平清盛は、日本で初めて本格的な武家政権を作った人物で、平安時代の終わりに大きな力を持っていました。しかし、彼は64歳のときに「高熱を発して亡くなった」と言われています。
その死因について、歴史の記録には「熱病」と書かれていますが、実は医学的に考えると「インフルエンザ」「マラリア」「溶連菌感染症(猩紅熱)」など、さまざまな説があるのです。また、一部では「呪いで殺された」「毒を盛られた」なんて話もあります。
今回は、そんな平清盛の死因について、歴史的な記録や最新の研究をもとに分かりやすく解説します!
平清盛の死因とは?熱病・感染症・マラリアなどの説

平清盛の死因については、古い歴史書にも記録が残っています。しかし、その記述はとても劇的で、まるでおとぎ話のようなものもあります。本当にそんなことが起こったのでしょうか?
ここでは、平清盛の死因についてのさまざまな説を紹介し、どの説がもっとも有力なのかを考えていきます。
平清盛の死因は「熱病」が有力説?歴史的記録をもとに解説
平清盛の死因としてもっとも有名なのが「熱病」説です。『平家物語』や『愚管抄』などの歴史書には、次のように書かれています。
「清盛は高熱に苦しみ、その熱がまるで火のようだった。水をかけても湯になり、体から煙が立ちのぼった。」
このような記述を見ると、まるで超能力のように思えますね。でも、これは当時の人々が「清盛の死を特別なもの」として伝えたかったために、少し大げさに書かれた可能性があります。
実際のところ、「高熱が続いたあとに亡くなった」ということは事実のようです。平安時代の記録には「温病(うんびょう)」という言葉が出てきます。これは「発熱を伴う感染症」という意味で、現代でいうインフルエンザや肺炎に近い病気だったのかもしれません。
平清盛はインフルエンザで死んだ?冬の流行と症状の一致
平清盛が亡くなったのは1181年2月です。この時期は、現在でもインフルエンザが流行する季節です。清盛が発熱し、水も飲めなくなったという記録は、インフルエンザの重症化とよく似ています。
現代のインフルエンザでも、高齢者が感染すると重症化しやすく、肺炎を併発して命を落とすことがあります。当時はワクチンや抗ウイルス薬がなかったため、病気にかかると回復が難しかったのです。
また、清盛が暮らしていた京都は、人が多く集まる都でした。そのため、インフルエンザのような感染症が広がりやすかった可能性があります。
マラリア説の可能性は?日宋貿易と感染ルート
平清盛の死因として「マラリア説」もあります。マラリアは、蚊によって広がる感染症で、高熱と寒気を繰り返す特徴があります。
なぜ日本でマラリアが疑われるのでしょうか?それは、清盛が日宋貿易を行っていたからです。当時、日本と中国(宋)は活発に貿易をしており、中国からは多くの物資が運ばれていました。その中に、マラリアを媒介する蚊が紛れ込んでいた可能性があるのです。
しかし、マラリアは暖かい地域で発生しやすく、日本の冬に発症するのは不自然です。マラリアの潜伏期間は2週間ほどなので、もし清盛がマラリアに感染していたなら、冬ではなく夏や秋に発病していたはずです。そのため、マラリア説はあまり有力ではないと考えられます。
溶連菌感染症(猩紅熱)で急死した?新たな医学的解釈
近年の研究では、「平清盛の死因は溶連菌感染症(猩紅熱)」だったのではないかという説もあります。猩紅熱は、溶連菌という細菌によって引き起こされる病気で、高熱・喉の腫れ・全身の赤い発疹などの症状が出ます。
この説が注目される理由は、清盛の死の直前に、彼と親しかった藤原邦綱(ふじわらのくにつな)が同じような症状で亡くなっていることです。さらに、高倉上皇(清盛の娘・徳子の夫)も同様の症状で亡くなっています。
もし清盛が猩紅熱にかかっていたならば、高熱で苦しみ、急激に症状が悪化して亡くなったことも説明がつきます。当時の日本には抗生物質がなかったため、一度感染すると治療が難しかったのです。
毒殺説・仏罰説の真相は?平清盛の敵対勢力と死因の関係
一部では「清盛は毒殺されたのではないか?」という説もあります。なぜなら、彼の死後、平家は急速に衰退し、源氏が勢力を伸ばしていったからです。後白河法皇との対立もあり、暗殺されてもおかしくない状況でした。
また、『平家物語』では「清盛の死は仏罰だった」とも言われています。彼は南都焼討ち(興福寺・東大寺の焼き討ち)を命じ、多くの僧や仏像を焼き払いました。そのため、人々は「清盛が仏罰を受けた」と考えたのです。
しかし、現実的に考えると、毒殺説や仏罰説には決定的な証拠がありません。そのため、清盛の死は自然な病気によるものだったと考えられます。
平清盛は何歳で死んだのか?死因が歴史に与えた影響とは

