辛亥革命(しんがいかくめい)は、清(しん)という王朝を終わらせて、新しく「中華民国(ちゅうかみんこく)」という国を作った大きなできごとです。
でも、この革命でいきなり平和で豊かな生活が始まったわけではありません。皇帝(こうてい)がいなくなって、いろんな変化が起こった一方で、混乱もたくさんあったのです。
ここでは、辛亥革命のあとに中国で暮らしていた人たちの生活がどう変わったのかを、身分制度、農民のくらし、都市の人たちのようす、女性や子どもの立場、そして軍閥(ぐんばつ)による支配の影響という5つのポイントで分かりやすく解説していきます。
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辛亥革命の後の人々の暮らしはどう変わったのか?
身分制度はどうなった?皇帝のいない社会での人々の意識の変化
辛亥革命で清がほろびて皇帝がいなくなると、長い間続いていた「身分制度」も大きくゆれました。これまで中国では皇帝を一番上として、役人や地主、農民などがきびしい上下関係の中でくらしてきました。
中華民国ができたことで、「みんなは平等なんだ」という考えが広まりました。とくに都市の若い人たちは、新しい社会を作ろうという気持ちが強く、古い制度に反対するようになります。
ただし、すぐに全部の人たちが平等になったわけではありません。地方では、まだまだお金持ちの地主が力を持っていたり、昔のように身分の差を感じながら生活していた人も多かったです。
農民の暮らしはよくなったのか?土地制度や生活の実態
「中華民国になって農民の暮らしはよくなったの?」と聞かれることがあります。答えは「少しは変わったけど、大きくは変わらなかった」です。
辛亥革命のあとも、多くの農民は地主の土地を借りて農業をする「小作人(こさくにん)」のままでした。高い地代(ちだい)を払わなければならず、収入はわずかで、苦しい生活が続いていました。
政府が目指した「民生主義(みんせいしゅぎ)」という考えには、国民の生活をよくするという目的がありましたが、実際には土地制度の改革はなかなか進みませんでした。そのため、農民の多くは、変わらない日々の生活に不満を感じていたのです。
都市の住民の生活は?中産階級や商人たちの変化
都市部では、新しい時代の風が少しずつ吹き始めました。とくに商人(しょうにん)や職人などの人たちは、政治の変化とともに経済活動を活発にし、少しずつ「中産階級(ちゅうさんかいきゅう)」とよばれる人たちが育ち始めました。
これまで身分の低かった商人たちも、新しい中華民国ではビジネスの力で尊敬されるようになっていきました。また、外国との貿易や西洋文化の流入によって、都市の人々の生活スタイルも少しずつ近代化していきます。
ただ、地方とはちがい都市には軍閥の支配が弱かったため、自由な雰囲気もありました。しかし一方で、失業や物価の上昇といった問題もあり、決してすべての人が豊かになったわけではありませんでした。
女性や子どもの暮らしは?教育や結婚制度に起きた変化
辛亥革命は、女性や子どもの暮らしにも変化をもたらしました。それまで女性は家の中だけで働き、外で学ぶことも許されない時代でしたが、革命の後には「男女平等」や「女子教育」が少しずつ広まるようになります。
中華民国では、女性の結婚にも変化が起こりました。昔のように親がすべてを決める「親が決めた結婚」から、本人の意思を重視する動きが出てきました。
ただし、都市では変化が見られましたが、農村部では伝統的な考えが強く残っていて、まだまだ古い制度にしばられた生活をしている女性や子どもも多かったです。
軍閥時代の影響とは?内戦と混乱が日常生活に与えた影響
革命で清は倒れたものの、中国の統一はなかなか進みませんでした。地方では「軍閥(ぐんばつ)」とよばれる武装集団がそれぞれの地域を支配して、政府の命令がとどかないところも多くありました。
この軍閥どうしの争いは長く続き、人々の生活に大きな不安と混乱をもたらしました。たとえば、農作物を取り上げられたり、税を何度も取られたり、戦争にまきこまれたりといったことが、あちこちで起きていたのです。
軍閥が通るたびに住民が逃げなければならないなど、日常の安全さえ守られない時代が続きました。平和な暮らしを取り戻すには、まだまだ時間がかかる状況だったのです。
辛亥革命の後の人々の暮らし:中華民国成立後の政策
中華民国ができたことで、「三民主義(さんみんしゅぎ)」という新しい考え方をもとに、国を良くしようとするさまざまな政策が考えられました。「民族」「民権」「民生」という3つの柱があり、とくに「民生」は、ふつうの人々の生活を豊かにするという意味を持っています。
