「杉田玄白(すぎた げんぱく)」という名前を聞いたことがありますか?

彼は江戸時代の医者で、日本初の解剖学書『解体新書(かいたいしんしょ)』を翻訳したことで有名です。

しかし、そんな彼にはちょっと変わったあだ名がありました。それが「草葉の陰(くさばのかげ)」です。「草葉の陰」とは、ふつう亡くなった人がいる場所を表す言葉ですが、なぜ生きていた杉田玄白がそう呼ばれていたのでしょうか?

さらに、彼には他にもおもしろいあだ名があったのです。本記事では、杉田玄白のあだ名についてわかりやすく解説していきます!

杉田玄白のあだ名とは?「草葉の陰」と呼ばれた理由を解説

杉田玄白には「草葉の陰」というユニークなあだ名がありました。一体どうしてそんな名前がついたのでしょうか?

ここでは、その由来や背景について詳しく見ていきましょう。

杉田玄白の代表的なあだ名「草葉の陰」とは

「草葉の陰」とは、一般的に“あの世”や“亡くなった人の魂がいる場所”を指す言葉です。しかし、杉田玄白は生きている間からこのあだ名で呼ばれていました。

このあだ名の由来は、杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』というオランダの医学書を翻訳していたときの出来事にあります。彼は翻訳作業があまりにも難しく、「これが完成するころには、私は草葉の陰(=あの世)で見守っているかもしれない」と冗談めかして言いました。

それを聞いた仲間たちは面白がり、いつの間にか彼を「草葉の陰」と呼ぶようになったのです。

杉田玄白が「草葉の陰」と言った理由

杉田玄白がこの言葉を口にしたのには、彼の年齢と健康の不安が関係していました。

『ターヘル・アナトミア』の翻訳を始めたとき、杉田玄白は40歳を過ぎていました。当時の日本では50歳を超える人は少なく、玄白自身も「自分はもう若くない」と感じていたようです。

しかも、オランダ語をほとんど知らない状態で翻訳をするのはとても大変な作業でした。「このままでは、一生かかっても終わらないかもしれない…!」そんな焦りから、「完成するころには、私は草葉の陰だろう」とつぶやいたのです。

ところが、実際には杉田玄白は85歳まで生き、当時の仲間たちよりも長生きしました。あだ名の「草葉の陰」も、結果的には冗談のようになってしまったのです。

あだ名「草葉の陰」をつけたのは誰?

このユニークなあだ名をつけたのは、杉田玄白とともに翻訳作業をしていた桂川甫周(かつらがわ ほしゅう)という若い医師でした。桂川甫周は杉田玄白よりも20歳ほど年下で、年長者をからかうような一面もあったようです。

玄白が「この翻訳が完成するころには、自分は草葉の陰だよ」と言ったのを聞いて、「じゃあ先生のあだ名は『草葉の陰』ですね!」と笑いながら呼び始めたのがきっかけでした。

その後、仲間内でもこの呼び名が広まり、玄白は半ば定着したあだ名として「草葉の陰」と呼ばれるようになりました。

「草葉の陰」と呼ばれた杉田玄白は本当に病弱だったのか?

杉田玄白がこのあだ名をつけられた理由のひとつに「病気がちだった」という説がありますが、実際にはどうだったのでしょうか?

確かに玄白は「自分は体が弱い」と言っていましたが、実際には85歳まで長生きしました。当時の日本の平均寿命が50歳前後だったことを考えると、玄白はとても健康だったと言えるでしょう。また、彼は医学者として「養生七不可(ようじょうしちふか)」という健康のための心得を考え、日々の生活で実践していました。

例えば、「食べすぎてはいけない」「くよくよ悩んではいけない」「無理をして働きすぎてはいけない」などの教えがありました。こうした習慣のおかげで、玄白は長生きできたのかもしれませんね。

「草葉の陰」というあだ名が示す杉田玄白の性格

このあだ名から、杉田玄白の性格を知ることができます。

まず、「責任感が強い」ことがわかります。彼は『解体新書』の翻訳を途中で投げ出さず、最後までやり遂げました。さらに、「謙虚な性格」だったことも、このあだ名から感じ取れます。

普通の人なら「自分はすごい学者だ!」と誇りに思いそうですが、玄白は「自分はもう年だから、完成を見届けることはできないかもしれない」と控えめな発言をしています。

また、冗談を言える余裕もあったことがうかがえます。

「草葉の陰」という発言はシリアスなものではなく、周囲を和ませるユーモアのある言葉でした。こうした性格が、多くの仲間や弟子たちに慕われた理由のひとつでしょう。

杉田玄白のあだ名:その他の異名とその由来

杉田玄白のあだ名といえば「草葉の陰」が有名ですが、実は他にもいくつかの異名がありました。彼の名前自体に隠された意味や、周囲の人たちからどのように呼ばれていたのかを詳しく見ていきましょう!

「玄白」という名前自体があだ名?本名との違いとは?

杉田玄白の本名は「杉田翼(たすく)」です。しかし、世間では「玄白」という名前で知られています。実は、この「玄白」という名前も一種のあだ名のようなものだったのです。

江戸時代の医者は、よく「玄」の字を名前に取り入れることがありました。これは「玄」が深い学問や医術を意味する言葉だったためです。例えば、杉田玄白の師である西玄哲(にし げんてつ)や、大槻玄沢(おおつき げんたく)など、多くの医師が「玄」の字を持っていました。

では、「白」は何を意味するのでしょうか?