平清盛は1181年に亡くなりましたが、その死は日本の歴史に大きな影響を与えました。ここでは、清盛の年齢や死因がどのように歴史を動かしたのかを詳しく見ていきましょう。
平清盛は64歳で死去!その年齢と当時の平均寿命を比較
平清盛は64歳で亡くなったと記録されています。これは現代では「まだまだ元気な年齢」ですが、平安時代の平均寿命を考えるとどうだったのでしょうか?
平安時代の一般庶民の平均寿命は30~40歳程度でした。しかし、これは乳幼児の死亡率が高かったための数値で、大人まで生き延びた人は50~60歳まで生きることも珍しくありませんでした。
武士や貴族など、身分の高い人は栄養状態が良く、清盛のように60歳を超える人もいました。そのため、64歳で亡くなった清盛は当時としては「かなりの長寿」といえるでしょう。
平清盛の死後:平家政権はどうなった?
清盛が亡くなったことで、平家政権は急速に弱体化しました。それまで平家をまとめていたのは、カリスマ性のある清盛でした。しかし、彼の死後、跡を継いだ平宗盛(たいらのむねもり)は指導力に欠けていたため、平家の結束は崩れていきました。
さらに、当時の日本は戦乱の時代に突入していました。源頼朝が挙兵し、各地で源氏と平家が戦うようになったのです。清盛の死からわずか4年後、平家は壇ノ浦の戦い(1185年)で滅亡してしまいました。
もし清盛がもっと長生きしていたら、平家の運命は変わっていたかもしれませんね。
死因が歴史に与えた影響!源頼朝の動向との関係
清盛の死は、源頼朝にとっては大きなチャンスでした。清盛が生きている間は、平家はまだ強い勢力を誇っていました。しかし、彼が亡くなると平家の力は一気に衰え、頼朝はその隙を突いて勢力を広げていきました。
特に、1180年から始まった「治承・寿永の乱」では、源氏が次第に平家を追い詰めていきます。1183年には、頼朝の弟・源義仲(みなもとのよしなか)が京都に攻め込み、平家を都から追い出しました。その後、1185年の壇ノ浦の戦いで平家は完全に滅亡し、頼朝の時代が訪れることになります。
つまり、清盛の死は「平家から源氏への政権交代」を決定づける大きな出来事だったのです。
平清盛の死を巡る逸話と語呂合わせ
平清盛の死は、当時の人々にとっても大きな衝撃でした。そのため、さまざまな逸話や伝説が生まれました。
- 「入道相国火に焼かるるが如し」- 清盛は「体が火のように熱くなって死んだ」と語り継がれています。これは、彼が南都焼討ち(興福寺・東大寺の焼き討ち)を行ったことへの「仏罰」だと考えられたためです。
 
- 清盛は「体が火のように熱くなって死んだ」と語り継がれています。これは、彼が南都焼討ち(興福寺・東大寺の焼き討ち)を行ったことへの「仏罰」だと考えられたためです。
- 語呂合わせ:「清盛の死は六四(64)」- 清盛が64歳で亡くなったことから、「六四(むし)」という言葉が使われることがあります。「虫の息」や「熱にやられる(むし熱い)」などのイメージとも関連付けられることがあります。
 
- 清盛が64歳で亡くなったことから、「六四(むし)」という言葉が使われることがあります。「虫の息」や「熱にやられる(むし熱い)」などのイメージとも関連付けられることがあります。
- 「水をかけても湯になる」- 『平家物語』では、清盛の体に水をかけても湯になったと書かれています。これはもちろん誇張表現ですが、それほど高熱に苦しんでいたことを強調したかったのでしょう。
 
平清盛の死因をめぐる現代の研究と今後の課題
平清盛の死因については、現在もさまざまな研究が行われています。最近では、溶連菌感染症(猩紅熱)や脳出血の可能性が指摘されています。
また、歴史的な文献の新たな発見によって、新しい説が出てくる可能性もあります。例えば、当時の貴族の日記には、清盛の病状についての記述がありますが、まだ十分に研究されていない部分もあるのです。
さらに、清盛の死因を探ることで、当時の医療や疫病の状況もより詳しくわかるようになります。これからの研究の進展が楽しみですね。
総括:平清盛の死因まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 平清盛は1181年、64歳で死去。死因は「熱病」と記録されている。
- 主な死因説- 熱病説:『平家物語』や『愚管抄』に記載。高熱で苦しみ亡くなったとされる。
- インフルエンザ説:1181年2月の流行病と類似。高齢者の肺炎併発の可能性も。
- マラリア説:日宋貿易で東南アジア経由の感染が疑われるが、日本の冬に発症は不自然。
- 溶連菌感染症(猩紅熱)説:同時期に死んだ藤原邦綱や高倉上皇との関連から有力視。
- 毒殺説・仏罰説:後白河法皇との対立や南都焼討ちの影響で生まれた俗説。
 
- 平清盛の死後の影響- 平家の衰退が加速し、1185年の壇ノ浦の戦いで滅亡。
- 源頼朝が台頭し、鎌倉幕府の成立へつながる。
 
- 清盛の死にまつわる逸話- 「体が燃えるように熱く、水をかけても湯になった」(『平家物語』の誇張表現)
- 語呂合わせ:「六四(むし)」=虫の息、むし熱い。
- 仏罰説:「南都焼討ちの報い」とする説が広まる。
 
- 現代の研究と今後の課題- 猩紅熱や脳出血の可能性が指摘されているが、決定的な証拠はなし。
- 新たな歴史文献の発見により、今後新たな説が出る可能性もある。
 
