今日は「岸信介(きし のぶすけ)」という日本の元総理大臣について、みんなが分かるようにやさしく解説していきます。
「岸信介って、安倍晋三のおじいちゃんだよね?」
「戦争のときの人なんでしょ?」
そんなふうに名前だけは聞いたことがあっても、「結局この人、何したの?」と疑問に思っている中学生も多いはず。
この記事では、岸信介が何をした人なのか、どんな功績を残したのか、歴史の流れとともにしっかり理解できるように説明していきますよ!
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岸信介は何した人?簡単にわかる経歴と功績まとめ
ではさっそく、岸信介がどんな人で、どんなことをしてきたのかを見ていきましょう!
岸信介は何した人?答えは「日米安保改定を成し遂げた首相」
岸信介の一番の功績は、「日米安全保障条約(新安保条約)」の改定をやりとげたことです。この条約は、戦後の日本がアメリカと協力して安全を守るという約束ごとでしたが、元の条約はアメリカに有利な内容でした。
岸信介は、「日本もアメリカと対等な立場になるべきだ」と考え、1960年にこの条約を新しくしようとしました。
でも、国民の多くが「日本がまた戦争に巻き込まれるかもしれない!」と心配して、大きな反対運動が起こりました。国会を何万人もの人が取り囲むほどのデモが行われ、最終的には警察ともぶつかる大騒動に。
そんな中でも岸信介は強い意志で採決を進め、新しい条約を成立させました。この姿勢から「昭和の妖怪」と呼ばれるようになったのです。
出身や家系:安倍晋三との関係
岸信介は1896年に山口県で生まれました。本当の名字は「佐藤」で、岸家には養子として入ったんですよ。
実の弟は、のちにノーベル平和賞を受けた首相・佐藤栄作。さらに孫は、令和時代に活躍した安倍晋三元首相。つまり、岸信介・佐藤栄作・安倍晋三の3人は、血のつながった「三代首相ファミリー」なのです。
日本の政治史の中でも、これほど強い政治一家はとても珍しいです。
岸信介の行動や考え方が、孫の安倍晋三にも少なからず影響していたと言われています。
岸信介の満州時代:戦前は官僚として「統制経済」を推進
岸信介は若いころ、農商務省(のちの経済産業省)という役所で働く「官僚(かんりょう)」でした。
その中でも特に注目されたのが、彼が中国の「満州(まんしゅう)」という地域で働いていたときです。ここで、国家が経済をしっかり管理する「統制経済(とうせいけいざい)」を導入しました。
このときの岸の役割は、まるで国全体の社長のようなもの。どんな工場をつくるか、どんな製品を生産するかを決めて、効率よく経済を回す仕組みを整えていったのです。
この経験が、岸が政治家としても重要な政策を立てる力になりました。戦後、「革新官僚」と呼ばれるリーダーたちの中でも、特に有名な存在となったのです。
政治復帰と自民党結成!保守合同の立役者
戦後、岸信介は戦争に関わったということで一度A級戦犯として逮捕されます。けれども、最終的に起訴(裁判にかけられること)されず、3年後に釈放。
その後、岸は政治の世界に戻ってきます。そして1955年、当時分裂していた2つの保守政党(自由党と改進党)を合体させ、「自由民主党(自民党)」を結成したのです。
これは、現在まで続く「自民党政権」の始まりとなった大きな出来事です。
岸はこの保守合同の中心人物であり、「日本の安定した政治の土台を作った人」として高く評価されています。このときに始まった体制は「55年体制」と呼ばれていますよ。
退陣理由と晩年の活動!昭和の妖怪と呼ばれたワケ
岸信介は1960年、安保改定の混乱の中で退陣します。その直前にはなんと暴漢に襲われ、足を6か所も刺されるという事件まで起きました。
これだけ大きな反対運動の中で政策を進めた彼は、退陣後も政治の世界で「黒幕(くろまく)」として強い影響力を持ち続けます。とくに沖縄返還や日韓国交正常化のときには、裏から支援をしたとも言われています。
「昭和の妖怪」という異名は、表に出てこなくても裏で政治を動かしているような存在感からきているんですね。晩年まで「政治の重鎮(じゅうちん)」として活躍しました。
岸信介は何した人か簡単に!政策と思想をわかりやすく
