日本の歴史の中でもとても重要な「大宝律令」と「養老律令」について、分かりやすく解説します。
「大宝律令と養老律令って何が違うの?」
「名前は似ているけど、どっちが大事なの?」
こんな疑問を持っている人は多いはずです。テストでもよく出る部分なので、しっかり理解しておきましょう。実は、この2つの律令はとても深い関係があるのです。
この記事では、大宝律令と養老律令の違いや共通点を分かりやすく解説し、語呂合わせやテストに出やすいポイントも紹介します。最後まで読めば、「律令って面白い!」と思えること間違いなし!さっそく始めましょう。
大宝律令と養老律令の違いを分かりやすく解説

大宝律令は701年に施行された、日本の律令制度の起点となる法典です。中国・唐の律令を参考にしながら、日本の政治と社会の基盤を築きました。この律令が成立した背景や、その特徴について詳しく見ていきましょう。
大宝律令とは?制定の背景と目的を解説
大宝律令は、701年(大宝元年)に成立した日本初の本格的な律令法典です。律令というのは、「律=刑法」「令=行政・民法」のことで、これをもとに国を統治する仕組みをいいます。
では、なぜこの時代に大宝律令が必要だったのでしょうか?その理由は、国をまとめるルールがなかったからです。それまでの日本は、天皇や豪族の権力がバラバラで、全国を統一する決まりがありませんでした。
そこで、天武天皇の時代に「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」が作られましたが、これはまだ発展途上でした。
そこで、文武天皇の時代に「大宝律令」を制定し、国を統一しようとしたのです。これは、中国(唐)の法律を参考にして作られましたが、日本独自の制度も取り入れられています。これにより、天皇を中心とした中央集権国家の仕組みが整いました。
養老律令とは?制定の目的と施行の背景
養老律令は、大宝律令を改訂した新しい法典です。編纂(へんさん)が始まったのは718年(養老2年)で、藤原不比等(ふじわらのふひと)が中心となって作りました。しかし、すぐには施行されず、757年(天平宝字元年)に藤原仲麻呂が施行しました。
「なぜ、大宝律令を作ったのに、また新しい律令が必要だったの?」と思うかもしれませんね。その理由は、大宝律令には使いにくい部分や誤字脱字があったからです。また、国の状況が変化したため、新しい時代に合わせたルールが必要になったのです。
つまり、養老律令は大宝律令をさらに改良したもの。法律の大きな枠組みはほとんど同じですが、より実用的な形に整えられました。
大宝律令と養老律令の条文の違いは?
「ほとんど同じ」といっても、どこが変わったのか気になりますよね?
大きな違いは、言葉や条文の整理が行われたことです。たとえば、大宝律令では「官員令」と呼ばれていたものが、養老律令では「職員令」となりました。他にも、文章の順番が変わったり、より分かりやすい表現に変えられたりしています。
また、唐(中国)の律令をもっとしっかり取り入れるようになったのもポイントです。例えば、軍事や税制に関する部分は、唐の仕組みを参考にして修正されています。
「名前が違うだけで、基本的には同じ」と覚えておくと、テストで混乱しませんよ!
大宝律令と養老律令の施行期間と影響
大宝律令の施行期間は701年〜757年までです。約50年間、日本の基本的な法律として使われました。しかし、その後、養老律令が正式に施行されると、大宝律令は使われなくなります。つまり、養老律令が「日本の正式な律令」になったのです。
養老律令の影響は、平安時代以降も続きました。833年には「令義解(りょうのぎげ)」という公式注釈が作られ、さらに後世には「令集解(りょうのしゅうげ)」という解説書も編纂されました。
つまり、養老律令は長い間、日本の法律の基盤として活用されたのです。
大宝律令と養老律令の簡単な覚え方(語呂合わせ)
歴史の年号を覚えるのは大変ですが、語呂合わせを使えば簡単です!
大宝律令(701年):「なおいい国(701)」
→ 「なお(7)いい(01)」と覚えよう!
養老律令(718年・757年):「な、いやな(718)」→「なごむな(757)」
→ 「な(7)いや(18)」で編纂、「な(7)ごむ(57)」で施行!
この語呂合わせを覚えておけば、テストでも迷わず答えられますよ!
大宝律令と養老律令の関係と共通点

大宝律令と養老律令の関係と共通点を解説していきます。
大宝律令がなければ養老律令は生まれなかった?
