今日は、明治維新の立役者のひとり、木戸孝允(きど たかよし)の死因について解説します。

木戸孝允は、西郷隆盛や大久保利通と並び「維新の三傑」と呼ばれる偉人です。しかし、彼は45歳という若さで亡くなっています。なぜこんなに早く亡くなってしまったのでしょうか?

「病死」とされていますが、具体的な病名にはいくつかの説があり、実ははっきりしていません。また、彼が亡くなる直前には、激動の時代を象徴するような出来事がありました。彼が最後に発した言葉や、亡くなるまでの様子についても、詳しく見ていきましょう!

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木戸孝允の死因は病気?何の病気で亡くなったのか解説

木戸孝允は1877年(明治10年)5月26日、京都で亡くなりました。死因については「病死」とされているものの、詳しい病名ははっきりしていません。歴史の記録をひも解くと、次の3つの説が有力とされています。

木戸孝允の死因は病気?主な説は3つ

木戸孝允の死因として、以下の3つの説が考えられています。

  1. 胃がん説:当時の記録に「難治性の胃病」と書かれていることから。
  2. 大腸がんの肝臓転移説:晩年に続いた下痢や血便が、大腸がんの典型的な症状だった可能性。
  3. 急性心不全説:激務による疲労とストレスが原因で、心臓に負担がかかり発症した可能性。

では、それぞれの説について、詳しく見ていきましょう。

死因の有力説① 胃がん説の根拠とは?

木戸孝允が「胃がん」で亡くなったという説は、彼を診察したドイツ人医師ウィルヘルム・シュルツの記録が根拠となっています。彼は「極めて難治の胃病」と診断していました。

また、長州藩士・三浦梧楼(みうら ごろう)も、「木戸は胃がんで亡くなった」と書き残しています。

胃がんの症状には、

  • 慢性的な胃痛
  • 食欲不振
  • 体重の急激な減少
  • 吐血や血便 などがあります。

木戸孝允も亡くなる前に、食欲が落ち、かなり痩せ細っていたといわれています。そのため、「胃がん説」は有力な説の一つとなっています。

死因の有力説② 大腸がんの肝臓転移説とは?

もう一つの有力な説が「大腸がんの肝臓転移説」です。この説の根拠は、2020年に発見された「木戸顧問容体」という診断書にあります。

この診断書には、木戸の肝臓に腫瘍があり、病状が悪化していたことが記されています。また、木戸孝允は亡くなる1年前から下痢が続き、便に血が混じることがあったと日記に記していました。

大腸がんが肝臓に転移すると、

  • 腹痛が続く
  • 便に血が混じる
  • 食欲がなくなる
  • 肝臓が腫れてくる といった症状が現れます。

木戸孝允の症状とよく一致しているため、「大腸がんの肝臓転移説」もかなり信ぴょう性の高い説といえます。

死因の有力説③ 急性心不全説は本当か?

三つ目の説が、「急性心不全説」です。これは、木戸孝允が長年にわたり、胃腸障害や神経衰弱に悩まされていたことが原因とされています。

急性心不全とは、心臓が急に働かなくなる病気で、特に過度のストレスや疲労が引き金になることが多いです。木戸孝允は明治政府の重要な役割を担い、激務に追われていました。

また、彼は不眠症にも悩まされ、かなり神経をすり減らしていたとも言われています。こうしたことが重なり、心臓に負担がかかり、亡くなった可能性も考えられます。

木戸孝允は病気に苦しみながらも最後まで政治に尽力

病気が悪化していく中でも、木戸孝允は政治家としての使命を果たそうとしました。

特に、彼は憲法制定や立憲政治の導入を目指していました。しかし、病状の悪化により、思うように活動できず、次第に表舞台から退くことになります。

それでも、亡くなる直前まで明治政府の未来を考え、西南戦争の行方を気にしていたといわれています。木戸孝允の最期には、彼の強い責任感と、日本の未来を想う気持ちが表れていました。

木戸孝允の死因の後に:最後の様子&最期の言葉

木戸孝允は、明治維新を成し遂げた維新の三傑の一人でしたが、彼の生涯の幕は、西南戦争という日本最後の内戦の渦中で閉じられました。

彼はどこで亡くなり、最後に何を思い、どのような言葉を残したのでしょうか?ここからは、木戸孝允の最後の様子を詳しく解説していきます。

木戸孝允が亡くなったのは1877年5月26日、享年45歳

木戸孝允は、明治10年(1877年)5月26日、京都で息を引き取りました。実際の年齢は43歳でしたが、当時の日本では「数え年」が一般的に用いられていたため、享年45歳と記録されています。

晩年の木戸は、長年の心労と病気に苦しんでいました。明治維新後、彼は政府の要職を歴任しましたが、大久保利通との意見対立や政策の重圧により、精神的にも肉体的にも消耗していました。

特に1876年以降、彼の体調は急激に悪化し、慢性的な腹痛や消化器系の問題に悩まされるようになります。そして、最期の数ヶ月間はほとんど動くことができず、京都の宿舎で寝たきりの状態でした。

