今日は、江戸時代の有名な改革者・松平定信(まつだいらさだのぶ)と、そのおじいちゃん徳川吉宗(とくがわよしむね)の関係について、分かりやすく解説します。

「どうして松平定信は吉宗の孫なのに将軍にならなかったの?」
「二人はどんな影響を与え合ったの?」

そんな疑問を持っている人も多いでしょう。実は、この二人の関係は、江戸幕府の運命を大きく左右したんです!

本記事では、松平定信と徳川吉宗の関係にフォーカスして紹介記事を書いていきます。

松平定信と徳川吉宗の関係:祖父と孫のつながりを解説

江戸幕府第8代将軍徳川吉宗は、質素倹約を重視し「享保の改革」を行った人物です。その孫にあたるのが松平定信で、後に「寛政の改革」を行いました。

では、どうして吉宗の孫である松平定信が将軍にならなかったのでしょうか?
それには「御三卿」と呼ばれる家の制度が関係しているのです。

松平定信は徳川吉宗の孫だった!家系図と血筋を解説

松平定信は、吉宗の次男・田安宗武(たやすむねたけ)の子供として生まれました。つまり、血筋だけを見れば、松平定信は将軍になれる立場だったのです。

しかし、将軍になるには「御三家(尾張・紀伊・水戸)」から選ばれるのが原則でした。そこで、吉宗は御三卿(ごさんきょう)という新しい家を作りました。

御三卿は 田安家・一橋家・清水家の三つで、万が一、将軍家に後継ぎがいなくなったときの「予備」としての役割を持っていたのです。

定信はこの田安家の出身でしたが、養子に出されることになり、将軍になる道は閉ざされてしまいました。

徳川吉宗が作った御三卿制度と松平定信の位置づけ

御三卿制度は、将軍家の血を引く人が家臣にならずに済むようにする仕組みです。この制度ができたおかげで、田安家の松平定信や、一橋家の徳川家斉(後の第11代将軍)などが誕生しました。

松平定信は、幼い頃から将軍候補の一人として期待されていました。ところが、彼は奥州白河藩(しらかわはん)という東北の藩に養子に出されてしまいます。

実は、この養子縁組には政治的な思惑があったのです。それが、次の話につながります。

松平定信は将軍になれた?田沼意次の策略と養子縁組の背景

松平定信が将軍の座から遠ざけられた理由の一つは、田沼意次(たぬまおきつぐ)の存在です。田沼意次は、商人を優遇する「重商主義」の政治を進めていました。


しかし、松平定信は 「贅沢をしすぎると国が傾く!」 と考えており、田沼のやり方に反対していました。

田沼意次は、自分の政治を邪魔されたくなかったので、将来有望だった松平定信を白河藩に追いやったのです。こうして、松平定信は将軍の道を閉ざされ、白河藩主としての人生を歩むことになりました。

徳川吉宗の「享保の改革」と松平定信の「寛政の改革」の共通点と違い

徳川吉宗が行った「享保の改革」は、幕府の財政を立て直すための大改革でした。その影響を受けた松平定信も、同じように「寛政の改革」を行いました。

共通点

  • 質素倹約を重視し、贅沢を禁止した
  • 幕府の財政再建に取り組んだ
  • 学問を奨励し、武士の教育を重視した

違い

  • 吉宗は「市場経済」を活用しながら改革を進めたが、定信は商人を厳しく取り締まった
  • 定信は出版物の規制を強化し、社会の風紀を引き締めようとした

つまり、松平定信は吉宗の政策をさらに厳しくしたような改革を行ったのです。

松平定信の政治思想は徳川吉宗譲り?学問と政治の関係

松平定信は学問をとても大切にした政治家でした。これは、徳川吉宗の影響が大きいと言われています。吉宗は「朱子学(しゅしがく)」という儒学の考え方を重視し、「学問をしっかり学んだ者こそが立派な政治を行える」と考えていました。

定信もこの考えを受け継ぎ、「昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)」 という学校を整備しました。

しかし、定信は 「幕府に反対するような考えは禁止!」 という厳しいルールを作ったため、学問の自由が制限されることになりました。

松平定信と徳川吉宗の関係:幕府の未来を左右した改革

松平定信は、祖父である徳川吉宗の影響を受けながらも、自らの政治信念を持って「寛政の改革」を実施しました。この改革は、江戸幕府の財政を立て直すためのものでしたが、結果的には賛否が分かれるものとなりました。

では、具体的にどのような政策が行われたのでしょうか?

