みなさんは「天神さま」って聞いたことがありますか?
受験シーズンになると、多くの人が「学問の神様」にお参りしますよね。この「天神さま」として信仰されているのが、平安時代の学者であり政治家だった菅原道真(すがわらのみちざね)です。
でも、なぜ道真は学問の神様になったのでしょうか?彼はどんなことをした人なのか、簡単に分かりやすく解説していきます!
菅原道真は何をした人?生涯と功績を簡単に解説

まずは、菅原道真がどんなことをした人なのか、彼の生涯を追いながら見ていきましょう。
菅原道真は「学問の神様」として有名!その理由とは?
菅原道真は「学問の神様」として知られています。それは、彼が若い頃からとても勉強熱心で、優れた学者だったからです。
もともと菅原家は代々学問を大切にする家柄でした。道真も小さい頃から学問に励み、5歳で和歌、11歳で詩を詠むいう才能を発揮します。そして文章博士(もんじょうはかせ)いう学問の指導者になり、多くの優秀な弟子を育てました。
さらに、大人になってからは政治家としても活躍し、日本の文化を発展させる重要な役割を果たしました。こうした実績があったため、後に「学問の神様」として祀られるようになったのです。
菅原道真の生い立ち|なぜ神童と呼ばれたのか
道真は845年(承和12年)に生まれました。彼の家は学問の家系で、お父さんも有名な学者だったのです。そんな環境で育った道真は、幼いころから驚くほど賢く、神童と呼ばれるようになりました。
例えば、5歳のときにはすでに和歌を詠み、11歳で漢詩を作っていたと言われています。これは当時としてもすごいことで、大人たちも驚いたそうです。
また、18歳のときには、国家試験である「文章生(もんじょうしょう)」に合格し、早くから優秀な学者として認められるようになりました。そして33歳のときに「文章博士」に就任し、天皇の側近としても働くようになったのです。
宇多天皇の信頼を得て異例のスピード出世!政治家としての活躍
菅原道真の才能は、学問だけではありませんでした。彼は政治の世界でも大活躍しました。
宇多天皇(うだてんのう)という人物が即位すると、道真はその才能を認められ、どんどん出世していきます。当時の貴族社会では、藤原氏(ふじわらし)という一族が政治を独占していましたが、道真は学者の家柄から異例の出世を遂げたのです。
特に「阿衡(あこう)の事件」では、宇多天皇と藤原氏の対立を解決し、ますます信頼を得ました。その結果、道真は 右大臣という当時の政治のトップクラスの役職に就くことになります。
しかし、この異例のスピード出世が、後に彼の運命を大きく変えてしまうことになるのです……。
菅原道真が遣唐使を廃止!国風文化を確立した功績
道真の最大の功績の一つが「遣唐使(けんとうし)」の廃止です。
遣唐使とは?
- 630年から続いていた、日本が中国(唐)に使節団を送る制度。
- 唐の文化を学ぶために多くの留学生や役人が派遣された。
しかし、道真はこの制度を「もう必要ない!」として894年に廃止しました。
その理由は、以下のとおりです。
- 日本の文化がすでに発展し、中国に学ぶ必要がなくなった。
- 当時の唐は戦乱が続いており、危険な状況だった。
- 長い航海は危険で、多くの人が命を落としていた。
これによって、日本は独自の「国風文化(こくふうぶんか)」を発展させることができました。これが、平安時代の文化の黄金期へとつながっていくのです。
政敵の藤原時平に陥れられ、大宰府へ左遷
道真の出世を面白く思わなかったのが、藤原時平(ふじわらのときひら)という貴族です。
藤原時平は、天皇に「道真は反逆を企んでいます!」という 嘘の告げ口 をしました。信じてしまった天皇は、道真を九州の「大宰府(だざいふ)」という遠い場所に左遷してしまいました。
大宰府に行った道真の生活は、とてもつらいものでした。
- 住んでいた家はボロボロで、雨漏りもひどかった
- 家族とも引き離され、孤独な日々を送る
- 都に戻ることなく、2年後の903年に失意のうちに亡くなった
彼の最後の和歌「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花…」は、今でも多くの人に知られています。この歌には「都に帰りたい」という道真の願いが込められているのです。
菅原道真が何した人か簡単に:なぜ「学問の神様」になったのか?

