん)」という役職につきました。これは、韓国(当時は大韓帝国)に駐在して、その政治に深く関わる大きな仕事です。伊藤博文は初代の統監になり、日本と韓国の関係を近づけようとしたのです。
でもこの行動には、韓国の人々の中で「日本に支配されてしまうのではないか」と思う人もいて、不満が高まっていきました。そうした中、1909年、伊藤博文は韓国の独立を願う活動家「安重根(あん・じゅうこん)」によって、中国のハルビン駅で暗殺されてしまいました。
伊藤博文の死は、日本と韓国の歴史に大きな影響を与えました。この出来事は、日韓の関係を考えるうえでとても大切なポイントのひとつです。
千円札の顔にもなった理由
伊藤博文は、かつて千円札の顔としても使われていたほど、日本の歴史にとって重要な人物です。お札になる人は、国の発展にとても大きく貢献した人ばかり。つまり、「この人がいたから今の日本がある!」という人しか選ばれません。

伊藤博文は、内閣制度を作り、憲法を作り、日本を近代国家に変えるためにたくさんの働きをしました。そのすごさが認められて、1963年から1986年までの千円札に選ばれたのです。
ちなみに、渋沢栄一という人も候補に上がっていましたが、当時の技術の都合で「ひげがある方が偽造防止になる」という理由から、伊藤博文が選ばれたというエピソードもあります。
千円札になるほどの人物、それが伊藤博文です。歴史の教科書だけでなく、実生活の中でも日本人にとって身近な存在だったのですね。
伊藤博文は何した人か簡単に:面白いエピソードまとめ
ここからは、ちょっとやわらかいお話です。偉人としての伊藤博文だけでなく、人間らしい一面も紹介しますよ。歴史が苦手な人でも「へぇ〜!」と思えるような面白いエピソードをまとめてみました!
民から総理大臣へ!伊藤博文の“成り上がり人生”
伊藤博文は、もともとは農民の家に生まれました。とても貧しい暮らしでしたが、父が長州藩の下級武士の家に養子入りしたことで、伊藤博文も武士の身分を得ることができました。
その後、吉田松陰(よしだしょういん)が開いた「松下村塾(しょうかそんじゅく)」という私塾に入り、熱心に勉強しました。この塾には、高杉晋作や木戸孝允(たかよし)など、明治時代を支えた人たちも多く通っていました。
伊藤博文は、この学びを生かして政治の世界に飛び込み、最終的には初代内閣総理大臣にまで上りつめました。農民の子が日本のトップになるなんて、まさに「成り上がりのヒーロー」と言えますね!
憲法の原本を家に忘れた!?うっかりエピソード
伊藤博文はしっかり者に見えますが、ちょっぴりドジな一面もありました。なんと、1889年に「大日本帝国憲法」を発布する当日、式典に持っていくべき憲法の原本を自分の家に忘れてしまったのです!
式の時間が近づく中で「憲法がない!」と大騒ぎ。あわてて部下の金子堅太郎が伊藤の家まで走って取りに行き、なんとか間に合ったという話があります。
こんな大事な日に、まさかのうっかりミス。でも、こうした一面があると、伊藤博文にも親しみがわいてきますよね。すごい人にも「うっかり屋」なところがあるというのは、ちょっとホッとする話です。
女好きで有名?「ホウキ」と呼ばれたプライベート
伊藤博文は、実は「大の女好き」としても有名でした。なんと、芸者さんとの関係がたくさんあって、「ホウキ(掃いて捨てるほど女性がいる)」というあだ名まであったそうです。
もともとの妻・すみさんとは離婚し、下関の芸者だった「梅子さん」と再婚しました。この梅子さんもとてもできた人で、伊藤が他の女性と関係を持っても怒らず、家に来た芸者さんをおもてなししたという話もあります。
また、舞踏会で華族の女性に言い寄ったり、戦争中にも芸者遊びをしていたというエピソードも残っています。もちろん今では考えられない行動ですが、当時の文化としてはよくある話でもありました。
こうした一面から、伊藤博文の人間らしい姿が見えてきますね。
英語力もすごかった!海外でも通用した伊藤博文の学びの姿勢
伊藤博文は、英語にもとても力を入れていた人物でした。若いころ、イギリスのロンドンに留学していたことがあり、そのときに英語を一生懸命勉強しました。
実は、最初はあまり得意ではなかったのですが、現地で毎日学び、帰国後もたくさんの英語の本を読んで、努力を続けたのです。その結果、外国の人たちとも直接やりとりできるほどの英語力を身につけました。
とくに、政治の場で英語を使うのはとても大変ですが、伊藤博文はそれを乗りこえました。「勉強は一生続けるもの」ということを、伊藤博文の姿から学ぶことができますね!
名言や家族構成も紹介!伊藤博文が残した言葉と今に伝わるもの
伊藤博文は、数々の名言を残したことでも知られています。その中でも有名なのが、「一に天子様(明治天皇)、二にかか様(妻の梅子)」という言葉です。国を思う気持ちと、家族を大切にする心が伝わってきますね。
伊藤博文には子どもが何人かいて、今もその子孫は続いています。政界に関わった人や、会社を経営するなど活躍した人もいますが、表立った活動をしていない人も多く、情報は限られています。
それでも、「日本の歴史をつくった人の血が今も流れている」と思うと、なんだか不思議で感動的ですね。歴史はつながっているのだと感じます。
総括:伊藤博文は何をした人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 伊藤博文の主な功績(何をした人か)
- 日本で初めての内閣総理大臣(今でいう首相)になった
- 内閣制度を整え、日本の政治の仕組みを作った
- 大日本帝国憲法を制定し、日本の近代国家としての土台を作った
- 岩倉使節団として海外視察を行い、外国の制度を学んだ
- 初代「韓国統監」として日韓関係に深く関わった
- 日本の発展に貢献し、千円札の顔にも選ばれた人物
✅ 伊藤博文の面白いエピソード(人柄やプライベート)
- 農民出身で、努力して総理大臣にまで出世した「成り上がり人物」
- 明治憲法の原本を式典当日に家に忘れるといううっかりエピソードがある
- 女好きで「ホウキ」と呼ばれ、多くの芸者と関係を持ったことで有名
- 英語の勉強にも熱心で、海外でも通用する語学力を持っていた
- 「一に天子様、二にかか様」など家族愛のある名言を残し、子孫も存在している