今回は「軍神」と呼ばれた広瀬武夫(ひろせたけお)について、
「子孫はいるの?」
「いたら現在どうしているの?」
という疑問にわかりやすく答えていきます。
ネットでもたびたび話題になる広瀬武夫の末裔(まつえい)問題ですが、実はちょっと意外な事実があるんですよ。
恋人の存在や、家族とのつながり、ゆかりの地についても、歴史好きな小中学生でも楽しく読めるように説明していきますね!
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広瀬武夫の子孫の現在!軍神の子供や孫・末裔
広瀬武夫はその英雄的な行動から「軍神」として名を馳せましたが、彼には子孫がいるのでしょうか?ここでは、広瀬の家族や親戚について詳しく解説し、今も残る彼の遺産や記録を探ります。
広瀬武夫に子供はいない!生涯独身だった理由
広瀬武夫には、子供はいませんでした。
というのも、彼は生涯を通して独身を貫いたからです。なぜ結婚しなかったのかというと、まずひとつは軍人としての仕事がとても忙しかったこと。そしてもうひとつは、命がけの任務をつねに背負っていたため、家庭を持つ余裕がなかったのです。
また、広瀬武夫はロシアへの留学や海外視察など、外国で過ごすことも多く、その中で恋愛に発展する時間も限られていました。
さらに、「国のために命をかける」という強い使命感を持っていたため、家族を持つよりも「日本のために尽くす」ことを選んだのかもしれません。
子孫はいないが姪や親戚は存在!阿南惟幾との親戚関係も
広瀬武夫に子どもはいませんが、実は親戚の中に有名な人物がいます。そのひとりが、太平洋戦争の終戦直前に陸軍大臣を務めた「阿南惟幾(あなみこれちか)」です。
阿南家と広瀬家は親戚関係にあり、広瀬武夫の血を引く姪の夫が阿南家に関わっていたとされます。
つまり、広瀬武夫自身に直接の子孫はいませんが、広瀬家の血筋や精神は、親族を通して現代にもつながっている可能性があるのです。竹田市の広瀬神社の墓所には、広瀬武夫の父や親族の墓が並んでいることも確認されています。
こうした点からも、今なお広瀬家の人々の存在が感じられます。
恋人だったロシア貴族アリアズナとの関係とその後
広瀬武夫には、実は「ロシアの貴族令嬢(れいじょう)」との恋愛エピソードがあります。彼女の名前は「アリアズナ・コワレフスキー」。ロシアに駐在していたときに出会い、二人は深く愛し合いました。
しかし、国同士が敵になることがわかっていた広瀬は、日本へ戻る際にアリアズナと別れを選びました。
それでも、二人はその後も手紙のやりとりを続けていたといわれています。まさに「戦争に引き裂かれた恋」。広瀬は命をかけて日本を守り、アリアズナへの思いも大切にしながら、その役目を全うしました。
このエピソードは、後に多くの小説やドラマでも取り上げられています。
現在も残る広瀬家ゆかりの場所と人々の記録
広瀬武夫のゆかりの地といえば、まずは大分県竹田市にある「広瀬神社」です。ここには彼の胸像や記念碑、そして家族のお墓もあり、今でも多くの人が訪れています。また、東京の青山墓地や、中国・旅順のロシア墓地にも広瀬にまつわる慰霊碑が残っています。
さらに、広瀬の遺品や資料は、江田島や佐世保の自衛隊資料館にも展示されており、軍神としての功績を今に伝えています。こうした史跡や記念物からは、広瀬武夫という人物がどれほど多くの人に敬愛され、歴史に大きな足跡を残したかがわかります。
ネットで話題の「子孫はいる?」説
SNSなどでは「広瀬武夫の生家の近くに記念碑があって、その家が子孫の家では?」というウワサもあります。実際に、竹田市には記念碑が民家の庭先にあるように見える場所があり、これが話題になっています。
しかし、これまでの記録や研究からは、広瀬武夫には直接の子孫はいないとされています。そのため、記念碑のある家が広瀬家と関係している可能性はあっても、直系の子孫が住んでいるという確かな証拠はありません。
ネット情報は気になりますが、正しい史料や文献に基づいた判断が大切です。
広瀬武夫の子孫の後に:何をした人?軍神と呼ばれた理由
前半では「広瀬武夫の子孫はいるのか?」を解説しましたが、そもそも広瀬武夫がどんな人物だったのかを知らないと、子孫の話にも深みが出ませんよね。
