今日は明治時代に登場した「立志社(りっししゃ)」について、子どもでも分かるようにやさしく解説します。
「立志社ってなに?」「誰が作ったの?」「愛国社とはどう違うの?」といった疑問をもつ人が多いと思います。社会の授業やテストにもよく出てくる大事な用語なので、しっかり覚えておきたいですね。
この記事では、立志社の目的や活動、なぜ作られたのか、愛国社との関係まで、しっかりまとめていきます。一緒に学んでいきましょう!
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立志社とは何か簡単に:目的・活動・特徴を分かりやすく
立志社は、明治時代に土佐(現在の高知県)で生まれた政治団体です。
「人民の自由と権利を大切にしよう!」という思いから生まれ、後の自由民権運動の中心的な存在となりました。では、もっと詳しく見ていきましょう。
立志社とは:自由や人権を守るために作られた政治団体
立志社とは、1874年(明治7年)に高知県で作られた政治団体です。
作ったのは、板垣退助(いたがきたいすけ)という有名な政治家です。立志社の目的は、「みんなが自由に意見を言えて、自分たちの力で社会を良くしていこう!」というものでした。
名前の「立志(りっし)」には、「志(こころざし)を立てて努力する」という意味がこめられています。西洋の本『セルフ・ヘルプ』を中村正直が訳した『西国立志編』からヒントを得て、この名前がつけられました。
立志社を作ったのは誰?板垣退助と片岡健吉のリーダーシップ
立志社を作ったのは、板垣退助と片岡健吉(かたおかけんきち)という人物たちです。
板垣は明治政府のやり方に反対して、政府の仕事をやめたあと、自分のふるさと高知に戻りました。そして、旧士族(昔の武士たち)の生活を助けたいと考え、片岡たちと一緒に立志社を作りました。
初代の社長(リーダー)は片岡健吉で、198人もの仲間が集まったと言われています。彼らはみんな「国のために、国民の自由のためにがんばろう」と決意したのです。
立志社の活動内容は?教育・商業・討論など多方面で活躍
立志社はただの政治団体ではありませんでした。
たとえば「立志学舎」という学校をつくって、若い人たちの教育に力を入れていました。ほかにも、士族のための商業活動や、みんなで意見を出し合う「討論会」なども開かれました。
討論会では、政治や社会のことについて自由に話し合いました。これは後に「演説」や「啓発運動(けいはつうんどう)」につながっていきました。こうした活動は、自由民権運動の土台を作ることになります。
立志社建白とは?政府に出した意見書の内容を簡単に紹介
1877年、立志社は「立志社建白(けんぱく)」という意見書を作り、政府に提出しようとしました。その中には「憲法を作って国会を開こう」「税金を軽くしてほしい」「言論の自由を守ってほしい」といった、国民の声がたくさん書かれていました。
このように、立志社はただ活動するだけでなく、政府に対しても「こうしてほしい!」という思いをはっきりと伝えたのです。この建白書は、自由民権運動の中でもとても重要な出来事のひとつです。
立志社の終わりはなぜ?立志社の獄とその後の解散
立志社の活動はだんだん大きくなり、明治政府はこれをおそれるようになりました。
特に「立志社の獄(ごく)」と呼ばれる事件では、政府に反発する一部の人たちが武力で立ち上がろうとして、リーダーたちが捕まりました。
この事件をきっかけに、立志社は活動を続けるのが難しくなり、1883年に解散します。けれども、その後の自由民権運動や国会開設運動には、立志社で学んだ人たちが大きくかかわっていくのです。
立志社とは何か簡単に:愛国社の違い
立志社と愛国社は、どちらも明治時代の自由民権運動を進めた大切な団体です。名前も似ていますが、活動した場所や目的、広がり方に違いがあります。テストにもよく出るところなので、しっかり覚えておきましょう!
立志社と愛国社の違い
一番の違いは、「立志社は土佐(高知県)のローカル団体」「愛国社は全国の団体をまとめる組織」という点です。
立志社は、土佐の人たちが中心になって作られ、地域での活動を行っていました。対して愛国社は、全国各地の政治団体をつなぐために作られた大きな組織です。つまり、立志社は自由民権運動の「はじまり」、愛国社はそれを「全国に広げる役割」を持っていたんですね。
愛国社とは?国会を作るために全国の力を集めた組織
愛国社(あいこくしゃ)は、1875年に大阪で板垣退助たちが中心となって作った全国的な政治団体です。
立志社などの地方の団体が力を合わせて、政府に国会の開設を求めるために生まれました。
愛国社は、全国から政治団体の代表が集まり、情報交換や方針の共有を行いました。その活動は「国会期成同盟」へと発展し、日本の民主主義の基礎を作る大きな一歩になりました。
なぜ立志社が愛国社をつくったのか
実は、愛国社の設立には立志社のメンバーが深くかかわっています。
立志社で活動していた人たちは、「このままでは地方だけの活動に限界がある」と感じ、もっと大きな力にするために全国の団体をまとめる「愛国社」をつくりました。
つまり、立志社が自由民権運動の「はじまり」だとすれば、愛国社はそれを「大きく発展させる仕組み」だったのです。ここがテストでよく問われるポイントです!
国会期成同盟とは?愛国社が生んだ国会を求める大運動
1880年、愛国社は「国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)」という全国的な団体をつくりました。これは「国会を早く作ってください!」という願いを明治政府に届けるための運動でした。
全国の代表者たちが大阪に集まり、「国会を開いて、国民の声を反映させる政治をしてほしい」と訴えました。けれども、政府はこれを受け入れず、むしろ「集会条例」などで運動をおさえこもうとしました。
でも、この活動があったからこそ、のちの帝国議会の設立(1890年)へとつながっていったのです。
総括:立志社とは何か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 立志社とは?
- 1874年、高知県で板垣退助と片岡健吉が設立した政治団体
- 自由・人権・民会の必要性を訴える活動を展開
✅ 立志社の目的と活動
- 国民の自由や権利の確立が目的
- 教育(立志学舎)、商業活動、討論会など幅広い活動を行った
✅ 立志社建白とは?
- 1877年に政府に提出した意見書
- 憲法制定・国会開設・税軽減・言論の自由などを主張
✅ 立志社の終わりと立志社の獄
- 一部の過激派の武力計画が発覚し、幹部が逮捕
- 1883年に立志社は解散
✅ 立志社と愛国社の違い
- 立志社:土佐の地方団体(地域活動)
- 愛国社:全国の団体をまとめる組織(全国活動)
✅ 愛国社とは?
- 1875年、大阪で設立された全国的政治団体
- 国会開設を目指す運動を展開
✅ なぜ立志社が愛国社を作ったのか?
- 地方だけの活動に限界を感じ、全国的な団体を設立
- 自由民権運動の全国拡大を目指した
✅ 国会期成同盟とは?
- 1880年、愛国社が中心となって設立された国会開設運動の団体
- 政府に請願書を提出するも拒否され、後の帝国議会設立へ影響を与える