歴史の授業で「伊達政宗(だてまさむね)」の名前を聞いたことがありますか?

独眼竜(どくがんりゅう)とも呼ばれたこの戦国武将は、東北の覇者として知られ、最後まで天下を狙っていた大名の一人です

「伊達政宗の人生ってどんなふうに進んだの?」
「どんな戦いに参加して、どんなふうに活躍したの?」

そんな疑問を持っている人のために、伊達政宗の生涯を年表で分かりやすく解説します!特に、彼の戦いの歴史はすごいです。天下を目指してどんな戦いを繰り広げたのか、一緒に見ていきましょう!

伊達政宗の生涯年表|誕生から晩年までを一挙解説

まずは、伊達政宗の生涯を大まかに年表で見てみましょう。戦国時代から江戸時代にかけて生きた彼の波乱万丈な人生を、分かりやすくまとめました!

伊達政宗の生涯年表【総合版】|出生から最期までの流れを一目で把握

伊達政宗の生涯を簡単な年表で見てみよう。

出来事
1567年出羽国米沢城で誕生。幼名は「梵天丸(ぼんてんまる)」
1571年天然痘にかかり、右目を失明する
1584年18歳で伊達家の家督を継ぐ
1589年摺上原(すりあげはら)の戦いで勝利し、奥州の覇者となる
1590年豊臣秀吉に降伏し、小田原征伐に参加
1600年関ヶ原の戦いで東軍(徳川家康側)に味方する
1613年家臣・支倉常長(はせくらつねなが)をスペインへ派遣
1636年仙台で病没。享年70歳

このように、伊達政宗の人生は戦いと政治の連続でした。

伊達政宗の幼少期・元服【1567年~1584年】|片目を失いながらも大名へ成長

伊達政宗は1567年、出羽国(現在の山形県)で生まれました。幼いころの名前は「梵天丸(ぼんてんまる)」です。しかし、5歳のときに天然痘(てんねんとう)という病気にかかり、右目を失明してしまいました。これが「独眼竜(どくがんりゅう)」と呼ばれるきっかけになったのです。

11歳で「元服(げんぷく)」を迎え、大人の仲間入りを果たした政宗は、「伊達藤次郎政宗(だて とうじろう まさむね)」と名乗るようになりました。そして、18歳になると父・伊達輝宗(だて てるむね)から家督を引き継ぎ、伊達家の当主になりました。ここから、彼の本格的な戦国人生が始まったのです。

出来事
1567年出羽国米沢城で誕生(幼名:梵天丸)
1571年天然痘にかかり、右目を失明する
1577年11歳で元服し、「伊達藤次郎政宗」と名乗る
1584年18歳で伊達家の家督を継ぐ

伊達政宗の奥州制覇【1584年~1590年】|摺上原の戦いでの大勝利

18歳で家督を継いだ伊達政宗は、どんどん勢力を広げていきました。彼の一番の大勝利は、1589年の「摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)」です。

この戦いでは、伊達家と敵対していた蘆名(あしな)家と戦いました。蘆名家は奥州(東北地方)で強い勢力を持っていましたが、政宗はこれを打ち破り、見事に奥州の覇者になったのです。

このとき政宗が支配していた領地は約110万石(いし)にもなり、全国でも有数の大名となりました。

出来事
1584年18歳で伊達家の家督を継ぐ
1585年小手森城の戦いで敵勢力を撫で斬りにする
1589年摺上原の戦いで蘆名家を滅ぼし、奥州の覇者となる

豊臣政権下の伊達政宗【1590年~1600年】|小田原遅参と処分の危機を乗り越える

ところが、政宗の快進撃はここで一旦ストップします。なぜなら、天下を狙っていた豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)が「惣無事令(そうぶじれい)」というルールを作り、大名たちが勝手に戦をすることを禁止したからです。

しかし、政宗はこの命令を無視して戦い続けたため、秀吉の怒りを買ってしまいました。そして1590年の「小田原征伐(おだわらせいばつ)」のとき、政宗は豊臣軍に遅れて参加しました。

