「生麦事件(なまむぎじけん)」という歴史上の出来事を知っていますか?この事件は、幕末の日本で起こり、日本とイギリスの関係に大きな影響を与えました。
一体なぜ、生麦事件は発生したのか? そして、薩摩藩とイギリス、どちらに非があったのでしょうか?
今回は塾長の私が、生麦事件の背景や経緯、さらにはその影響までをわかりやすく解説します! みなさんが歴史のテストで「なるほど!」と思えるように、楽しく学んでいきましょう!
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生麦事件をわかりやすく解説!事件の流れと背景
生麦事件は、幕末の日本と西洋の国々の関係を考えるうえでとても重要な出来事です。ここでは、事件の発生からその後の流れ、さらには背景までを詳しく解説していきます。
生麦事件とは?簡単にわかりやすく解説
生麦事件は、1862年(文久2年)に現在の横浜市鶴見区で起きた、日本とイギリスの間の衝突です。薩摩藩の行列を横切ったイギリス人が、藩士によって斬られるという事件でした。
当時の日本では、武士が大名行列を守るために「無礼討ち(ぶれいうち)」といって、行列を邪魔する者を斬ることが許されていました。一方、イギリス人たちはこの日本のルールを知らず、普段通り馬に乗ったまま通ろうとしました。
結果として、薩摩藩の藩士は彼らを「無礼」と判断し、リチャードソンというイギリス人を斬りつけてしまいました。
この事件は、日本とイギリスの関係を悪化させ、後に「薩英戦争」へとつながる大きなきっかけになりました。
生麦事件が起こった原因は何?文化の違いが生んだ悲劇
生麦事件の最大の原因は、日本とイギリスの文化の違いです。
当時の日本では、大名行列が通るときはすべての人が脇によけ、馬から降りてひざまずくのが礼儀でした。しかし、イギリス人たちは「なぜ道を譲らなければいけないのか?」と考え、馬に乗ったまま通ろうとしたのです。
また、イギリス人のリチャードソンは、アジア各地を旅していましたが、日本の武士の厳しい掟についてはよく知らなかったと言われています。つまり、日本側は「無礼な行為」と見なし、イギリス側は「そんなルール知らない」という状態だったのです。
この誤解が悲劇を招きました。
事件の詳細!生麦事件の登場人物と当日の様子
生麦事件には、主に以下の登場人物が関わっています。
- 薩摩藩側
- 島津久光(しまづひさみつ):薩摩藩の実力者で、大名行列を率いていた
- 奈良原喜左衛門(ならはらきざえもん):リチャードソンを斬ったとされる藩士
- イギリス側
- チャールズ・レノックス・リチャードソン:殺害されたイギリス人商人
- マーシャル、クラーク、ボラデール夫人:リチャードソンと一緒にいたが、生き延びた
事件当日、薩摩藩の行列が横浜から江戸へ向かう途中、生麦村でリチャードソンら4人のイギリス人が道を横切ろうとしました。藩士たちは「下馬せよ!(馬から降りろ)」と指示しましたが、彼らは従わず、馬に乗ったまま進んでしまいます。
これを見た藩士の奈良原喜左衛門は、リチャードソンを斬りつけ、彼は命を落としてしまいました。
生麦事件が国際問題になった理由とは?
