今回は「石川啄木(いしかわたくぼく)」という明治時代の有名な歌人の死因について、わかりやすくお話ししていきます。

彼は26歳という若さで亡くなってしまいましたが、どうしてそんなに早く命を落としたのでしょうか?

この記事では、啄木の死因や病気の様子、そして亡くなる直前までの姿を解説していきます。

※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。

↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓

著:河合敦, 著:房野史典
¥1,617 (2025/07/04 03:22時点 | Amazon調べ)
著:ぴよぴーよ速報
¥1,529 (2025/07/04 03:24時点 | Amazon調べ)

石川啄木の死因は肺結核!病状の経過や最期の様子

明治時代を代表する詩人・石川啄木は、わずか26歳という若さで亡くなりました。その死因は「肺結核」でした。ここでは、啄木がどのように病に倒れ、どんな最期を迎えたのかを詳しく解説します。

石川啄木の死因は肺結核!発症した時期と初期症状とは?

石川啄木の死因は「肺結核(はいけっかく)」という病気でした。肺結核とは、せきやたん、発熱、体重の減少などを引き起こす感染症で、当時は「死の病」とも呼ばれていました。

啄木がこの病気を発症したのは25歳ごろ。最初は「腹膜炎(ふくまくえん)」というおなかの中の病気にかかり、お腹がふくれたり、体に力が入らなかったりして、入院までしていました。その後、肺にも症状が現れ、高熱が続き、せきが止まらないようになったのです。

このように、最初はお腹の病気として始まりましたが、だんだんと肺にまで広がり、肺結核となってしまいました。

肺結核に至るまでの病歴と慢性腹膜炎の関係について

啄木は25歳のとき、慢性の腹膜炎という病気にかかります。これはお腹の中にある膜に炎症が起き、腹水(ふくすい)と呼ばれる水がたまってしまう病気です。啄木は病院でおよそ2.7リットルもの腹水を抜かれるほどでした。

この腹膜炎は、実は結核菌が原因だったと考えられています。そして、それが肺にも広がって、肺結核を引き起こしたのです。つまり、結核性の腹膜炎が進行し、肺にまで感染が広がったということですね。

この頃の啄木は、すでに体力が落ちていて、長い間病気とたたかっていたのです。

晩年の生活苦と心身の悪化が重なった日々

啄木の晩年は、病気だけでなく、生活の苦しさとも戦っていました。仕事はなかなか続かず、収入も少なかったため、家族を支えるのが大変だったのです。彼は朝日新聞の校正係として働いていましたが、体調を崩して休みがちになっていました。

お金がない中で、薬も買えず、食事もままならない日々。さらに、母や妻も病気になり、家庭の中は不安と苦しみに包まれていました。啄木は日記に「何もかもがうまくいかない」といった悲しみの気持ちを多く書き残しています。

病気と貧困、この二つが同時に襲いかかり、啄木の体と心はどんどん弱っていったのです。

石川啄木の死の直前の様子は?看取った人物たち

啄木が亡くなったのは、1912年(明治45年)4月13日の朝9時ごろ。場所は東京・小石川区久堅町の自宅でした。亡くなるときは、父親と妻、そして親友だった歌人の若山牧水(わかやまぼくすい)がそばにいました。

牧水は、そのときのことを歌に残しています。「初夏の曇りの底に桜咲き居り おとろへはてて 君死ににけり」という句からも、啄木が静かに、しかしとても苦しみながら命を終えたことがわかります。

最後は高熱とせきに苦しみながらも、大切な人たちに囲まれて旅立っていきました。

死後の評価と啄木を襲った結核の恐ろしさとは?

啄木の作品は、生前にはあまり評価されていませんでした。しかし、亡くなったあとに彼の詩集や日記が読まれるようになり、「生活の苦しみ」や「人間の弱さ」を正直に表現した作風が、多くの人の共感を呼びました。

また、結核という病気は当時とても怖い病気で、「国民病」や「亡国病」とまで呼ばれていました。日本ではたくさんの人がこの病で命を落とし、啄木の家族も次々に感染していったのです。

死後に出版された『悲しき玩具』などの詩集は、今も読み継がれており、彼の人生そのものが多くの人に感動を与えています。

石川啄木の死因関連情報:何歳で死亡?家族の死など

石川啄木の死は若すぎるものでしたが、それだけでなく、彼の家族にも次々と不幸がふりかかりました。ここでは、啄木が何歳で亡くなったのか、そしてその後に起こった家族たちの運命について、順番に解説していきます。