遅れてやってきた政宗は「死に装束(しにしょうぞく)」という白い着物を着ていました。これは「もう覚悟を決めた」という意味です。しかし、その大胆な行動が秀吉に気に入られ、なんとか許してもらうことができました。

出来事
1590年豊臣秀吉の「小田原征伐」に遅れて参陣(死に装束で登場)
1591年「葛西・大崎一揆」の黒幕と疑われるが罪には問われず
1593年朝鮮出兵(文禄の役)に参戦する
1598年豊臣秀吉が死去する

徳川政権と仙台藩の成立【1600年~1636年】|関ヶ原の戦いとその後の晩年

1598年に豊臣秀吉が亡くなると、次に天下を狙ったのは徳川家康(とくがわ いえやす)でした。そして、1600年に「関ヶ原の戦い」が起こります。

政宗は徳川家康側(東軍)について戦いました。戦のあと、家康は政宗に62万石の領地を与え、仙台藩を作ることを許しました。こうして政宗は仙台の地に新しい城を建て、大名としての生活を続けました。

その後、1613年には家臣の支倉常長(はせくら つねなが)をスペインに派遣し、貿易を試みましたが、これはうまくいきませんでした。

そして1636年、伊達政宗は病気のため亡くなりました。70歳まで生きた政宗は、戦国武将の中でもかなり長生きだったのです。

出来事
1600年関ヶ原の戦いで徳川家康側(東軍)として参戦
1601年仙台藩が成立し、政宗が初代藩主となる
1613年支倉常長をスペインへ派遣する(慶長遣欧使節)
1614年大坂冬の陣に参戦(徳川軍として)
1615年大坂夏の陣に参戦(豊臣家が滅亡)
1636年病没(享年70)

伊達政宗の戦い年表|独眼竜が挑んだ主要合戦一覧

伊達政宗といえば、戦いの名将!彼は戦国時代を生き抜くために多くの戦に参加し、そのたびに知恵と戦術を駆使してきました。

ここでは、彼が関わった主要な戦いを年表形式で紹介します。どんな戦いがあったのか、一緒に見ていきましょう!

伊達政宗の戦い年表【総合版】|生涯で関わった戦の一覧

伊達政宗が戦った主な戦いをまとめた年表は以下のとおりです。

戦いの名前戦った相手結果
1581年初陣(相馬氏との戦い)相馬家勝利
1585年小手森城の戦い大内定綱勝利(撫で斬り)
1585年人取橋の戦い佐竹・蘆名連合軍引き分け
1588年大崎合戦大崎家・最上家和睦
1589年摺上原の戦い蘆名義広勝利(奥州制覇)
1600年長谷堂の戦い上杉景勝(直江兼続)勝利
1614年大坂冬の陣豊臣軍徳川軍の勝利
1615年大坂夏の陣豊臣軍徳川軍の勝利(豊臣家滅亡)

こうして見ると、伊達政宗は多くの戦に参加していますね!では、それぞれの戦いの詳細を見ていきましょう。

伊達政宗の初陣【1581年】|相馬氏との戦いで武将デビュー

伊達政宗が初めて戦に出たのは、1581年、15歳のときです。

相手は隣の相馬(そうま)氏でした。戦国時代は隣同士の大名が領地を巡ってよく戦をしていました。

このとき政宗は、父・伊達輝宗(だて てるむね)と一緒に出陣し、相馬氏の領地に攻め込みました。戦の結果、伊達軍が勝利し、政宗は初陣を無事に飾ることができました。これを機に、彼はどんどん戦場で活躍するようになったのです。

出来事
1581年15歳で相馬氏との戦いに出陣し、初陣を飾る

摺上原の戦い【1589年】|奥州統一への決定的勝利

1589年、伊達政宗が戦国武将として一気に有名になった戦いが「摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)」です。