生麦事件は、単なるトラブルでは終わりませんでした。その理由は、日本とイギリスの外交関係がすでに緊張状態にあったからです。
- 不平等条約の影響
当時の日本は、イギリスを含む外国と「不平等条約」を結ばされており、多くの日本人が外国人を良く思っていませんでした。 - イギリスの強硬な姿勢
イギリスは「自国民が無礼討ちされたことは許せない」とし、日本政府に抗議しました。そして、賠償金と犯人の処罰を要求したのです。
この結果、生麦事件は国際問題へと発展し、日本とイギリスの関係を悪化させることになりました。
生麦事件のその後、江戸幕府と薩摩藩の対応
生麦事件が起こると、江戸幕府と薩摩藩は異なる対応を取りました。
- 江戸幕府の対応
幕府はイギリスからの賠償請求に応じ、10万ポンド(現在の約20億円)を支払いました。さらに、薩摩藩にも賠償金と犯人の処刑を求めました。 - 薩摩藩の対応
しかし、薩摩藩は「行列を邪魔したイギリス人に非がある」として、謝罪も賠償も拒否しました。
この対応に激怒したイギリスは、ついに軍艦を鹿児島に派遣し、武力行使に踏み切ります。これが「薩英戦争」となったのです。
生麦事件をわかりやすく:薩摩とイギリスどっちが悪い
生麦事件は、単なる事件ではなく、日本とイギリスの関係を大きく変えるきっかけになりました。しかし、よく議論されるのが「一体どちらが悪かったのか?」という問題です。
ここでは、薩摩藩とイギリス、それぞれの立場を整理し、どちらに非があったのかを考えていきます。
薩摩藩は悪かったのか?武士の掟と当時のルール
まず、薩摩藩の行動について考えてみましょう。
当時の日本では、「大名行列を邪魔する者は無礼討ちしてもよい」という武士の掟がありました。つまり、薩摩藩士がリチャードソンを斬ったのは、日本国内のルールでは正当な行為だったのです。
しかし、このルールは日本国内のものであり、外国人には通じません。イギリス人は、馬に乗ったまま進むことが「無礼」にあたるとは思っていなかったでしょう。
また、リチャードソンは殺害されるほどの重罪を犯したわけではありません。薩摩藩士はもっと穏やかな方法で注意するべきだった、という意見もあります。
さらに、当時の薩摩藩は「攘夷(外国を追い払う)」の考えが強く、外国人に対して敵対的でした。
つまり、彼らがすぐに攻撃に出た背景には、単なるルール違反ではなく、「外国人を軽視する意識」もあった可能性があります。
イギリス側の問題点!なぜ道を譲らなかったのか?
一方で、イギリス側にも問題がありました。
リチャードソンたちは、日本の文化を知らず、大名行列に対して無礼な行動をとりました。日本では、大名行列が来たら道を譲るのが当たり前。しかし、彼らは馬に乗ったまま通ろうとしました。
また、実はこの日、彼らは「今日は重要な行列があるので、出かけないほうがいい」と日本の知人から忠告を受けていたのです。それにもかかわらず、彼らは「大丈夫だろう」と考えて出発しました。
実際、同じ日、アメリカ人商人のユージン・ヴァン・リードは、大名行列を見て馬から降り、帽子をとって挨拶をしました。彼は無事に通り過ぎました。つまり、リチャードソンたちも日本のルールを守っていれば、事件は防げた可能性が高いのです。
さらに、リチャードソン自身が「傲慢な性格だった」という話もあります。彼はアジアの国々を訪れていましたが、現地の文化を軽視し、横柄な態度をとることが多かったとされています。もし彼がもう少し慎重であれば、この事件は起こらなかったかもしれません。
生麦事件に対する世界の反応は?
生麦事件は、日本国内だけでなく、世界でも注目を集めました。特にイギリスでは、国民の間で「日本は野蛮な国だ!」という怒りの声が上がりました。政府も日本に対し、強硬な対応をとることを決めました。
しかし、すべての外国人がイギリスを擁護したわけではありません。ニューヨーク・タイムズ(アメリカの新聞)では、「リチャードソンの行動には問題があった」と報じられました。また、リチャードソンの叔父も「彼は頑固だったから、こういうことになると思っていた」とコメントしています。
さらに、イギリスの公使フレデリック・ブルースは、「リチャードソンは騎士道的な蛮勇(向こう見ずな勇敢さ)を持っていた」と指摘しました。つまり、「イギリス人が少し配慮すれば、事件は防げたのでは?」という意見も多かったのです。
どっちが悪い?最終的な結論
結局、薩摩とイギリスのどちらが悪かったのでしょうか?
