今日は「薩英戦争」についてお話しします。
幕末に薩摩藩とイギリスが戦った「薩英戦争」。これが「頭おかしい」と言われているのは、なぜでしょう?
普通なら、とても勝ち目のない戦争なのに、薩摩藩は世界最強のイギリス海軍に真っ向から戦いを挑みました。さらに、その後の行動も予想外すぎて、多くの人が「どうしてそうなるの?」と驚いてしまうのです。
今回は、この戦争がなぜ異常だと言われるのか、薩摩藩がどれだけぶっ飛んでいたのかを、分かりやすく解説していきます!
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薩英戦争が「頭おかしい」と言われる5つの理由
薩英戦争は、ただの戦争ではありませんでした。地方の一藩が世界最強の国に喧嘩を売るという、日本史でも珍しい出来事です。それでは、具体的にどのポイントが「頭おかしい」と言われるのか、詳しく見ていきましょう。
地方の一藩が世界最強の海軍相手に戦争を仕掛けた
普通、戦争というのは国同士で行うものですよね?でも、薩英戦争は違いました。戦ったのは「薩摩藩」という、日本の一地方の藩と、当時の世界最強の海軍を持つ「イギリス」だったのです。
当時のイギリスは、世界中に植民地を持ち、「大英帝国」として圧倒的な力を誇っていました。そのイギリス海軍に、たった一つの藩が立ち向かうなんて、どう考えても無謀です。普通なら、戦わずに交渉で済ませるはずなのに、薩摩藩は真っ向から砲撃を開始!
この時点で、「この藩、頭おかしいんじゃない?」と言われるのも納得です。
戦争のきっかけが「誤解」だった
実は、薩英戦争は「誤解」から始まった戦争なのです。発端は「生麦事件」という出来事でした。これは、薩摩藩の行列に、イギリス人が馬に乗ったまま突っ込んでしまい、それに怒った薩摩藩士がイギリス人を斬ってしまった事件です。
この事件を受けて、イギリスは「賠償金の支払い」と「犯人の引き渡し」を要求しました。ところが、薩摩藩はこの要求を「藩主の首を差し出せ」と勘違い!結果、「そんな理不尽な要求には応じられない!」と戦争へと発展してしまいました。こんなズレた誤解から戦争が起きてしまうなんて、本当に驚きですよね。
戦争前に「スイカ売り作戦」でイギリス艦を奪おうとした
薩摩藩は、戦争が始まる前に、イギリス艦を奪おうとする無茶な作戦を考えました。その名も「スイカ売り作戦」です。
どういうことかというと、藩士たちがスイカ売りに変装してイギリス艦に近づき、油断したところで艦を乗っ取ろうとしたのです。さすがにイギリス側も警戒していて、この作戦は失敗。逆に、イギリスに薩摩の船を拿捕されてしまいました。
武士のプライドはどこへ?という感じですが、こんな大胆な作戦を真面目に実行しようとするあたり、薩摩藩のぶっ飛び具合がよく分かりますね。
イギリス艦隊が油断しすぎて大損害を受けた
イギリス側も、まさか薩摩藩が本気で戦うとは思っていませんでした。そのため、鹿児島湾に停泊したイギリス艦隊は、戦闘準備を万全にしていたわけではなかったのです。
そこへ、薩摩藩が本気の砲撃!なんと、イギリスの旗艦が大破し、艦長が戦死するという大事件になりました。世界最強の海軍が、まさかの地方藩に痛手を負わされるとは、誰も予想していなかったでしょう。イギリス側も「薩摩、マジかよ…」と思ったはずです。
戦争後:なぜか薩摩とイギリスは仲良くなった
普通、戦争をしたら「憎しみ合う関係」になりそうですよね?ところが、薩英戦争の後、薩摩藩とイギリスは逆に仲良くなってしまいました。
薩摩は、戦争を通じてイギリスの軍事力のすごさを実感し、「やっぱり海外の技術は取り入れるべきだ!」と考えました。イギリスも、「幕府より薩摩の方が話が通じる」と思い始め、薩摩と親密な関係を築くようになったのです。
結果、薩摩はイギリスから武器を買い、軍事力を強化。この関係が、のちの「倒幕運動」に大きな影響を与えることになりました。戦った相手とすぐに友好関係を築くあたり、薩摩藩の戦略眼の鋭さが光りますね。
薩英戦争が頭おかしい:薩摩藩がヤバすぎな件
薩英戦争だけでなく、そもそも薩摩藩という存在自体が「ヤバい」と言われています。なぜそんなに異常なのか?歴史を振り返りながら、薩摩藩のヤバすぎるエピソードを紹介していきます!
