今日は「石原莞爾(いしわらかんじ)」という人物が、東京裁判で放った名(迷?)言「ペリーを連れてこい!」の真意について分かりやすく解説していきます。
「なんでペリー?」と思うかもしれませんね。でも、この一言には、石原莞爾の鋭い歴史認識と、痛烈なアメリカ批判が込められているんです。
この記事を読めば、「あの発言って、ただの冗談じゃなかったのか!」と納得できるはずです。それでは、さっそく見ていきましょう!
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石原莞爾「ペリーを連れてこい」発言の真実!背景と意味

「ペリーを連れてこい!」——東京裁判でのこの発言は、本当にあったのでしょうか?ここでは、発言の真偽と背景、込められた意味まで塾長が分かりやすく解説します!
石原莞爾は本当に「ペリーを連れてこい」と言ったのか
まず最初に、「本当にそんなこと言ったの?」という疑問に答えましょう。結論から言うと、石原莞爾が「ペリーを連れてこい!」と発言したという証言は複数存在しています。特に東京裁判に関連した書籍や証言記録で繰り返し登場する言葉です。
有名なのは、戦後に出版された『秘録 石原莞爾』(横山臣平著)や、石原の身近にいた人物の証言です。また、昭和館や週刊新潮の特集記事でも、「あの世からペリーを連れてこい!」という発言が取り上げられています。
東京裁判の正式な議事録に記載があるわけではありませんが、複数の目撃者や記録により、その信ぴょう性は高いとされています。このように、「ペリーを連れてこい」は石原の代表的な発言として広く知られているのです。
「ペリーを連れてこい」発言が出た東京裁判の文脈
次に、この発言がどんな場面で飛び出したのかを見ていきましょう。時は1946年、東京で行われた「極東国際軍事裁判」、いわゆる東京裁判でのことです。
アメリカ側は、石原が東條英機と対立していたことを利用して、東條に不利な証言をさせようとしました。しかし石原は「俺を戦犯にしろ!」と逆に啖呵(たんか)を切るのです。
そんなやりとりの中で、アメリカ側の検事が「日本の戦争責任はどこまでさかのぼるべきか?」と問いかけた際、石原は「そんなにさかのぼるなら、ペリーを連れてこい!」と答えたのです。
つまり、この発言は「アメリカだって最初に日本に手を出したじゃないか!」という皮肉であり、戦争責任を一方的に日本に押し付けるなという強烈な反論だったのです。
石原莞爾の思想と反論の意味
では、なぜ石原はペリーを引き合いに出したのでしょうか?ここには、彼の鋭い歴史観と思想が関係しています。
石原莞爾は「日本の戦争責任をさかのぼるなら、開国を強いたペリーから始まるべきだ」と主張しました。つまり、日本が他国と関わり、帝国主義や侵略へと進んだのは、そもそもペリーによって開国を強制されたからだ、という論理です。
もちろんこれは極論とも言えますが、戦勝国のアメリカが一方的に裁こうとする構図への反発でもありました。石原にとって、アメリカが自らの過去を棚に上げて日本を断罪することこそが問題だったのです。
この発言は、戦争に至る過程を「日本だけの責任」とすることに異を唱える、石原なりの哲学的・歴史的な反論だったと言えるでしょう。
「鎖国から開国」への歴史とペリーの役割
ここで少し歴史を振り返りましょう。江戸時代、日本は200年以上にわたって「鎖国政策」をとっていました。外国との交流を制限し、内政と秩序を守っていたのです。
しかし、1853年、アメリカのペリー提督が黒船で来航し、威圧的な態度で開国を迫りました。これがいわゆる「開国のきっかけ」であり、日本はその後、急激な西洋化と国際関係への巻き込まれが始まったのです。
石原の「ペリーを連れてこい」発言は、この歴史の転換点を問題視したものです。つまり、「あの開国がなければ、日本は平和にやっていたかもしれない」という前提に立っているのです。
もちろんこれは一面的な見方ですが、戦争の責任を問うときに、こうした「国際的な構造」も見逃すべきでないという考えがあったのです。
発言に対する裁判官や世論の反応
この石原の発言に、裁判官や周囲はどう反応したのでしょうか?
