みなさん、幕末から明治にかけて日本を大きく変えた「維新の三傑(いしんのさんけつ)」と呼ばれる3人を知っていますか?
「西郷隆盛(さいごうたかもり)」と「大久保利通(おおくぼとしみち)」はよく名前を聞くかもしれません。でも、その2人と並ぶもう1人の偉人、「木戸孝允(きどたかよし)」についてはあまり知られていないかもしれません。
実は、木戸孝允こそが明治時代の日本を形作るために重要な役割を果たした人物なのです。この記事では、「木戸孝允って何をした人なの?」という疑問に答えるため、彼の功績や面白いエピソードを分かりやすく解説します。
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木戸孝允は何した人?幕末から明治維新の立役者
幕末から明治維新にかけて、日本の歴史を大きく動かした「維新の三傑」の一人、木戸孝允。彼は長州藩のリーダーとして幕府を倒し、新政府を作る重要な役割を果たしました。
ここでは、彼の生涯や日本を変えた功績について詳しく解説していきます。
木戸孝允とは?維新の三傑に数えられる長州藩士
木戸孝允(旧名:桂小五郎)は、1833年に長州藩(現在の山口県)で生まれました。もともとは藩のお医者さんの家に生まれましたが、桂家の養子となり武士としての道を歩みます。
彼は若い頃からとても優秀で、長州藩の学校「明倫館(めいりんかん)」で学び、その後は吉田松陰(よしだしょういん)に師事して政治や戦術を学びました。吉田松陰は、日本を強くするために大切なのは外国の知識を取り入れることだと考えていました。その影響を受けた木戸は、やがて日本の未来を大きく変えることになります。
幕末になると、木戸孝允は長州藩のリーダーとして、倒幕運動(とうばくうんどう)に尽力します。倒幕とは、江戸幕府を倒して新しい政府を作ることです。そして、西郷隆盛や大久保利通と共に、幕府を倒して新しい時代を切り開きました。この3人が「維新の三傑」と呼ばれるのはそのためです。
なぜ「逃げの小五郎」と呼ばれたのか?
「逃げの小五郎」というあだ名を聞くと、なんだか弱虫に聞こえるかもしれません。でも、実はこのあだ名は木戸孝允の生存能力の高さを示しています。
1864年、京都で起こった「池田屋事件(いけだやじけん)」では、新選組(しんせんぐみ)という幕府側の警察組織が、長州藩の志士たちを急襲しました。ここで木戸孝允は、危険を察知してその場を離れたため、命を落とさずに済みました。
また、同じ年に起こった「禁門の変(きんもんのへん)」では、長州藩が京都で戦いを挑みましたが、敗れてしまいました。この時も、木戸は見事に脱出し、命を守りました。
彼はただ逃げるだけでなく、その後も倒幕運動を進めるために行動を続けました。生き残ることで、日本を変える役割を果たせたのです。「逃げの小五郎」というあだ名は、まさに彼の知恵と冷静な判断力を表しているのです。
薩長同盟の成立と幕府打倒への道
江戸幕府を倒すためには、強力な味方が必要でした。そこで、木戸孝允は、敵対していた薩摩藩(さつまはん)の西郷隆盛と手を組むことを考えます。
この「薩長同盟(さっちょうどうめい)」を成立させるために大きな役割を果たしたのが、坂本龍馬(さかもとりょうま)でした。彼が仲介役となり、1866年に薩摩藩と長州藩が協力する約束を交わしました。
薩長同盟が結ばれると、長州藩は幕府に対抗できるほど強くなり、1868年の「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」では新政府軍として戦い、幕府を倒しました。
この戦いによって、日本は江戸時代から明治時代へと移り変わることになります。木戸孝允は、この大きな歴史の転換点で重要な役割を果たしたのです。
五箇条の御誓文を起草し、新政府の礎を築く