ここからは、彼の人物像や功績、なぜ「軍神」とまで呼ばれたのか、そして今なお語り継がれる理由をじっくり説明していきます。
広瀬武夫はどんな人?出身地や家系・人柄を紹介
広瀬武夫は1868年(慶応4年)に、現在の大分県竹田市で生まれました。父は岡藩の武士で、維新後は裁判官を務めた人物です。兄の広瀬勝比古も海軍少将で、武夫はまさに「武家の家系」に育ったのです。
広瀬はまじめで誠実な性格の持ち主で、同僚や部下にもとても信頼されていました。また、海外経験も豊富で、ロシア語を話せたり、教養も高かったとされています。
「強くて優しい」そんな理想の軍人だったからこそ、多くの人々の心に残る人物になったのでしょう。
軍神と呼ばれた理由とは?旅順港閉塞作戦での死の真相
広瀬武夫が「軍神」と呼ばれるようになったのは、日露戦争中の「旅順港閉塞作戦(へいそくさくせん)」での行動がきっかけです。この作戦は、ロシア艦隊を港に閉じ込めるため、古い船を沈めるという非常に危険なものでした。
広瀬は部下の命を守るため、自ら最後まで船に残り、行方不明になった兵士・杉野孫七(すぎのまごしち)を探し続けました。その途中、敵の砲弾を受けて戦死してしまいます。
この自己犠牲的な行動が、日本中に感動を呼び、彼は「軍神」として讃えられるようになったのです。
広瀬武夫と秋山真之の深い友情
広瀬武夫には、もうひとつ有名なエピソードがあります。
それは、日露戦争で作戦を立てたことで有名な参謀・秋山真之(あきやまさねゆき)との深い友情です。二人は兵学校では学年が違いましたが、教官を通じて知り合い、強い信頼関係を築きました。
なんと、東京で同居していたこともあるんですよ。パンと水だけで生活する質素な日々を送りながらも、心を通わせていた二人。その友情は「戦友」という枠を超えた、まさに「魂の友」と言えるものでした。
こうした人間的魅力も、広瀬が多くの人に愛される理由のひとつです。
広瀬武夫の教養と人格|ロシア語・ダンス・柔道
広瀬武夫は、ただの軍人ではありませんでした。
実は多彩な才能を持つ教養人だったのです。ロシア語を独学で習得し、ロシアへの留学や軍事視察でもその能力を発揮しました。さらに、ダンスを学んだのも、恋人アリアズナと踊るため。そんな一面にも人柄が表れていますね。
また、広瀬は柔道にも熱中しており、講道館の六段を持っていたほどの腕前でした。軍人としての強さだけでなく、知性や礼儀、気配りなどにも優れていたことがわかります。
彼の魅力は、「強くて頭が良くて優しい」、まさに理想のリーダー像といえるでしょう。
全国に残る銅像や記念館:今も語り継がれる英雄の姿
広瀬武夫の名前や姿は、今も日本各地で見ることができます。大分県竹田市の「広瀬神社」には、彼の立派な銅像があり、地元の人々に大切にされています。また、東京都の青山墓地にも彼のお墓があり、毎年多くの人が訪れる場所です。
自衛隊の資料館や記念館でも、広瀬の遺品や写真が展示されています。そして、教科書や小説『坂の上の雲』にも登場する彼の姿は、現代の子どもたちにも語り継がれています。
命をかけて仲間と国を守った英雄の精神は、時代が変わっても人々の心に生き続けているのです。
総括:広瀬武夫の子孫の現在まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
広瀬武夫の子孫
- 広瀬武夫には子どもはおらず、生涯独身だった
- 独身の理由は、軍人として多忙だったことと使命感から家庭を持たなかったため
- 広瀬の直接の子孫はいないが、姪の夫が阿南惟幾であり、親戚に著名人がいる
- 恋人はロシア貴族のアリアズナで、文通を続けていたが結婚には至らなかった
- 広瀬神社や青山墓地など、ゆかりの場所が現在も多数残っている
- 「子孫がいるのでは?」というネットの噂もあるが、確証はない
広瀬武夫という人物について
- 広瀬は大分県竹田市出身、武家の家系で育ち誠実で教養ある人物だった
- 日露戦争の旅順港閉塞作戦で、部下を助けようとして命を落とし「軍神」と呼ばれるように
- 親友の秋山真之と深い友情を持ち、同居していたこともある
- ロシア語やダンス、柔道などに優れた教養人でもあった
- 銅像や記念館などが全国に残され、今も英雄として語り継がれている