みなさんは「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」って聞いたことがありますか?
これは、昔の日本で行われていた「土地を国が管理し、人民に貸し出す制度」のことです。でも、なぜこんなルールが作られたのでしょう?そして、どうして今ではなくなってしまったのでしょう?
今回は、班田収授法がどんな仕組みだったのか、なぜ始まったのか、そしてどんな問題があったのかを塾長がわかりやすく解説します!テストにもよく出るポイントなので、しっかり覚えておきましょうね。
班田収授法をわかりやすく解説!目的や背景を徹底解説

班田収授法は、日本の律令制度の中でとても大事な仕組みでした。
「土地をみんなに分けるけど、死んだら国に返してね!」というルールだったんです。では、なぜこの制度が作られたのか、どういう仕組みだったのかを詳しく見ていきましょう。
班田収授法とは:6歳以上が土地を受け取る仕組み
班田収授法とは、6歳以上の男女に田んぼ(口分田)を割り当てる制度です。この土地は自分のものではなく、国から借りているものなので、亡くなると国に返さなければいけません。
日本の班田収授法は、中国(唐)の均田制という制度をまねして作られました。当時の日本は、中国の政治のやり方をたくさん取り入れていたんですね。
でも、なぜこんな制度が必要だったのでしょう?
それは、みんなが平等に土地を持てるようにするためと、国がしっかり税金を集めるためです。田んぼを持つことでお米を作ることができ、その一部を税金として納めるルールがあったからです。
この仕組みは、最初はうまくいっていました。でも、時間がたつにつれて、さまざまな問題が出てくることになります。
班田収授法が制定された目的は?中央集権化と税収確保
この制度が作られた一番の目的は、国が人民をしっかり管理することでした。当時の日本は、各地の豪族(強い一族)がそれぞれ自分の土地を持ち、勝手に支配していました。でも、これでは天皇が国をまとめるのが大変ですよね?
そこで、国が「すべての土地は天皇のもの」と決め、「人民に貸して管理する」というルールを作ったのです。これが公地公民制と呼ばれる考え方です。
また、もう一つ大切な目的がありました。それは、安定した税収を確保することです。田んぼを持つと、そこからお米が収穫できます。その一部を国に納めることで、国は食料を確保したり、お金を得たりすることができました。
さらに、税を納めることで、国の政治や軍事を維持することができたのです。
班田収授法が始まったのはいつ?施行の流れと背景
この制度が最初に決められたのは、大化の改新(645年)の翌年、646年の「改新の詔(かいしんのみことのり)」です。ただ、このときはまだ準備段階でした。
正式にスタートしたのは689年の「飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)」が制定されたときです。さらに、701年の「大宝律令(たいほうりつりょう)」で本格的に実施されました。
制度を運用するために、国は6年ごとに「戸籍(こせき)」を作り、人民の情報をしっかり記録しました。これによって、誰にどれだけの土地を貸すべきかを決めたのです。
班田収授法の仕組みとは?6年ごとの戸籍と班田の関係
班田収授法は、「6年に1回、戸籍を作り直し、新しく6歳になった人に田んぼを与え、亡くなった人の田んぼを回収する」という仕組みです。これを「六年一班(ろくねんいっぱん)」といいます。
口分田の面積は、身分や性別によって異なりました。
例えば:
- 男子(良民) → 2段(約2400㎡)
- 女子(良民) → 1段120歩(約1600㎡)
- 賎民(身分の低い人) → 良民の3分の1
このように、身分によって割り当てが変わるのも特徴でした。
班田収授法の豆知識!語呂合わせで簡単暗記
テストに出やすい班田収授法ですが、難しく感じる人もいるかもしれません。そこで、覚えやすい語呂合わせを紹介します!