武士の常識を超えた「郷中教育」で超スパルタ指導
薩摩藩には「郷中(ごうちゅう)教育」と呼ばれる特殊な教育制度がありました。これは、年上の先輩たちが年下の後輩を徹底的にしごくという、超スパルタ教育です。
この教育の目的は「武士としての覚悟を鍛えること」。そのため、体罰は当たり前。泣いたらさらに厳しくしごかれるという、今なら問題になりそうな環境でした。しかし、この教育のおかげで、薩摩藩の武士たちは異常なまでの精神力と戦闘力を持つようになったのです。
実際、西郷隆盛や大久保利通といった明治維新の立役者たちも、この郷中教育を受けて育ちました。つまり、彼らの「根性のヤバさ」は、子供のころから鍛えられていたんですね!
「男は戦って死ね」が当たり前の価値観
薩摩藩の武士は、一般的な武士以上に「戦いで死ぬこと」を美徳と考えていました。特に有名なのが「死ぬことと見つけたり」で知られる「葉隠(はがくれ)」の精神。
例えば、戦場では敵よりも先に逃げることは許されず、もし逃げた場合は「郷中教育」で徹底的にいじめられました。そんな環境で育てば、「どうせなら勇敢に戦って死んだ方がマシ」と思うのも無理はありません。
こうした価値観が、薩英戦争での「無謀とも言える戦い」につながったのです。「どうせ死ぬなら戦うしかない!」と考えた薩摩武士たちが、世界最強の海軍に立ち向かっていったのも納得ですね。
借金を踏み倒すのが得意すぎる
薩摩藩はお金に困ることが多く、そのたびに「借金を踏み倒す」ことで生き延びていました。
例えば、江戸時代には幕府からの借金を何度も「うやむや」にして返さなかったり、商人からお金を借りても「これは政治のための借金だから、返さなくてOK」と勝手に判断したりしていました。
薩英戦争後も、賠償金を支払うように求められましたが、なんとそのお金を「幕府から借りて支払う」という方法でやり過ごしました。しかも、その後も返済せずに済ませています。つまり、戦争をしても実質的な損失が少なかったのです。こんな大胆な外交術を使うあたり、薩摩藩の「ずる賢さ」がよく分かりますね。
戦争相手とすぐに仲良くなる「謎のコミュ力」
普通、戦争をしたら相手を恨み続けるものですが、薩摩藩は違いました。薩英戦争の後、イギリスと急速に関係を深め、軍事協力まで結んでしまったのです。
その結果、イギリスの最新式の武器を手に入れ、日本国内での戦争(戊辰戦争)では幕府軍を圧倒しました。戦争をした相手とすぐに友達になって、その技術を吸収するあたり、薩摩藩の異常なまでの適応力とコミュニケーション能力の高さがうかがえます。
また、イギリス留学を通じて国際的な視野を持つ若者を育て、明治維新後の近代化に大きく貢献しました。戦った相手とすぐに協力関係を築くなんて、普通の感覚では考えられませんよね!
最後は「西南戦争」で国に反逆する
薩摩藩の最後の「頭おかしい」エピソードといえば、西南戦争でしょう。
明治維新の立役者となった薩摩藩ですが、明治政府ができた後は「自分たちの影響力が弱まるのでは?」と不満を持つようになりました。そして、ついに1877年、西郷隆盛を中心に政府に反旗を翻し、国内最大の内戦を起こしてしまったのです。
これは「自分たちが作った政府に対して戦争を仕掛ける」という、他の藩では考えられないような出来事でした。結果として敗北し、西郷隆盛は自害しましたが、最後まで戦い抜いたその姿は、多くの日本人に強烈な印象を残しました。
この「最後まで突っ走る姿勢」こそ、薩摩藩の持つ独特の気質だったのかもしれませんね。
総括:薩英戦争が頭おかしいと言われる理由まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
薩英戦争が「頭おかしい」と言われる理由まとめ
- 地方の一藩が世界最強の海軍と戦争をした
→ 普通は国同士で戦うものだが、薩摩藩単独で大英帝国と戦った。 - 戦争のきっかけが「誤解」だった
→ イギリスの要求を「藩主の首を差し出せ」と勘違いし、交渉決裂。 - 「スイカ売り作戦」でイギリス艦を奪おうとした
→ スイカ売りに変装して乗っ取ろうとするが失敗。 - イギリス艦隊が油断しすぎて大損害を受けた
→ 旗艦が大破し、艦長が戦死するという意外な展開に。 - 戦争後、薩摩とイギリスが仲良くなった
→ すぐに和解し、イギリスと軍事協力を結ぶ。
薩摩藩が「ヤバい」と言われる理由まとめ
- 異常なスパルタ教育「郷中教育」
→ 体罰・しごきが日常で、泣いたらさらに厳しく鍛えられる。 - 「戦って死ぬのが美徳」という極端な武士道精神
→ 逃げたら村八分、命より名誉が最優先。 - 借金を踏み倒し続ける外交術
→ 幕府や商人から借りたお金を返さず、うやむやにして生き延びる。 - 戦争相手とすぐに仲良くなる異常なコミュ力
→ イギリスと戦争後すぐ友好関係を築き、武器を買い倒幕運動に利用。 - 最終的に自分たちで作った政府に反逆(西南戦争)
→ 明治政府に不満を持ち、西郷隆盛が反乱を起こし敗北。
