乃木希典(のぎ まれすけ)は、明治時代に活躍した日本の軍人で、特に日露戦争での203高地の戦いで知られています。その戦いぶりは、今でも「すごい」と語り継がれるほどのものでした。
しかしその一方で、「愚将(ぐしょう)」という意見もあります。なぜ評価が分かれるのか?
今回は、そんな乃木希典のすごさについて、子どもでも分かるようにやさしく解説していきますよ!
※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。
↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓


乃木希典のすごさとは?203高地で見せた覚悟と実力
乃木希典は、日露戦争の最前線で数々の戦闘を指揮し、その名を歴史に刻んだ人物です。特に203高地での激戦において、彼が見せた覚悟と実力は多くの人々に影響を与えました。
ここでは、乃木希典がいかにして指揮官として戦局を有利に導いたのか、そのすごさを詳しく解説します。
乃木希典のすごさは203高地の激戦で証明された
乃木希典が本当にすごいのは、日露戦争の激戦地「203高地」での指揮にあります。
203高地は、ロシアが守るとても強い要塞で、日本軍がなかなか勝てない場所でした。乃木は第三軍の司令官としてこの難しい任務を引き受け、何度も攻撃を指示しました。
最初の攻撃では大きな被害を出しましたが、それでも諦めずに何度も戦術を見直し、部下たちと共に戦い抜きました。そしてついに、1904年12月に203高地を占領したのです。
この勝利によって、ロシアの艦隊を攻撃できるようになり、日本軍の戦局が有利になったのです。この結果からも、乃木の「諦めない指揮力」と「粘り強さ」が評価されているのです。
長男・次男の戦死にも屈せず戦い続けた精神力
203高地の戦いの中で、乃木希典は二人の息子を失いました。長男の勝典(かつすけ)は、戦いの最中に戦死し、その後に次男の保典(やすすけ)も命を落とします。
普通の人なら、家族を失った悲しみで心が折れてしまいそうですが、乃木は任務を優先し、軍の指揮を続けました。その姿に、多くの人が「まさに武士の精神だ」と感動しました。
自分の感情を抑え、国のため、仲間のために戦い抜くその姿勢は、現代のリーダーにも通じるものがあります。乃木のこの精神力は、ただ強いだけでなく、深い覚悟に裏打ちされた「本物の強さ」だと言えるでしょう。
司令官交代を望む声を退けた明治天皇との信頼関係
203高地の戦いは、長引く上に多くの犠牲者を出したため、一部では「乃木を司令官から外すべきだ」という声も上がりました。
しかし、そのとき明治天皇は「乃木を替えるな」ときっぱり言ったのです。これは、天皇が乃木に深い信頼を寄せていた証拠です。明治天皇は、乃木が若いころに軍旗を失ってしまったことを知っており、それ以来、彼が死に場所を求めていることにも気づいていたのです。
そんな乃木に、再び大きな任務を与えることで、名誉を取り戻す機会を与えたのでしょう。天皇と乃木の間には、ただの上司と部下という関係ではない、深い絆と信頼があったのです。
戦後も語り継がれる「爾霊山」の漢詩に込められた想い
乃木希典は、軍人であるだけでなく、漢詩を得意とする教養人でもありました。203高地での戦いの後に詠んだ「爾霊山(にれいざん)」という漢詩には、戦いの悲惨さと犠牲になった兵士たちへの深い想いが込められています。
詩の中には「鉄血山を覆いて山形改まる」など、戦いによって山の形が変わってしまうほどの激しさが描かれており、読んだ人の胸を打ちます。
この詩はただの文学作品ではなく、乃木自身の心の叫びでもあるのです。彼の「人を思う心」がよく表れており、人格者としてのすごさも感じ取れる一面です。
世界のメディアが称賛した紳士的なふるまい
203高地を陥落させたあと、乃木希典は降伏してきたロシア軍の将校たちと会見をしました。そのときの乃木の対応はとても紳士的で、敵に対しても敬意を忘れず、礼儀正しくふるまいました。
この様子は、ニューヨーク・タイムズをはじめとする世界中の新聞で取り上げられ、「日本の将軍は品位ある人物だ」と称賛されました。
勝っても相手をけなしたりせず、むしろ相手の勇気や努力を認める。そうした姿勢は、日本の「武士道」の精神そのものです。乃木希典のすごさは、戦いの強さだけでなく、こうした心のあり方にもあるのです。