寛政の改革とは?徳川吉宗の享保の改革との違い

「寛政の改革」は、松平定信が老中として行った大改革です。これは、祖父・吉宗の「享保の改革」を手本にしたものでしたが、さらに厳しい内容になりました。

吉宗の享保の改革(1716年〜1745年)

  • 幕府の財政を立て直すために、年貢を増やし、倹約を奨励
  • 商業の発展を取り入れ、米価の安定を目指す
  • 目安箱(めやすばこ)を設置し、庶民の意見を聞く

定信の寛政の改革(1787年〜1793年)

  • 倹約令を強化し、武士や庶民に厳しい制限
  • 「囲米(かこいまい)」を導入し、食糧不足に備える
  • 出版の規制を強化し、政治批判を許さない
  • 幕臣の借金を帳消しにする「棄捐令(きえんれい)」を発令

このように、吉宗の改革が「経済を活かしながらの倹約」だったのに対し、
定信の改革は「とにかく厳しく規制をかける」ことに重点が置かれました。

「囲米」とは?徳川吉宗の倹約令との関係性

「囲米(かこいまい)」とは飢饉(ききん)に備えて米を蓄えておく制度のことです。これは、吉宗の時代にも行われていましたが、定信はこれをさらに厳格にしました。

囲米のしくみ

  1. 各藩や大名に命じて、米を蓄えさせる
  2. 食糧危機のときに放出し、庶民を救う
  3. しかし、蓄える負担が大きく、かえって藩の財政を圧迫する

吉宗の時代は「倹約しつつも経済を回す」方針でしたが、定信の囲米制度は「ひたすら蓄える」ことを重視し、藩の負担が増えてしまいました。

寛政異学の禁:学問統制と徳川吉宗の影響

松平定信は、学問の面でも 祖父・吉宗の方針を受け継ぎ ました。
しかし、それをさらに厳しくしたのが「寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)」です。

寛政異学の禁とは?

  • 昌平坂学問所で朱子学(しゅしがく)以外の学問を禁止
  • 朱子学を幕府の公式学問とし、それ以外の学問(陽明学など)を弾圧
  • 幕府への批判を封じるための政策

吉宗の時代も朱子学を重視していましたが、松平定信は「朱子学以外は認めない!」という極端な方針をとったのです。結果として、学問の自由が奪われ、知識人からの反発を招くことになりました。

田沼意次との因縁:松平定信が吉宗の政策を引き継いだ理由

松平定信は田沼意次(たぬまおきつぐ)の政策を強く否定しました。なぜなら、田沼意次の「重商主義(商人を優遇する政策)」は、吉宗の方針とは異なるものだったからです。

吉宗の方針

  • 農民を大切にし、米を経済の中心とする
  • 余計な贅沢を禁止し、質素倹約を推奨

田沼意次の方針

  • 商業を発展させ、経済の活性化を狙う
  • 商人を優遇し、金を回す政策を推進

定信は、田沼意次の政策が「賄賂(わいろ)や不正を生んだ」と考え、彼が進めたすべての改革を否定し、元に戻そうとしたのです。

しかし、庶民の間では「田沼時代の方が暮らしやすかった」と言う人も多く、
定信の厳しい政策には不満が集まりました。

松平定信の失脚:徳川吉宗の孫としての最期

松平定信は、最初こそ「吉宗の孫」として期待されていました。しかし、厳しすぎる改革が多くの人の反感を買い、最終的には 失脚 してしまいます。

失脚の原因

  • 倹約令が厳しすぎて、人々が不満を持った
  • 大奥(幕府の女性たち)の反発を受けた
  • 徳川家斉(11代将軍)や一橋治済(その父)と対立した

1793年、定信は老中を辞任し、白河藩に戻ることになります。その後は、学問や文化活動に力を注ぎ、「楽翁(らくおう)」と名乗って余生を過ごしました。

総括:松平定信と徳川吉宗の関係まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

松平定信は徳川吉宗の孫

  • 吉宗の次男・田安宗武の子として生まれる
  • 将軍になる資格はあったが、田安家の出身だったため原則として将軍にはなれなかった

御三卿制度の創設と松平定信の立場

  • 吉宗は「御三卿(田安家・一橋家・清水家)」を作り、将軍家の血を引く者を家臣にしない制度を整えた
  • 定信は田安家出身だったが、白河藩へ養子に出され、将軍の道を閉ざされる

田沼意次との対立

  • 田沼意次は「重商主義」を推進し、商人を優遇
  • 定信は「倹約と農業重視」を主張し、田沼意次の政策を否定
  • 田沼の策略で白河藩主となり、幕府の中枢から遠ざけられた

徳川吉宗の「享保の改革」と松平定信の「寛政の改革」

  • 共通点:財政再建、倹約重視、学問奨励
  • 違い
    • 吉宗は市場経済を活用、定信は商業を規制
    • 定信は出版規制を強化し、自由な議論を抑圧

「囲米」制度の導入

  • 飢饉に備えた米の備蓄を強化
  • しかし、藩の負担が大きく、かえって財政を圧迫

「寛政異学の禁」による学問統制

  • 幕府の公式学問を「朱子学」に限定し、他の学問を禁止
  • 学問の自由が制限され、知識人の反発を招く

松平定信の失脚

  • 倹約政策が厳しすぎて人々の不満を買う
  • 幕府内での対立が激化し、1793年に老中を辞任
  • その後は「楽翁」と名乗り、学問や文化活動に専念

松平定信と徳川吉宗の関係まとめ

  • 定信は吉宗の政治方針を継承し、さらに厳格な政策を実施
  • しかし、極端な改革が反発を招き、最終的に失脚
  • 吉宗の改革が「バランス重視」だったのに対し、定信の改革は「規制重視」であった