みなさん、こんにちは!今日は、日本の歴史の中でも裏切りが重要なカギを握った戦い「関ヶ原の戦い」についてお話しします。この戦いは、東軍(徳川家康)と西軍(石田三成)による天下分け目の大戦です。
しかし、勝敗を決めたのは「戦いの強さ」ではなく、武将たちの裏切り」だったのです。特に有名なのが「小早川秀秋の裏切り」です。彼の決断によって西軍は総崩れとなり、東軍が勝利しました。
でも、「なぜ小早川秀秋は裏切ったのか?」、「他にも裏切った武将がいたの?」、「本当に裏切りはあったの?」といった疑問を持っている人も多いと思います。
そこで今回は、関ヶ原の戦いの裏切りについてわかりやすく解説していきます!最後まで読めば、きっと歴史がもっと好きになりますよ!
関ヶ原の戦いの裏切りの全貌!歴史を変えた武将たち

関ヶ原の戦いは「裏切りの戦い」とも言われます。なぜなら、戦いの途中で「味方だと思っていた武将が、突然敵に寝返った」からです。
特に小早川秀秋の裏切りは、戦局を大きく変えました。では、具体的にどんな武将たちが裏切ったのか、詳しく見ていきましょう!
関ヶ原の戦いにおける裏切りの全貌とは?
関ヶ原の戦いでは、多くの武将が自分の立場を考えて動きました。ある者は豊臣家のために戦い、ある者は徳川家の未来を考えて戦いました。
しかし、戦況を見て負けそうだ!と思った武将たちは、突然味方を裏切ることを選びます。
特に有名な裏切りは以下の5つです。
- 小早川秀秋(西軍 → 東軍)
- 吉川広家(西軍 → 東軍に協力)
- 脇坂安治(西軍 → 東軍)
- 赤座直保(西軍 → 東軍)
- 朽木元綱(西軍 → 東軍)
これらの武将の裏切りによって、西軍は一気に崩壊してしまったのです。では、その中でも最も大きな影響を与えた「小早川秀秋の裏切り」について詳しく見ていきましょう!
小早川秀秋の裏切りが決定的だった理由
小早川秀秋は、もともと豊臣家の武将でした。しかし、関ヶ原の戦いでは西軍についていたにもかかわらず東軍に寝返ったのです。
彼の裏切りがなぜ戦いの決定打になったのでしょうか?
理由は3つあります。
① 兵の数が圧倒的だった
小早川秀秋は1万5000人の兵を持っていました。これは西軍の中でもかなりの戦力です。そのため、彼が裏切ると一気に西軍が劣勢になってしまいました。
② 寝返るタイミングが絶妙だった
関ヶ原の戦いでは、西軍が優勢に戦っていました。しかし、小早川秀秋が裏切ったことで、西軍の中心部が攻撃され、総崩れになりました。
③ 「問い鉄砲」によるプレッシャー
実は、小早川秀秋はすぐに裏切るつもりではなかったとも言われています。そこで徳川家康は、「本当に裏切るつもりがあるのか?」と試すために、鉄砲を撃ち込んだのです。この「問い鉄砲」に驚いた小早川秀秋は、慌てて裏切りを決意したとも言われています。
吉川広家の裏切りが戦局に与えた影響
関ヶ原の戦いの裏切りでもう一人重要な武将がいました。それが吉川広家です。
彼は西軍の総大将・毛利輝元の家臣でしたが、最初から東軍と内通していました。つまり、西軍にいながら、戦いには参加せず「静観」していたのです。
彼は戦う前に徳川家康と密約を結んでいたのです。
内容は、
「戦いに参加せず、西軍の毛利軍を動かさないかわりに、毛利家の領地を守ってもらう」
というものでした。
そのため、彼は関ヶ原の戦いで一切戦わず、毛利軍も戦場で動かなかったのです。結果として、毛利軍の兵約1万7000人は 一切戦わずに戦いを終えました。これが西軍崩壊の一因となったのです。
脇坂安治・赤座直保・朽木元綱ら4武将の裏切り
小早川秀秋の裏切りに続いて、他の西軍の武将たちも次々に東軍に寝返りました。代表的な4人が脇坂安治・赤座直保・朽木元綱・小川祐忠です。
彼らの裏切りの理由は「勝てそうな方につきたかった」からでした。戦国時代は、生き残ることが最も大事だったため、「負けそうな軍」からは早めに逃げる ことが重要だったのです。
しかし、彼らの裏切りは小早川秀秋の裏切りを見て決断したものでした。つまり、彼が裏切らなければ、この4人も裏切らなかった可能性が高いのです。
裏切りが生じた背景とは?戦国時代の政治的事情
では、なぜこれほど多くの武将が裏切ったのでしょうか?その背景には戦国時代の政治的な駆け引きがありました。
- 豊臣家を支え続けるべきか、徳川家の未来を選ぶべきか
- もし西軍が負けたら、自分の領地が奪われる可能性
- 東軍が勝つと見た武将たちが次々に寝返った
こうした理由が積み重なり、多くの武将が「勝ち馬に乗る」形で裏切りを決めたのです。
関ヶ原の戦いの裏切り:小早川秀秋が裏切った理由

関ヶ原の戦いで最も有名な裏切りといえば「小早川秀秋の裏切り」です。しかし、彼はなぜ西軍を裏切り、東軍についたのでしょうか?