道真の生涯は悲しいものでしたが、彼の死後、驚くべき出来事が起こります。都では落雷や火事が頻発し、道真を陥れた人たちが次々と亡くなるという現象が続いたのです。
当時の人々は「これは道真の怨霊の仕業だ!」と恐れました。そこで朝廷は道真を神様として祀ることで、彼の怒りを鎮めようとしました。これが「天神信仰(てんじんしんこう)」の始まりです。
では、道真が神様として信仰されるようになった経緯を見ていきましょう。
怨霊から神様へ!「天神信仰」の始まり
道真の死後、朝廷では不思議な事件が続出しました。
- 雷が落ち、清涼殿(せいりょうでん/天皇の住まい)が焼失
- 道真を陥れた藤原時平が39歳で急死
- 大臣や貴族たちが次々と病死や事故死
当時の人々は「道真の怨霊の仕業だ!」と考え、朝廷は道真の霊を鎮めるために「神」として祀ることを決定します。
まず、道真を「天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)」 として神格化し、947年には京都に「北野天満宮(きたのてんまんぐう)」が創建されました。これが全国の天満宮のはじまりです。
全国に広がる「天神信仰」と受験の神様
北野天満宮が創建されてから、全国に道真を祀る「天満宮」「天神社」が増えていきました。
その理由は、道真が以下のような人物だったからです。
- 学問に秀でた人物だった
- 誠実でまっすぐな生き方をした
- 無実の罪で不遇な最期を遂げた
多くの人々が彼に 「努力が報われるように」 という願いを込めて信仰するようになります。
江戸時代になると寺子屋(てらこや/今でいう塾のようなもの)でも天神信仰が広がり、受験生にとって大切な神様となりました。今でも「受験生は天神様に合格祈願!」という風習が残っていますね。
天神信仰の豆知識!「なぜ牛が関係あるの?」
天満宮に行くと、よく「牛の像」を見かけますよね。

これは、道真と牛にまつわるエピソードが関係しています。
道真と牛の関係
- 道真の生まれ年が丑年だった
- 道真が大宰府に流されるとき、牛が荷車を引いた
- 亡くなったとき、遺体を運ぶ牛が突然止まり、その場所が墓地になった
これらの理由から「天神様=牛の神様」と考えられるようになりました。そのため、天満宮では「牛の頭を撫でると頭がよくなる」という言い伝えがあります!
語呂合わせで覚える菅原道真の重要年表
試験によく出る「菅原道真の重要な年」を、語呂合わせで覚えましょう!
年号 | 出来事 | 語呂合わせ |
---|---|---|
845年 | 菅原道真が生まれる | はし(845)っこい神童! |
877年 | 文章博士になる | 花々(877)の知識 |
894年 | 遣唐使を廃止する | 白紙(894)に戻そう遣唐使 |
901年 | 大宰府へ左遷 | くれない(901)の涙で九州へ |
903年 | 道真、失意のうちに亡くなる | くるしい(903)最期 |
こうした語呂合わせを使うと、歴史の年号を覚えるのが楽しくなりますよ!
テストに出る!「菅原道真と関連する重要用語」
歴史のテストでは、菅原道真に関する以下の用語がよく出題されます。
① 遣唐使(けんとうし)
- 唐(中国)に派遣された外交・学問使節団。
- 道真が894年に遣唐使の廃止を進言したことで、日本独自の国風文化が発展。
② 阿衡(あこう)の紛議
- 宇多天皇と藤原基経の間で起こった政治トラブル。
- 道真がこの事件を見事に解決し、宇多天皇の信頼を得た。
③ 大宰府(だざいふ)
- 九州にあった役所で、道真が左遷された場所。
- 彼の死後、太宰府天満宮が建てられ、学問の神様として祀られる。
④ 北野天満宮
- 947年に創建された道真を祀る神社。
- 全国の天満宮の総本社。
これらの用語はテストに頻出なので、しっかり覚えておきましょう!
総括:菅原道真が何した人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 菅原道真とは?
- 平安時代の学者・政治家で、「学問の神様」として信仰される人物。
- 幼少期から才能を発揮し、5歳で和歌、11歳で漢詩を詠んだ。
2. 政治家としての活躍
- 宇多天皇の信頼を得て異例のスピード出世
- 学者の家柄ながら右大臣にまで昇進。
- 阿衡(あこう)の紛議を解決し、宇多天皇の信頼を得る。
- 遣唐使の廃止(894年)
- 唐(中国)の混乱や、日本独自の文化発展のため、遣唐使の派遣を中止。
- これが国風文化の発展につながる。
3. 大宰府への左遷と死
- 藤原時平の讒言(ざんげん)で失脚(901年)
- 「反逆を企んでいる」との嘘の告げ口により、大宰府に左遷される。
- 都を離れ、孤独なまま903年に亡くなる。
4. 死後の影響と「学問の神様」への神格化
- 怨霊として恐れられる
- 彼の死後、都で落雷や災害が続き、道真の怨霊の仕業と恐れられる。
- 天神信仰の始まり
- 怨霊を鎮めるため、947年に「北野天満宮」が創建。
- 全国に天満宮が広がり、「学問の神様」として信仰されるようになる。
5. 菅原道真にまつわる豆知識
- 天神信仰と牛
- 道真が丑年生まれ、牛が遺体を運んだ逸話から「牛の像」が天満宮に置かれる。
- 牛の頭を撫でると頭がよくなると言われる。
- 試験に出る重要年号(語呂合わせ)
- 845年 道真誕生 →「はし(845)っこい神童!」
- 894年 遣唐使廃止 →「白紙(894)に戻そう遣唐使」
- 901年 左遷 →「くれない(901)の涙で九州へ」
- 903年 道真死去 →「くるしい(903)最期」
6. テストに出る重要用語
- 遣唐使(けんとうし):894年、道真の進言で廃止。
- 阿衡の紛議(あこうのふんぎ):宇多天皇と藤原基経の対立を道真が解決。
- 大宰府(だざいふ):道真が左遷された場所、現在は太宰府天満宮がある。
- 北野天満宮(きたのてんまんぐう):947年に創建された、天神信仰の総本社。