乃木希典のすごさ:人物像とエピソード
乃木希典のすごさは、203高地での戦いだけにとどまりません。彼の人柄や考え方、生涯を通じての行動からは、多くの学びがあります。愚将と呼ばれた背景や、教育者としての一面、友情、そして死後に残した影響まで――。
ここでは、そんな乃木の「人物像」に迫っていきましょう。
乃木希典はなぜ「愚将」とも呼ばれるのか
乃木希典は「すごい将軍」と称えられる一方、「愚将(ぐしょう)」と批判されることもあります。特に日露戦争の旅順攻撃では、正面突撃を何度も繰り返し、たくさんの兵士が命を落としました。
これを見て、作家の司馬遼太郎などは「無策だった」と評価しました。しかし当時は、近代的な要塞に対する戦術がまだ発展しておらず、どうしても正面からの突撃が必要だったという事情もあります。
乃木ひとりに責任を押しつけるのは、少し酷だったかもしれませんね。つまり、当時の限られた状況の中で、できる限りの戦いをしたと評価する見方もあるのです。
すごさは「人徳」にあり?部下や国民に慕われた理由
乃木希典のすごさは、戦場だけでなく、その「人徳(じんとく)」にもあります。
彼は厳しいけれども、部下や生徒たちにとても優しく、人として信頼されていた人物でした。自分にはとても厳しく、質素な生活を送り、奢(おご)ることがなかったのです。
さらに、部下が戦死したときにはその家族を見舞いに行くなど、思いやりのある行動も数多く残っています。その姿勢は、戦後の国民たちにも感動を与え、乃木神社が建てられるほど敬われました。まさに「人格者」としてのすごさがあったと言えますね。
学習院院長としての功績!昭和天皇の教育係としての役割
戦争が終わったあとの乃木希典は、軍人から教育者に転身します。
1907年、明治天皇の意向により、学習院という学校の院長に任命されました。ここでは皇族や貴族の子どもたちを教えていて、後の昭和天皇(当時は少年)も乃木に教えを受けました。
乃木は、勉強だけでなく、剣道・柔道・水泳などの体力づくりも重視し、「心と体を鍛える教育」を大切にしました。また、全寮制にして生活指導にも力を入れ、「規律ある生活」を教えたのです。軍人としての経験を、教育に活かしたことも、彼のすごさの一つです。
児玉源太郎の友情と連携が勝利を呼んだ
乃木希典と児玉源太郎は、どちらも長州藩出身の軍人で、深い友情で結ばれていました。203高地での戦いがうまくいかず苦しんでいたとき、児玉は自ら前線に出向き、戦況を見て作戦の改善を進言しました。
その支援によって、日本軍は状況を立て直し、最終的に旅順を攻略することができたのです。ふたりは性格が正反対とも言われましたが、お互いを尊敬しあい、力を合わせて困難に立ち向かいました。
この友情と連携が、日本の勝利に大きく貢献したのです。真の友とは、まさにこういう関係を言うのですね。
乃木希典の死が与えた影響と今に残るレガシー
1912年、明治天皇が亡くなった日、乃木希典は妻とともに自ら命を絶ちました。これを「殉死(じゅんし)」といいます。乃木は長い間、明治天皇に仕えており、深い忠誠心を持っていました。その死は、当時の日本中に大きな衝撃を与え、多くの人が涙しました。彼の死後、各地に「乃木神社」が建てられたり、東京の「乃木坂」という地名がつけられたりと、今でもその名は残り続けています。乃木の生き方は、現代にも通じる「忠義・誠実・自己犠牲」の精神として語り継がれています。まさに、その生き様こそが「レガシー(遺産)」といえるでしょう。
総括:乃木希典のすごさまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 乃木希典は明治時代の軍人で、日露戦争の203高地での指揮が有名
- 203高地は要塞化された激戦地で、諦めずに戦い抜いた指揮力がすごい
- 戦闘中に二人の息子を失っても任務を優先した精神力が高く評価される
- 明治天皇は、交代論が出た乃木を信頼し続けた
- 「爾霊山」という漢詩に、部下への想いと覚悟が込められている
- ロシア軍への紳士的な態度が海外メディアでも称賛された
- 乃木は「愚将」とも言われるが、当時の状況を考えると一概には言えない
- 部下や国民に慕われた人徳と誠実さがすごい
- 戦後は学習院院長として昭和天皇を教育し、人格教育に尽力した
- 児玉源太郎との友情と連携が旅順攻略に貢献した
- 明治天皇の死に殉死し、その生き方は今でも尊敬されている