幕府が倒れた後、新しい政府を作る必要がありました。そこで木戸孝允は「五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)」を起草し、明治天皇に発表してもらいました。
五箇条の御誓文とは、日本の新しい政治の基本となる考え方をまとめたもので、特に次のような内容が大切でした。
- 広く会議を開き、みんなの意見を大事にすること
- 人々が自由に仕事をして、国を豊かにすること
- 身分に関係なく、能力のある人が活躍できる社会を作ること
- 悪い習慣をなくして、新しい考え方を取り入れること
- 知識を広めて、日本を発展させること
この方針が発表されたことで、日本は西洋の進んだ国々に追いつくための第一歩を踏み出しました。
版籍奉還・廃藩置県で武士の時代を終わらせる
木戸孝允の最大の功績のひとつが、「版籍奉還(はんせきほうかん)」と「廃藩置県(はいはんちけん)」です。
版籍奉還とは、大名たちが自分の領地と民衆を政府に返すことを意味します。これは1869年に実行され、大名の力を少しずつ弱めることになりました。
そして1871年、木戸孝允は「廃藩置県」を実行し、全国の藩をなくして「県」にしました。これによって、大名が支配する時代は完全に終わり、日本は一つの国としてまとまりました。
この改革によって、江戸時代の封建制度は終わり、政府が直接国を治める近代国家への道が開かれたのです。
木戸孝允は何した人か簡単に:エピソードや功績
木戸孝允の生涯には、歴史に残る功績だけでなく、数々の面白いエピソードや名言が残されています。彼のロマンス、改革、政府内での対立、そして最後の言葉まで、彼の人物像をより深く知ることができます。
ここでは、そんな木戸孝允の逸話を紹介していきます。
芸妓・幾松とのロマンス!日本初の新婚旅行?
命を狙われる木戸を守った芸妓・幾松
木戸孝允(当時は桂小五郎)は幕府に追われる身でした。特に1864年の禁門の変(きんもんのへん)以降、京都では幕府の目が厳しく、いつ捕まってもおかしくない状況でした。そんな時、彼をかくまい、助けたのが京都の芸妓・幾松(いくまつ)です。
幾松はただの芸妓ではありません。機転が利き、芯の強い女性で、幕府の追手から木戸を守るために危険を顧みず行動しました。
京都潜伏中の握り飯伝説と長持ち事件
最も有名なエピソードの一つに、「握り飯伝説」があります。木戸が二条大橋の下で乞食同然の姿で潜伏していた時、幾松はひそかに握り飯を差し入れていました。命を狙われながらも、木戸を支え続けたのです。
また、新選組が木戸を捕まえようと家に踏み込んだ際、幾松は木戸を長持ち(大きな収納箱)に隠し、平然と三味線を弾きながらごまかしたという話も伝わっています。新選組は何も気づかずに帰っていき、木戸は命を拾いました。
逃亡生活を共にし、のちに正式な夫婦へ
その後、木戸は但馬国(現在の兵庫県)へ逃亡。幾松も後を追い、彼とともに旅を続けました。長州藩に戻った後も、二人は強い絆で結ばれ、1870年に正式に結婚。幾松は「木戸松子(まつこ)」と名を改め、木戸の妻として寄り添いました。
一説には、この二人の逃避行が「日本初の新婚旅行」とも言われています。ドラマのような恋愛と歴史の大舞台を駆け抜けた二人の物語は、今でも語り継がれています。
「ちょんまげを廃止した男」断髪令の推進
近代化のための象徴的な改革
江戸時代の武士といえば、ちょんまげ(髷)姿が当たり前。しかし、西洋諸国と肩を並べる近代国家を目指す上で、ちょんまげは「時代遅れ」と見なされるようになりました。そこで、木戸孝允は「断髪令(ざんぱつれい)」を強く推進しました。
明治天皇の断髪に尽力し、国民の意識を変えた
武士のシンボルでもあったちょんまげを廃止するのは簡単なことではありませんでした。多くの武士が伝統を守ろうと反発したのです。木戸はこの流れを変えるため、まず政府高官たちが率先して髷を切るように促しました。