実はこの言葉、ただの冗談として流されたわけではなく、裁判官すら言葉に詰まったと言われています。なぜなら、あまりにも正論めいていて、否定が難しかったからです。
また、この発言を聞いていた日本人の中には「よくぞ言った!」と胸がすく思いをした人も少なくありませんでした。敗戦後、多くの指導者が責任逃れをする中で、石原だけが堂々と自説を貫いた姿勢は、多くの人に感銘を与えたのです。
「ペリーを連れてこい」は、そのインパクトの強さから、現在でも歴史ファンの間で語り草になっています。
石原莞爾「ペリーを連れてこい」発言:思想と行動

さて、前半では「ペリーを連れてこい」という発言の真相や背景について詳しく見てきました。ここからは、この発言の根底にある石原莞爾の思想や行動、そして彼が考えた「戦争責任」のあり方について、塾長が分かりやすく解説していきます。
「戦争の天才」と称された背景と経歴
石原莞爾は、単なる軍人ではありませんでした。陸軍大学校を首席に近い成績で卒業し、参謀本部で活躍した頭脳派のエリート将校です。特に「戦争の天才」と称されたのは、満州事変での巧妙な作戦と、そのスピード感ある展開によるものです。
また彼は、ただ戦争が好きな軍人ではなく、戦争の先にある「世界の構造」を見据えていました。彼の代表的な思想に「世界最終戦論」があります。これは「人類の歴史は最終的に東洋と西洋の決戦で終わる」という構想で、アメリカとの戦争すらも大きな歴史の必然と見なしていたのです。
このように、石原は一見過激な発言が目立ちますが、実は冷静かつ緻密に戦略を組み立てるタイプだったのです。
東條英機の確執と思想の違い
石原莞爾と東條英機は、同じ軍人でも考え方がまったく違いました。石原は「中国との戦争は避けるべきで、最終的にはソ連と戦うべきだ」と主張。一方、東條は対中強硬路線で突き進み、太平洋戦争を主導しました。
石原は東條について「東條のバカには思想などない」と裁判で語ったほど。この発言は痛烈ですが、石原にとって「戦争に思想がない」というのは最大の批判だったのです。
また、石原は「満州事変は自分の責任」と堂々と語った一方、東條は責任逃れの姿勢を見せていたともいわれています。この対比は、石原がなぜ今も評価されるのかを物語っているでしょう。
石原莞爾の戦争観と「世界最終戦論」
石原の「世界最終戦論」は、非常にユニークな思想です。簡単に言えば、「西洋と東洋が最終的に一度ぶつかることで、戦争の歴史に終止符が打たれる」というものです。
この発想は、単に戦争をすることを目的としたものではなく、「戦争を終わらせるための戦争」という逆説的な論理に基づいています。石原はこの“最終戦争”の後には世界平和が来ると信じていたのです。
また、彼はこの戦争において、日本は「東洋の代表」として、西洋の代表アメリカと戦う運命にあると考えていました。ペリーを名指しで批判したのも、この歴史観の延長線上にあったのです。
「トルーマンこそ戦犯」発言の真意
石原は東京裁判で、「最大の戦犯はアメリカ大統領トルーマンである」と発言しました。なぜなら、広島と長崎への原爆投下は明らかな国際法違反であり、多数の民間人を虐殺したからだ、というのがその理由です。
これは決して感情的な発言ではなく、石原なりの国際法的・倫理的視点からの批判でした。彼は「戦争は軍人と軍人が戦うべきものであって、民間人を巻き込むべきではない」という考えを持っていたのです。
このように、石原は戦争を肯定していたわけではなく、「戦争にもルールがある」と主張していたことが分かります。そしてそのルールを破ったアメリカに対して、堂々と意見を述べたのです。
「東亜連盟」構想:石原莞爾の理想
石原は、戦後に「東亜連盟」という構想を掲げました。これは、アジアの国々が手を取り合い、欧米列強に対抗するという理想です。日本一国主義ではなく、中国や朝鮮、満州などとの連携を重視する、先進的な考えでした。
彼は「アジアのために日本がリーダーになるのではなく、アジアの仲間として協力するべきだ」と考えていました。この思想は、後のアジア主義や一部の保守思想にも影響を与えています。
石原のような軍人が、こうした理想を持っていたことは驚きかもしれませんが、そこには「侵略」ではなく「共生」の考え方があったのです。
総括:石原莞爾「ペリーを連れてこい」発言の真実まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 石原莞爾は東京裁判で「ペリーを連れてこい」と発言したとされ、多くの証言・書籍で語られている。
- 発言は、アメリカの戦争責任追及が過去にまで及ぶなら、日本の開国を強制したペリーから始まるべきだという皮肉。
- 鎖国から開国、ペリーの黒船来航によって日本が国際社会に巻き込まれた歴史的背景がある。
- 石原は東京裁判で「俺を戦犯にしろ」と発言し、原爆投下を命じたトルーマンを最大の戦犯と断言した。
- 石原と東條英機は思想的に真逆で、石原は戦略的・思想的に深い信念を持っていた。
- 「世界最終戦論」など独自の思想を持ち、戦争を歴史の必然と捉えていた。
- 戦後は「東亜連盟」構想を掲げ、アジア諸国の連携による共生を理想とした。
- 石原の発言は、単なる奇抜なセリフではなく、歴史認識と思想に基づいた重みのある主張だった。