歴史的に見ても、どちらにも非があったと言えます。
- 薩摩藩の問題点
- 外国人が日本のルールを知らないことを考慮せず、すぐに斬ってしまった
- 尊王攘夷の思想が強く、外国人を敵視する意識があった
- イギリス側の問題点
- 日本の文化を学ばず、ルールを無視した行動をとった
- 忠告を無視し、軽率に行動した
現代の価値観では、「話し合いで解決するべきだった」と思うかもしれません。しかし、当時は武士の時代であり、「名誉を守るために戦う」ことが当然とされていました。
そのため、一方的にどちらが悪いとは言えず、「お互いに誤解があった」というのが正しい結論でしょう。
生麦事件から学べる教訓
生麦事件から私たちが学べることは何でしょうか?それは、「異文化理解の大切さ」です。
日本の武士にとっては当たり前だった「無礼討ち」も、イギリス人には理解できませんでした。逆に、イギリス人が「自分たちのやり方が正しい」と考えたことも、日本側には受け入れがたいものでした。このように、文化や価値観が違うと、誤解が生まれ、大きな問題に発展することがあります。
現代では、国際交流が当たり前になっています。だからこそ、相手の文化を尊重し、お互いの違いを理解することが大切です。もしリチャードソンたちが日本の文化を学び、薩摩藩士がもう少し冷静だったら、生麦事件は起こらなかったかもしれません。
歴史は過去の出来事ですが、その教訓は未来に生かすことができるのです。
総括:生麦事件をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
生麦事件の概要
- 発生日時:1862年(文久2年)、現在の神奈川県横浜市鶴見区で発生。
- 事件内容:薩摩藩の大名行列を横切ったイギリス人商人が、藩士によって斬られる。
- 被害者:イギリス人商人チャールズ・レノックス・リチャードソンが死亡、同行者2名が負傷。
事件の背景
- 日本のルール:武士の時代、大名行列の前を横切るのは「無礼」とされ、無礼討ち(ぶれいうち)が許されていた。
- イギリス人の誤解:イギリス人たちは日本の習慣を知らず、馬に乗ったまま行列の前を通ろうとした。
- 攘夷思想の影響:薩摩藩は外国人を排除する「攘夷思想」を持っており、対応が過激になった。
事件の経緯
- 薩摩藩の大名行列が生麦村を通る。
- リチャードソンら4人のイギリス人が馬に乗ったまま行列の前へ。
- 薩摩藩士が「下馬せよ」と警告するも、イギリス人は従わず進む。
- 奈良原喜左衛門がリチャードソンを斬り、彼は死亡。
生麦事件が国際問題になった理由
- 不平等条約への不満:日本国内で外国人排斥の機運が高まっていた。
- イギリスの強硬姿勢:イギリスは賠償金と犯人処罰を要求し、日本政府に圧力をかけた。
- 薩摩藩の拒否:薩摩は謝罪も賠償も拒否し、イギリスとの対立が深まる。
薩摩藩とイギリス、どちらが悪い?
- 薩摩藩の問題点
- 外国人への理解が不足し、即座に斬り捨てた。
- 攘夷思想が強く、交渉よりも武力行使を選択。
- イギリス側の問題点
- 日本の文化を理解せず、軽率な行動を取った。
- 事前に忠告されていたのに、注意を怠った。
生麦事件の影響
- 江戸幕府の対応:イギリスに対し、10万ポンド(約20億円)を支払い、事件の鎮静化を図る。
- 薩英戦争の勃発:賠償を拒否した薩摩に対し、イギリスが鹿児島を砲撃(3日間の戦闘)。
- 薩摩とイギリスの関係改善:戦争後、薩摩は西洋の軍事技術の重要性を認識し、イギリスと接近。
生麦事件から学べること
- 異文化理解の重要性:文化や価値観の違いが誤解や衝突を生む。
- 歴史の教訓を未来に活かす:国際関係や日常生活でも、相手の文化を尊重することが大切。