大宝律令と養老律令は、まるで「兄弟」のような関係です。なぜなら、養老律令は大宝律令をもとにして作られた改訂版だからです。
例えば、大宝律令がなかったら、養老律令も存在しません。つまり、養老律令は「最初の基礎(大宝律令)」があったからこそ作れたのです。
また、編纂(へんさん)した人も共通しています。大宝律令は、天武天皇の皇子・刑部親王(おさかべしんのう)と藤原不比等(ふじわらのふひと)が中心となって作りました。そして、養老律令も藤原不比等が関わっています。
しかし、藤原不比等は養老律令の完成を見届ける前に亡くなってしまいました。そのため、彼の孫である藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が757年に養老律令を正式に施行したのです。
このように、大宝律令と養老律令はつながっているので、「どっちが大事?」というよりも、「大宝律令があったから養老律令ができた」と覚えておくと良いですね。
大宝律令と養老律令に共通する政治体制
どちらの律令も、日本の政治体制をしっかりと作るための法律でした。その共通点の一つが「二官八省制(にかんはっしょうせい)」です。
「二官八省制」とは、簡単に言うと「政治をするための役所を整えた仕組み」のことです。
- 二官(にかん):神祇官(じんぎかん)と太政官(だじょうかん)
- 神祇官 → 神様をまつる
- 太政官 → 政治を行う
- 八省(はっしょう):役所のこと
- 中務省(なかつかさしょう) → 天皇のそばで働く
- 式部省(しきぶしょう) → 官僚の育成・試験
- 治部省(じぶしょう) → 外国との交流や祭りの管理
- 民部省(みんぶしょう) → 税金や土地の管理
- 兵部省(ひょうぶしょう) → 軍隊や武器の管理
- 刑部省(ぎょうぶしょう) → 法律や裁判の管理
- 大蔵省(おおくらしょう) → 財産やお金の管理
- 宮内省(くないしょう) → 天皇の住む宮殿の管理
この仕組みが、大宝律令でも養老律令でも採用されていたため、両者の根本的な体制は同じだったのです。
税制と土地制度における共通点
どちらの律令でも、税金のルールや土地の管理方法は共通していました。その代表が「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」です。
班田収授法とは?
→ 6年ごとに田んぼを再分配し、農民に割り当てる仕組みです。すべての土地は国家のものとされ、農民は与えられた田んぼを耕して税を納める必要がありました。
また、税金の制度も共通していました。それが「租庸調(そようちょう)制度」です。
- 租(そ) → お米(収穫の3%程度)を納める
- 庸(よう) → 労役(働くこと)の代わりに布を納める
- 調(ちょう) → その地域の特産品を納める
この制度によって、国は安定して税収を確保し、中央集権国家を運営することができました。
大宝律令と養老律令の影響を受けた後世の法律
養老律令は、その後の時代にも大きな影響を与えました。特に、平安時代になると「令義解(りょうのぎげ)」や「令集解(りょうのしゅうげ)」という注釈書が作られ、養老律令の解釈が詳しく説明されました。
また、武士の時代になると律令政治は次第に形を変えていきましたが、基本的な統治の考え方は引き継がれました。たとえば、鎌倉時代や室町時代にも、税制や役職の仕組みの一部は活用され続けたのです。
つまり、大宝律令と養老律令は「古い法律」ではなく、「日本の政治の基礎を作った重要なルール」だったのです。
総括:大宝律令と養老律令の違いまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
| 項目 | 大宝律令 | 養老律令 |
|---|---|---|
| 制定年 | 701年(大宝元年) | 718年(養老2年) |
| 施行年 | 701年(即施行) | 757年(天平宝字元年) |
| 編纂の中心人物 | 刑部親王、藤原不比等 | 藤原不比等(作成)、藤原仲麻呂(施行) |
| 目的 | 日本初の本格的な律令国家の基盤を作る | 大宝律令を改訂し、より実用的な法典にする |
| 特徴 | 中国(唐)の律令を参考にしながら日本独自の制度を導入 | 大宝律令の誤字脱字を修正し、実用性を向上 |
| 条文の違い | 初めて「律(刑法)」と「令(行政法・民法)」が揃った | 条文の整理、語句の変更(例:「官員令」→「職員令」) |
| 施行期間 | 701年~757年 | 757年以降、平安時代まで影響 |
| 影響 | 日本の律令国家の基礎を築く | 日本の法律の基本となり、平安時代以降も長く使用 |
| テスト向け語呂合わせ | 「なおいい国(701)」 | 「な、いやな(718)」「なごむな(757)」 |