その理由には複雑な政治的背景や個人的な事情がありました。ここでは、小早川秀秋の裏切りの理由を 詳しく解説していきます。
豊臣家での立場が不安定だった小早川秀秋
小早川秀秋は、もともと豊臣家の有力武将でした。しかし、彼は豊臣家の中で不安定な立場に置かれていました。その理由は秀吉の死にあります。
秀吉が生きていた頃、秀秋は豊臣家の跡継ぎ候補でした。しかし、秀吉の実子である豊臣秀頼が生まれると、秀秋の立場は急に弱くなりました。さらに、秀吉の死後、豊臣家の内部では「徳川家康を支持する派」と「石田三成を支持する派」に分かれて争うようになりました。
このような状況の中で、秀秋は「自分の将来はどうなるのか?」と不安を感じていたのです。そこで、彼は豊臣家を守るのではなく、自分自身の未来を守るために動くことを決めました。
「裏切りの決断」はいつ決まったのか?
実は、小早川秀秋は戦う前から東軍に寝返ることを決めていた 能性があります。
関ヶ原の戦いが始まる前、東軍の徳川家康は、小早川秀秋に「味方になれば大きな領地を与える」と約束していました。この約束は「起請文」という正式な書類で交わされていました。
つまり、秀秋は最初から西軍に忠誠を誓っていたわけではなく、すでに東軍と話がついていたのです。しかし、彼はどのタイミングで裏切るのかを迷っていました。そこで、家康は「問い鉄砲」を撃ち、最終的に秀秋を寝返らせたのです。
「問い鉄砲」は本当にあったのか?
関ヶ原の戦いで有名なエピソードの一つに「問い鉄砲」があります。これは、徳川家康が小早川秀秋の陣に向かって鉄砲を撃ち込んだという話です。この「問い鉄砲」は、「裏切るのか、それとも戦うのか」を決めかねていた秀秋にプレッシャーを与えるために行われたと言われています。
しかし、実はこの話の真偽は不明です。というのも、「問い鉄砲」について記録されているのは二次史料(後の時代に書かれたもの)のみであり、当時の一次史料には記録がないからです。
つまり、「問い鉄砲」は後の人々が作り上げた物語の可能性があるのです。実際には、秀秋は開戦前にすでに東軍に寝返ると決めていたとも考えられています。
裏切り後の小早川秀秋の運命
関ヶ原の戦いで小早川秀秋は大きな功績を上げました。その結果、彼は戦後に 岡山藩55万石という巨大な領地を与えられました。これは西軍の宇喜多秀家の領地をそのまま引き継いだものです。
しかし、秀秋の人生は決して幸せなものではありませんでした。
- 裏切りによる精神的なストレス
- 「裏切り者」として周囲からの冷たい目
- 戦後、酒浸りの生活
こうした生活の影響もあり、彼は関ヶ原の戦いのわずか2年後、22歳という若さで亡くなってしまいました。
「関ヶ原の戦いで裏切りさえしなければ、彼の運命は変わっていたのかもしれない…」
そんなことを考えずにはいられません。
関ヶ原の裏切りから学ぶ「歴史の教訓」
関ヶ原の戦いの裏切りは単なる戦場での駆け引きではなく、戦国時代の「生き残り戦略」でもありました。
では、私たちはこの歴史からどんなことを学ぶことができるのでしょうか?
① 戦国時代の武将たちは、個人の生き残りを最優先に考えた
戦国時代は命がけの時代。家族や家臣を守るために状況に応じて決断を変えなければならなかったのです。
② 「裏切り」は必ずしも悪ではなかった
現代の私たちから見ると「裏切り」は悪いことのように思えます。しかし、当時の武将たちは家や領地を守るために裏切るしかなかったという事情がありました。
③ 勝者が歴史を作る
「問い鉄砲」や「小早川の裏切りのタイミング」など、後世に伝わる話の多くは後から作られたものかもしれません。 歴史は勝者によって作られるということを覚えておくことが大切です。
総括:関ヶ原の戦いの裏切りまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 関ヶ原の戦いの裏切りの全貌
- 戦いの勝敗は武力ではなく「裏切り によって決まった。
- 小早川秀秋の裏切りが戦局を大きく変え、西軍を総崩れに追い込んだ。
- 他にも裏切った武将が複数いた。
- 吉川広家(戦わず毛利軍を抑えた)
- 脇坂安治・赤座直保・朽木元綱・小川祐忠(小早川の裏切り後に東軍へ寝返る)
2. 小早川秀秋の裏切りの理由
- 豊臣家での立場が不安定だった(豊臣秀頼誕生で冷遇される)。
- 戦う前から東軍と内通していた(家康と「起請文」を交わしていた)。
- 裏切りのタイミングを迷っていたが、「問い鉄砲」によって決断した。
3. 「問い鉄砲」の真偽
- 家康が小早川陣へ鉄砲を撃ち、裏切るよう圧力をかけた話が有名。
- しかし、これは後世の二次史料に基づく話であり、一次史料には記録がない。
- 実際には開戦前にすでに寝返りを決めていた可能性が高い。
4. 裏切り後の小早川秀秋の運命
- 岡山藩55万石 という大領地を得る。
- しかし裏切り者としての重圧に苦しみ、酒浸りの生活に。
- 関ヶ原の戦いのわずか2年後、22歳で急死。
5. 関ヶ原の裏切りから学べる教訓
- 戦国武将は「生き残ること」が最優先だった。
- 「裏切り」は戦略の一部であり、単なる悪ではなかった。
- 歴史は勝者によって作られる(後世に伝わる話には脚色がある)。