この戦いの相手は、奥州(東北地方)の大名・蘆名義広(あしな よしひろ)でした。当時、奥州では伊達家と蘆名家が勢力を競い合っていたのです。

戦の結果は伊達政宗の圧勝でした。蘆名氏を滅ぼしたことで、伊達家は東北地方で最強の勢力になりました。これにより、政宗は「奥州の覇者」と呼ばれるようになったのです。

出来事
1589年摺上原の戦いで蘆名家を滅ぼし、奥州の覇者となる

関ヶ原の戦いと長谷堂の戦い【1600年】|上杉景勝の家臣と対決

1600年に起こった「関ヶ原の戦い」は、日本の歴史の中でも非常に重要な戦いです。

この戦いでは、徳川家康(とくがわ いえやす)と石田三成(いしだ みつなり)が対立しました。伊達政宗はどちらの味方についたと思いますか?答えは、徳川家康の東軍です。政宗は東軍として行動し、東北地方では上杉景勝(うえすぎ かげかつ)と戦いました。

特に「長谷堂の戦い(はせどうのたたかい)」では、政宗の軍が最上義光(もがみ よしあき)と協力し、上杉軍の直江兼続(なおえ かねつぐ)と戦いました。結果は伊達軍と最上軍の勝利でした。これによって、政宗の立場はさらに強くなりました。

出来事
1600年関ヶ原の戦いで徳川家康側(東軍)として参戦
1600年長谷堂の戦いで最上義光と共に上杉軍と戦い、勝利する

大坂の陣【1614年・1615年】|豊臣家滅亡を見届けた伊達政宗

戦国時代の最後の大戦が「大坂の陣(おおさかのじん)」です。

徳川家康は、豊臣家を完全に滅ぼすために戦を仕掛けました。このとき伊達政宗は徳川軍として参戦し、豊臣軍と戦いました。

1614年の「大坂冬の陣(ふゆのじん)」では、大坂城を包囲する戦いを行いました。しかし、このときは決着がつかず、一度は和睦(わぼく)が結ばれました。

しかし、翌1615年の「大坂夏の陣(なつのじん)」で、ついに豊臣軍は敗北しました。豊臣秀頼(とよとみ ひでより)は自害し、豊臣家は滅亡してしまったのです。

これによって、戦国時代は完全に終わり、江戸時代が始まりました。伊達政宗はこの戦いを見届け、徳川幕府の大名として生きることになったのです。

出来事
1614年大坂冬の陣に参戦(徳川軍として大坂城を包囲)
1615年大坂夏の陣に参戦し、豊臣家が滅亡する

総括:伊達政宗の生涯年表まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

西暦(和暦)年齢出来事
1567年(永禄10年)1歳出羽国(現在の山形県)米沢城で誕生。幼名は「梵天丸」。
1571年(元亀2年)5歳天然痘にかかり、右目を失明。「独眼竜」の由来となる。
1577年(天正5年)11歳元服し、「伊達藤次郎政宗」と名乗る。
1579年(天正7年)13歳田村清顕の娘・愛姫(めごひめ)と婚姻。
1581年(天正9年)15歳初陣。相馬氏との戦いで勝利。
1584年(天正12年)18歳父・伊達輝宗が隠居し、伊達家の家督を継ぐ。
1585年(天正13年)19歳小手森城の戦いで敵を撫で斬りにし、恐れられる。
1589年(天正17年)23歳摺上原の戦いで蘆名氏を破り、奥州の覇者となる。
1590年(天正18年)24歳豊臣秀吉の「小田原征伐」に遅れて参陣。死に装束で許しを得る。
1591年(天正19年)25歳葛西・大崎一揆の黒幕と疑われるが処分を免れる。
1593年(文禄2年)26歳朝鮮出兵(文禄の役)に参戦。
1598年(慶長3年)31歳豊臣秀吉が死去。徳川家康が天下を狙う。
1600年(慶長5年)34歳関ヶ原の戦いで東軍に味方し、長谷堂の戦いで勝利。
1601年(慶長6年)35歳仙台藩が成立し、初代藩主となる。
1613年(慶長18年)47歳支倉常長をスペインへ派遣(慶長遣欧使節)。
1614年(慶長19年)48歳大坂冬の陣に参戦(徳川軍として)。
1615年(慶長20年)49歳大坂夏の陣で豊臣家が滅亡。
1636年(寛永13年)70歳病没(享年70)。