最も決定的だったのは、明治天皇が断髪を決意したことでした。天皇自らが髷を落とすことで「これが新しい日本の姿だ!」というメッセージを示し、多くの人々が断髪に踏み切るきっかけとなりました。
反発を受けながらも推し進めた功績
ちょんまげを切ることに対する抵抗は非常に大きく、政府内でも意見が分かれました。しかし、木戸は「新しい時代には新しいスタイルが必要」と強く主張し続け、最終的に多くの人々が西洋風の髪型へと移行しました。
こうして木戸は、ファッション面でも日本の近代化を推し進めたのです。
明治政府の内紛!大久保利通との対立
立憲政治を目指す木戸 vs. 富国強兵を進める大久保
明治政府では、新しい国家の方針を巡って激しい対立がありました。木戸は「立憲政治(みんなの意見を取り入れた政治)」を目指しましたが、大久保利通は「富国強兵(経済と軍事の強化)」を優先しました。
木戸は「国民の意見を大切にする政治が大事だ」と考えていましたが、大久保は「まずは国を強くすることが先決だ」と主張。この違いが、2人の対立を深めていきました。
征韓論を巡る衝突と政府からの一時離脱
1873年、「征韓論(せいかんろん)」が議論されました。これは、朝鮮に軍を送るべきかどうかをめぐる問題でした。西郷隆盛は「武力で開国を迫るべき」と主張しましたが、木戸は「内政を優先すべき」と反対しました。
最終的に、木戸の意見が通り、西郷は政府を去りました。しかし、この対立は政府内に大きな亀裂を生むことになりました。木戸自身も、政治の混乱を理由に政府を離れることになります。
最終的に和解せず西南戦争の最中に病没
木戸と大久保の対立は最後まで解決することなく、木戸は体調を崩し、1877年に病没。その直後に西郷隆盛が「西南戦争」を起こし、大久保と戦いました。木戸の死後、日本はさらに大きく変わっていくことになります。
「西郷君、いい加減にしないか」最後の言葉
西南戦争勃発を病床で聞いた木戸の嘆き
木戸が亡くなる直前、政府に反発した西郷隆盛がついに挙兵し、西南戦争が勃発しました。病床にあった木戸はこの報を聞き、「西郷君、いい加減にしないか」と嘆いたと言われています。
かつての盟友・西郷隆盛との関係
幕末、木戸と西郷は共に幕府を倒すために戦った仲間でした。しかし、明治政府になってからは考えの違いから対立し、ついには戦争にまで発展してしまいました。
幕末から明治にかけての激動の時代を振り返る
木戸は、自分たちが目指した新しい日本が内乱に陥ることを憂いながら、この世を去りました。その死後も、日本の政治は大きく変化し続けました。
総括:木戸孝允は何した人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 木戸孝允(桂小五郎)は、幕末から明治維新にかけて活躍した「維新の三傑」の一人で、長州藩のリーダーとして幕府を倒し、新政府を作る役割を果たした。
- 吉田松陰に学び、倒幕運動を進め、西郷隆盛や大久保利通と共に新しい時代を切り開いた。
- 「逃げの小五郎」のあだ名は、危機的状況で冷静に命を守る知恵と判断力を象徴。
- 薩長同盟の成立に尽力し、1868年の戊辰戦争で新政府軍として戦い、幕府を倒した。
- 五箇条の御誓文を起草し、日本の新しい政治の基本を作り上げた。
- 版籍奉還と廃藩置県を実行し、封建制度を終わらせ、近代国家への道を開いた。
- 幾松という芸妓とのロマンスや「握り飯伝説」など、命を狙われる中で彼女に助けられ、最終的に結婚。
- 断髪令を推進し、近代化を象徴する改革を実現。
- 大久保利通との対立や、西郷隆盛との意見の違いが政治的な対立を生んだ。
- 西南戦争が勃発する際、病床でその報に嘆き、「西郷君、いい加減にしないか」と最後の言葉を残す。