岸信介がどんな考えを持ち、どんな政策を行っていたのかを見ていきましょう。「政治家の考え方って難しそう…」と思うかもしれませんが、心配はいりません!一つひとつ、かみ砕いて説明していきますよ。
考え方は「反共主義」!アメリカとの協力を重視
岸信介が大事にしていた考えのひとつが「反共主義(はんきょうしゅぎ)」です。これは、「共産主義の国とは考え方が違うから、しっかり距離を取ろう」という考え方です。
当時、世界はアメリカを中心とした「資本主義(しほんしゅぎ)」の国と、ソ連などの「共産主義(きょうさんしゅぎ)」の国が対立している時代でした。
岸信介は、「日本はアメリカと協力して、自由や平和を守るべきだ」と信じていました。だからこそ、安保条約を改定して、アメリカとの関係を強めようとしたのです。
この「反共主義」という考えが、岸信介の政治の大きな柱になっていたのです。
アジア外交:戦後初のアジア歴訪で信頼を築く
岸信介は、首相として「アジアの国々との関係」をとても大切にしました。
実は、岸信介は日本の首相として初めて本格的にアジア各国を訪問した人なのです。行き先はインド、タイ、ベトナム、インドネシアなど、なんと13か国にもおよびました。
訪問の目的は、戦争によって傷つけてしまった関係を修復し、経済協力などで「信頼」を取り戻すことでした。
特に注目されたのは、「日本1国でお金を出して援助するのではなく、アジア全体で協力し合う形をつくりたい」という発想です。これが「アジア開発基金構想」と呼ばれる考え方で、岸信介の先見性がうかがえますね。
国防の基本方針
岸信介が総理だったとき、「国防の基本方針(こくぼうのきほんほうしん)」という日本の安全保障の考え方を初めてまとめました。
この方針には、次のようなポイントがあります。
- 国際協調によって平和を守る
- 必要な分だけ防衛力を整える
- アメリカとの安全保障関係を大切にする
これは、「軍隊を持たないといっても、まったく無防備ではいけない。でも戦争は避けるべきだ」というバランスを考えた防衛方針です。
この考え方は、今の「自衛隊」や安全保障政策のベースにもなっている、とても重要な考え方なんですよ。
「統制経済」ってなに?革新官僚としての実績
岸信介は「統制経済(とうせいけいざい)」という経済のスタイルを広めた人でもあります。
これは、「政府がしっかり管理して経済を動かす」やり方で、特に戦争や危機のときに力を発揮します。たとえば、必要な物資を必要なところに届けたり、物の値段を安定させたりする役割を担います。
岸信介は戦前、満州でこのやり方を成功させ、「経済の天才」として評価されました。こうした実績から「革新官僚(かくしんかんりょう)」と呼ばれるようになったのです。
戦後の日本でも、経済を安定させ、発展させるためにこの考えを活かし、多くの政策に影響を与えました
リーダーシップ:対話力・包容力に優れた政治家
岸信介の強みは、何といっても「リーダーシップ」です。しかも、それは「怒鳴って引っぱる」タイプではなく、「人をうまくまとめる」タイプでした。
岸信介は、どんな人でも一度会って話してみようとする姿勢を持っていました。気に入らない相手でも、自分に必要だと思えば、きちんと話をし、人を動かす力があったのです。
これが「対話力」と「包容力」です。
岸信介は、こうした力を使って自民党をまとめたり、大きな改革を進めたりしました。政治は一人ではできません。だからこそ、こうしたリーダーとしての資質はとても重要だったのです。
総括:岸信介は何した人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 岸信介は、日米安全保障条約(新安保)の改定を行った元総理大臣です。
- 山口県出身で、安倍晋三の祖父・佐藤栄作の兄という政治家一家の一員です。
- 戦前は満州で経済政策を進めた官僚で、「革新官僚」と呼ばれました。
- 戦後はA級戦犯容疑で逮捕されるも不起訴となり、政界に復帰します。
- 自由党と改進党をまとめて自民党を結成し、55年体制を築きました。
- 安保改定では国民の大反対を受けながらも成立を強行し、退陣します。
- アジア外交に力を入れ、戦後初のアジア歴訪を実現しました。
- 国防の基本方針を策定し、今の防衛政策の土台をつくりました。
- 統制経済を推進した経験から経済政策にも強みがありました。
- 対話力・包容力に優れたリーダーシップで「昭和の妖怪」とも呼ばれました。