死因は「胃がん」や「大腸がんの肝臓転移」とされていますが、当時の医療では正確な診断は難しく、複数の説が存在しています。いずれにせよ、彼の最期は長い闘病生活の果てに訪れたものでした。

西南戦争の最中に亡くなった木戸孝允

木戸孝允が亡くなった1877年は、日本最後の士族反乱「西南戦争」の真っ最中でした。

西郷隆盛を総大将とする不平士族の軍勢が政府に反旗を翻し、九州で大規模な戦いが繰り広げられていました。政府にとっても国家の存亡をかけた重要な局面であり、この戦争の結末が日本の未来を左右する状況でした。

そんな中、木戸は病をおして京都に留まり、政府の対応を指揮していました。彼はかつての盟友である西郷隆盛が武力闘争に踏み切ったことを深く憂慮し、なんとか平和的に解決できないかと模索していました。

木戸は「自ら討伐軍を率いて西郷を説得したい」と強く願っていましたが、すでに体は衰弱しきっており、出陣することは叶いませんでした。彼は戦争の行方を気にしながらも、病床で政府の方針を見守るしかなかったのです。

最期の言葉は「西郷もいいかげんにしないか」

木戸孝允が残した最後の言葉は、「西郷もいいかげんにしないか」でした。

彼は西南戦争の報を受け、自ら出向いて西郷を説得するつもりでした。しかし、その願いもむなしく病状は悪化。そんな中、盟友・大久保利通が見舞いに訪れました。

大久保が木戸の手を握ると、木戸は力なく呟きました。

「西郷もいいかげんにしないか」

この言葉には、西郷隆盛への複雑な思いが込められていました。

かつて同じ志を持って戦った仲間が、今は政府に刃を向けている。それを止めることができない自分の無力さ。そして、日本の未来を案じる気持ち。

大久保は、その言葉を受け止めながら、静かに木戸の最期を看取ったのです。

木戸孝允の死後西郷隆盛も自害し西南戦争が終結

木戸孝允が亡くなった4ヶ月後、1877年9月24日、西郷隆盛は鹿児島の城山で自害しました。

西南戦争は政府軍の勝利で終わり、日本国内における士族反乱は完全に終息しました。西郷の死によって、武士の時代は終わりを告げ、近代日本の確立に向けて動き出したのです。

木戸が生前に目指したのは、西洋のような立憲政治の確立でした。彼の死後、その意志は伊藤博文らに引き継がれ、日本は国会開設や憲法制定へと進んでいきます。

もし木戸がもう少し長く生きていたなら、日本の政治体制はまた違った形になっていたかもしれません。彼の死は、日本の近代化において大きな転換点となったのです。

木戸孝允の墓と子孫はどうなった?

木戸孝允の墓は、京都の霊山護国神社にあります。彼は、坂本龍馬や中岡慎太郎とともに眠っており、幕末の志士たちが多く眠るこの地は、今も多くの歴史ファンが訪れる場所となっています。

木戸には実子がいなかったため、養子によって家系が受け継がれました。

彼の妻・松子(幾松)との間に子供はおらず、木戸の家は養子・木戸正二郎によって存続しました。その後、木戸家は侯爵家として続き、正二郎の後を継いだ木戸孝正が家督を継ぎました。

また、木戸家の子孫は、戦前・戦後の日本政治にも関わることになります。孝正の子である木戸幸一は、昭和天皇の側近として内務大臣を務め、太平洋戦争期の政治にも影響を与えました。

木戸孝允が築いた木戸家は、その後の日本の歴史においても一定の役割を果たしたのです。

総括:木戸孝允の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

1. 木戸孝允の死因について

  • 1877年(明治10年)5月26日、京都で死去(享年45歳・実年齢43歳)。
  • 死因は病死とされるが、病名は確定していない。
  • 有力な3つの説が存在:
    • 胃がん説(ドイツ人医師シュルツの「難治性の胃病」の診断による)
    • 大腸がんの肝臓転移説(下痢や血便、肝臓の腫瘍が診断書に記載)
    • 急性心不全説(長年の激務・ストレス・神経衰弱による心臓への負担)

2. 木戸孝允の最後の様子

  • 晩年は体調が悪化し、京都の宿舎で寝たきり状態。
  • 1877年、西郷隆盛率いる「西南戦争」が勃発。
  • 病をおして政府の対応を指揮し、自ら討伐軍を率いることを希望するも許可されず。
  • 盟友・大久保利通に手を握られながら亡くなる。
  • 最期の言葉は「西郷もいいかげんにしないか」

3. 木戸孝允の死後

  • 4ヶ月後の1877年9月、西郷隆盛が自害し西南戦争が終結。
  • 木戸が目指していた立憲政治の流れが加速し、日本の近代化が進む。

4. 木戸孝允の墓と子孫

  • 墓は京都・霊山護国神社にあり、坂本龍馬らと並ぶ。
  • 妻・松子(幾松)との間に子供はおらず、養子・木戸正二郎が家督を継ぐ。
  • 孫の木戸幸一は昭和天皇の側近となり、戦前・戦後の日本政治に関与。