これについては諸説ありますが、一つの説として「白」は素人を意味し、「玄」と組み合わせることで「初心を忘れず学び続ける医者」という意味を持たせたと言われています。つまり、「玄白」という名前自体が、「学問を深める医者としての姿勢を表すあだ名」だったのかもしれません。

杉田玄白は「やぶ医者」と言われたことがある?

「玄白」という名前には「やぶ医者(=下手な医者)」という意味があるという説もあります。

これは、「玄」が奥深い知識、「白」が素人という意味で、「奥深い知識がありながら素人のようなミスをする=誤診する医者」という連想から生まれた俗説です。しかし、実際には杉田玄白は優れた医師であり、決して「やぶ医者」ではありませんでした。

この説が広まった背景には、彼が翻訳した『解体新書』に誤訳があったことが影響しているのかもしれません。医学書の翻訳は当時の日本では前例がなく、難しい言葉も多かったため、完全に正確な翻訳はできませんでした。

しかし、その後の医学の発展に大きく貢献したことは間違いありません。

杉田玄白の号「鷧斎(いさい)」と「九幸翁(きゅうこうおう)」

杉田玄白には「鷧斎(いさい)」と「九幸翁(きゅうこうおう)」という号(ごう)がありました。号とは、江戸時代の学者や医師が自分で名乗る別名のことです。

「鷧斎(いさい)」は、彼が若い頃に名乗っていた号です。意味ははっきりと分かっていませんが、「斎」は学問や修行の場を意味することが多く、「鷧」は中国の古典に由来する言葉だと考えられます。つまり、「学びを極める人」という意味が込められていたのかもしれません。

一方、「九幸翁(きゅうこうおう)」は、彼が晩年に名乗った号で、墓石にもこの名前が刻まれています。「九」は長寿や幸運を象徴する数字であり、「幸」は幸福を意味します。つまり、「長く幸せに生きた老人」という意味が込められていたのでしょう。

これらの号からも、杉田玄白が学問を愛し、長寿を全うした人物であることが分かります。

杉田玄白の門弟たちがつけた別の呼び名

杉田玄白は医者としてだけでなく、多くの弟子を育てた教育者でもありました。彼のもとには全国から優秀な若者が集まり、彼の医学塾「天真楼(てんしんろう)」で学びました。

そのため、弟子たちからは「天真楼先生」と呼ばれることもありました。「天真楼」とは、彼が江戸で開いた私塾の名前で、「天真」は「純粋な真理」を意味し、「楼」は学問を深める場を表しています。つまり、「真理を追求する学びの場を開いた先生」という意味で呼ばれていたのです。

また、彼の教育は厳しくも優しかったと言われています。彼は「学問は一生続けるものだ」と考えており、弟子たちにも「学びを止めるな」と繰り返し教えていました。この姿勢が、後の蘭学者たちにも受け継がれていったのです。

杉田玄白の「異名」が教科書や試験で問われるポイント

杉田玄白のあだ名や号は、歴史の教科書や試験でもよく出題されるポイントです。特に、「草葉の陰」というあだ名は『蘭学事始』に登場する重要なエピソードなので、しっかり覚えておくと良いでしょう。

また、「玄白」という名前の意味や、『解体新書』の翻訳における苦労話も、日本の近代医学の発展を学ぶ上で重要です。特に、「翻訳時に使われた方法(単語の意味を推測しながら解読する手法)」や、「翻訳メンバーとの関係(前野良沢が翻訳を主導したが、名前を残さなかった)」などは、試験にも出やすいポイントです。

さらに、杉田玄白の「養生七不可」という健康法も注目されることが多いので、彼が長生きした理由とあわせて知っておくと良いでしょう。歴史だけでなく、現代の健康管理にもつながる考え方として活用できますね。

総括:杉田玄白あだ名まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 代表的なあだ名「草葉の陰」
    • 『解体新書』の翻訳作業が難航し、「完成するころには草葉の陰(=あの世)で見守っているかもしれない」と冗談で言ったことが由来。
    • 仲間の桂川甫周が面白がって呼び始め、定着した。
    • 実際には85歳まで長生きし、仲間たちよりも長生きしたため冗談になった。
  • 「玄白」という名前も一種のあだ名
    • 本名は「杉田翼(たすく)」だが、医師として「玄白」と名乗った。
    • 「玄」は深い学問、「白」は初心を忘れないという意味を持つ説がある。
  • 「やぶ医者」との誤解
    • 「玄白」は「奥深い知識を持つが、素人のようなミスをする」という俗説もあるが、実際は優れた医師だった。
    • 『解体新書』の誤訳が原因で「やぶ医者」と誤解された可能性がある。
  • 号(ごう)「鷧斎(いさい)」と「九幸翁(きゅうこうおう)」
    • 「鷧斎」は若い頃の号で、学問を極める意味が込められている。
    • 「九幸翁」は晩年の号で、「長く幸せに生きた老人」の意味がある。
  • 門弟たちがつけた呼び名「天真楼先生」
    • 江戸で開いた医学塾「天真楼」の名前から、弟子たちにそう呼ばれた。
    • 学問を追求する場を提供し、多くの後進を育成したことを示している。
  • 試験に出やすいポイント
    • 「草葉の陰」というあだ名は『蘭学事始』に登場する重要なエピソード。
    • 『解体新書』翻訳時の苦労話や、翻訳メンバーとの関係も重要な歴史的背景。
    • 「養生七不可」など健康に関する考え方も、彼の長寿の要因として注目される。