しかし、理想と現実のあいだには大きな差がありました。中華民国がかかげた政策が、実際にどこまで人々の生活に影響を与えたのか、詳しく見ていきましょう。
三民主義の「民生主義」は庶民に届いたのか?理想と現実
孫文(そんぶん)がかかげた三民主義のひとつ、「民生主義」は国民全体の生活を豊かにするという考えでした。とくに、農民や労働者など、ふだん苦しい生活をしている人たちの暮らしを良くしようとしたものでした。
しかし、実際には戦争や政治の混乱のせいで、民生主義はほとんど実現しませんでした。政府の力が弱く、地方には軍閥がいて思うように政策を進めることができなかったのです。
そのため、「生活を安定させるはずの民生主義」が、国民の手に届くことは少なかったのです。理想は立派でも、現実では人々の暮らしは変わらないままだったのです。
土地改革は行われたのか?地主と農民の力関係の変化
農民の暮らしを変えるには、まず土地の制度を変える必要がありました。中華民国の中でも土地改革の声はあがっていましたが、実際には大きな改革は行われませんでした。
その理由のひとつは、地主が政治や軍の中で強い力を持っていたからです。改革を進めようとしても、地主たちの反対にあい、計画が中止されることが多かったのです。
結果として、土地のほとんどを地主がにぎり、農民はその土地を借りて働きつづけるしかありませんでした。小作料を払い、苦しい生活をしていた農民にとっては、期待していた「新しい時代」は遠いものでした。
教育制度はどうなった?科挙廃止と新しい学びのかたち
中華民国ができてからすぐに、大きな変化のひとつが「科挙(かきょ)」という試験制度の廃止です。科挙は、昔の中国で役人になるための試験でしたが、難しいうえに内容が古く、時代に合わなくなっていました。
新しい時代には、もっと広く多くの人に教育を受けてもらうための学校が作られるようになります。とくに都市部では、小学校や中学校が建てられ、国語や数学などの新しい教科を学ぶようになりました。
女子教育も少しずつ進みはじめ、女の子が学校に行けるようになる地域もありました。ただ、農村では教育の機会がまだまだ少なく、都会とのちがいが大きく残ったのです。
経済の自由化と都市労働者の誕生、生活水準の実態
辛亥革命のあとは、経済も少しずつ自由に動くようになりました。これまで皇帝の命令でコントロールされていた部分がゆるやかになり、民間の商売や工場がふえていきました。
こうした中で生まれたのが「都市労働者(としろうどうしゃ)」です。工場や会社で働く人たちで、今まで農業しかしていなかった人たちにとっては新しい働き方でした。
しかし、労働条件はとてもきびしく、長時間働いても給料は少なく、生活は苦しいものでした。また、物価が上がり、食べ物や日用品の値段も高くなったため、生活のゆとりはなかなか感じられなかったのです。
辛亥革命後の社会不安と人々の対応―日常の治安や安全は?
中華民国の成立によって国が一つにまとまった…と思いきや、実際には各地で軍閥どうしの争いや内戦が続きました。政府の力が弱く、警察や法律がしっかりと機能していなかったため、治安が悪化していったのです。
町の中では、盗賊やごろつきが出没したり、夜になると安心して外を歩けない地域もありました。こうした不安の中で人々は、自分たちの町や村を守るために、自警団(じけいだん)というグループを作って身を守ろうとしたのです。
革命で平等や自由がかかげられましたが、現実では安心して生活することさえ難しい時代が続きました。人々はいつか本当の「平和な時代」が来ることを願って、日々を生き抜いていたのです。
総括:辛亥革命の後の人々の暮らしまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 身分制度の変化:皇帝がいなくなり、「平等」の考え方が広がったが、地方では旧来の身分差が残った。
- 農民の暮らし:生活はあまり変わらず、多くの農民が引き続き地主の土地で小作をしていた。
- 都市の変化:商人や中産階級が力を持ち始め、西洋文化や経済の影響で都市生活が近代化した。
- 女性と子どもの変化:都市部では女子教育や結婚の自由が広まり始めたが、農村では伝統的な価値観が根強かった。
- 軍閥の支配:各地で軍閥が争い、治安が悪化。人々の生活は不安定だった。
- 三民主義の現実:「民生主義」は理想だったが、戦乱や政府の弱さで庶民には届かなかった。
- 土地改革の停滞:地主が力を持っていたため、土地制度の改革は進まず、農民の不満は続いた。
- 教育の近代化:「科挙」廃止後、近代的な教育制度が始まり、女子教育も一部で進展。
- 都市労働者の誕生:工場労働者が増えたが、労働条件は厳しく、生活は苦しかった。
- 治安の悪化と自衛:政府の力が弱く、町では治安が悪化。人々は自警団などで自衛した。