石川啄木が亡くなった年齢は26歳!早すぎる死の背景

石川啄木が亡くなったのは、1912年(明治45年)4月13日。彼はまだ26歳という若さでした。現在でいえば、大学を卒業して社会に出て間もない年齢です。

啄木は、学生の頃から文学に強い興味をもち、19歳で最初の詩集『あこがれ』を出版。その後も多くの短歌や詩を書き続けました。しかし、生活は常に苦しく、収入も安定せず、家族を支えながら創作を続けていたのです。

結核を発症してからは体調も悪く、思うように作品を書けない苦しみも抱えていました。そんな中での26歳の死は、本当に惜しまれるものでした。

最愛の母も同じ病で死去、続く家族への連鎖とは?

啄木が亡くなる1か月前、実は母親も結核で亡くなっていました。母・カツさんは啄木にとって、とても大切な存在で、過保護ともいえるほどに愛されて育てられました。

そのため、母の死は啄木にとって大きなショックとなり、体調がさらに悪化したと言われています。結核は空気感染する病気ですので、家庭の中でひとりが発症すると、他の家族にもうつるリスクが高いのです。

このように、母親から啄木へ、そしてさらに他の家族へと病が連鎖していったことが、啄木一家の悲劇の始まりだったともいえるでしょう。

妻・石川節子の死因も肺結核!家族が次々と病に倒れた理由

石川啄木の妻・節子も、啄木が亡くなった翌年の1913年に、肺結核で亡くなっています。享年は28歳でした。

節子さんも、夫の病気や貧困に耐えながら、子どもたちを必死に育てていました。啄木が亡くなったあと、娘を連れて実家の函館に帰りましたが、自身も病に倒れてしまいました。

結核は当時とても治りにくい病気でした。薬もなかったため、感染すると長期間にわたって体力が奪われ、ついには命を落とす人が多かったのです。啄木一家も、まさにこの病の連鎖によって、多くの命が失われてしまったのです。

子どもたちのその後は?長女・次女も若くして死去

石川啄木と節子の子どもたちも、残念ながら長くは生きられませんでした。

まず長女の京子さんは、1913年に妊娠中に肺炎をこじらせて24歳で亡くなりました。そのわずか2週間後には、次女の房江さんも肺結核を悪化させて、わずか19歳という若さで亡くなってしまいます。

こうして、啄木と節子の間に生まれた2人の娘も相次いで命を落とし、家族の中で長く生き残る者はいませんでした。この事実は、とても切なく、時代の厳しさと病の怖さを物語っています。

石川啄木の血筋は絶えた?子孫がいない理由を解説

石川啄木には、かつて男の子(真一)もいましたが、生まれてまもなく亡くなっています。そのため、長く生きた子どもは娘2人だけでしたが、前述の通り、彼女たちも若くして亡くなっています。

そのため、石川啄木の血筋は現代まで残ることはありませんでした。現在、啄木の子孫にあたる人は確認されておらず、「血を引く家系」はそこで絶えてしまったのです。

ただし、啄木の作品や生き方は、今もたくさんの人々に影響を与え続けています。子孫はいなくても、彼の文学はしっかりと私たちの心に残り続けているのです。

総括:石川啄木の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 石川啄木の死因は「肺結核」で、26歳という若さで亡くなった
  • 発症のきっかけは「結核性腹膜炎」で、お腹に腹水がたまり入院
  • 腹膜炎が肺に広がり、慢性的な体調不良と高熱・せきに苦しんだ
  • 晩年は生活苦と心身の不調が重なり、非常に困難な日々を過ごした
  • 死の直前には父・妻・親友の若山牧水がそばにいた
  • 結核は当時「国民病」と呼ばれ、多くの命を奪った恐ろしい病だった
  • 母も啄木の死の1か月前に肺結核で死亡し、大きなショックを与えた
  • 妻・節子も翌年に肺結核で死亡、享年28歳
  • 長女・京子は妊娠中に肺炎で死亡、次女・房江も肺結核で死亡
  • 息子・真一は生後まもなく死亡し、子孫は残らなかった
  • 啄木の血筋は絶えたが、作品は今も多くの人々に読み継がれている