- 「6歳で田んぼをもらって、死んだら返す」 → 基本ルール
- 「ろく(6年)なもんじゃない班田収授」 → 6年に1回実施
- 「6歳男女に口分田、男子2段女子は2/3」 → 割り当てルール
- 「大宝律令でスタート、902年に終わる」 → 制度の流れ
語呂合わせを活用すれば、班田収授法の重要ポイントを簡単に覚えることができます!ぜひ試してみてくださいね。
班田収授法をわかりやすく:続かなかった理由

班田収授法は、最初のうちはうまく機能していましたが、時間が経つにつれてさまざまな問題が出てきました。最終的には、902年を最後にこの制度はなくなってしまいます。
ここでは、班田収授法がなぜ崩壊してしまったのか、どのような影響を与えたのかを詳しく見ていきましょう。
なぜ班田収授法は崩壊したのか?主な原因を解説
班田収授法が続かなくなった理由はいくつかあります。
最大の原因は、人口が増えて田んぼが足りなくなったことです。制度が始まった頃は、国が管理する土地も十分にありましたが、だんだんと人口が増えていき、新しく6歳になった子供に田んぼを与えるのが難しくなっていきました。
また、税の負担が重すぎたことも問題でした。班田収授法のもとでは、田んぼをもらうと「租(そ)」という税を納めなければなりません。しかし、田んぼが少なかったり、気候が悪くてお米が育たなかったりすると、税を払うのがとても大変になります。
そのため、多くの人が田んぼを捨てて逃げ出し、国に税が入らなくなってしまいました。
さらに、地方の有力者(豪族)が力をつけ、勝手に土地を私有するようになったことも影響しました。国が田んぼを管理する制度だったのに、豪族が自分の土地を持ち始めたことで、班田収授法は形だけのものになってしまったのです。
班田収授法が続かなくなった背景とは?墾田永年私財法との関係
743年には、「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」という新しい法律ができました。これは、「新しく開墾した土地は、ずっと自分のものにしていいよ!」という法律です。
これによって、豪族や貴族が競って新しい土地を開墾し、自分の私有地を増やしていきました。もともとは国が管理していた田んぼも、次第に貴族や豪族が所有する土地になり、班田収授法はどんどん形だけのものになっていったのです。
この墾田永年私財法によって、貴族たちはますます豊かになり、逆に農民たちは苦しい生活を強いられるようになりました。こうした流れが続き、班田収授法は完全に崩壊してしまったのです。
班田収授法の影響!日本の土地制度に与えた影響とは?
班田収授法がなくなったことで、日本の土地制度は大きく変わりました。まず、「公地公民」という考え方が完全になくなり、土地の私有が当たり前になったことが挙げられます。
班田収授法が続いていたころは、土地はすべて国のものでしたが、それが崩れると、「土地は持っている人のもの」という新しいルールが生まれました。これが後の「荘園制度(しょうえんせいど)」へとつながっていきます。
また、貴族や豪族が広大な土地を持つようになったことで、彼らの力が強まりました。その結果、貴族の力に頼らざるを得なくなった農民が増え、「武士(ぶし)」という新しい身分が生まれるきっかけにもなったのです。
つまり、班田収授法の崩壊は、日本の歴史の中でとても大きな転換点だったのです。
テストに出る!班田収授法と関連する重要用語
班田収授法について学ぶとき、関連する用語も一緒に覚えておくと、テストで役に立ちます!特に重要なものをまとめました。
- 公地公民制(こうちこうみんせい) … 「すべての土地は天皇のもの」という考え方
- 戸籍(こせき) … 人々の名前や年齢を記録した台帳(6年ごとに作成)
- 計帳(けいちょう) … 課税対象となる人を記録した台帳
- 口分田(くぶんでん) … 班田収授法で人民に貸し出された田んぼ
- 租・庸・調(そ・よう・ちょう) … 奈良時代の税制度(特産品を納めたり、都で労働をする義務)
- 墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう) … 開墾した土地の私有を認める法律(班田収授法の崩壊につながる)
これらの用語は、班田収授法とセットでよくテストに出るので、しっかり覚えておきましょう!
総括:班田収授法をわかりやすく解説のまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
班田収授法とは?
- 6歳以上の男女に田んぼ(口分田)を貸し与える制度。
- 土地は国が所有し、死後は国に返すルール。
- 中国(唐)の均田制を参考にして作られた。
班田収授法の目的
- 中央集権化:天皇が土地を管理し、豪族の力を抑えるため。
- 税収確保:人民から安定して税(お米)を徴収するため。
班田収授法の施行と運用
- 646年の「改新の詔」で初めて登場。
- 689年の「飛鳥浄御原令」で制度が確立。
- 701年の「大宝律令」で本格的に実施。
- 6年ごとに戸籍を作り直し、口分田を貸し与えた。
班田収授法の問題点と崩壊の原因
- 人口増加により田んぼが不足し、新たに割り当てるのが難しくなった。
- 税の負担が重すぎたため、多くの農民が逃げ出した。
- 豪族が私有地を増やし、国の管理が機能しなくなった。
- 743年の「墾田永年私財法」で新しく開墾した土地の私有が認められ、制度が形骸化。
班田収授法の影響
- 土地の私有化が進み、公地公民の考えが崩壊。
- 荘園制度が生まれ、貴族や豪族が土地を支配するようになった。
- 農民の貧困化が進み、武士が台頭するきっかけとなった。
