今回は、戦争責任を問われた東條英機(とうじょう・ひでき)の「死因」や「最後の言葉」について、分かりやすく解説していきます。

東條英機といえば、太平洋戦争開戦時の首相として知られ、「戦犯」として処刑された人物です。しかし、実際にどうやって死んだのか、どんな気持ちで最期を迎えたのかは、あまり詳しく知られていません。

この記事では、絞首刑に至るまでの流れから、処刑当日の様子、最後の言葉や辞世の句までを、子供でも理解できるように丁寧に解説します!

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東條英機の死因は絞首刑!処刑までの流れと背景

ではまず、東條英機がなぜ処刑されたのか、その背景からしっかりと見ていきましょう。

東條英機の死因は絞首刑|1948年12月23日に処刑された理由とは?

東條英機の死因は「絞首刑(こうしゅけい)」、つまり首を吊るす方法での死刑です。処刑が行われたのは、1948年(昭和23年)12月23日、午前0時1分のことでした。

この日は奇しくも、当時の皇太子(のちの上皇・明仁さま)の誕生日だったのです。偶然ではないともいわれ、GHQ(連合国軍最高司令部)の意図を感じさせます。

なぜ死刑になったのかというと、東條英機は太平洋戦争を始めた張本人とされ、戦後の「東京裁判」でA級戦犯として裁かれたからです。つまり「平和に対する罪」という、人類史上初の国際的な罪に問われたのです。

なぜA級戦犯とされたのか?東京裁判の判決内容を解説

A級戦犯というのは、「戦争を起こす決定をした人たち」に与えられる罪です。
東條英機は、首相・陸軍大臣・参謀総長など、軍と政治のトップをすべて兼ねていたため、最も重い責任を負う人物とされました。

東京裁判では、アメリカやイギリスなど11か国が裁判官となり、連合国の立場から戦争を裁きました。その中で東條英機は、「侵略戦争を主導した」として有罪判決を受け、死刑が言い渡されたのです。

本人は「自衛戦争だった」と主張しており、今でも賛否の声が分かれる部分でもあります。

処刑当日の様子|午前0時1分の絞首刑とその瞬間

処刑は1948年12月23日の午前0時1分に、東京・巣鴨拘置所で行われました。死刑執行の対象は東條英機を含む7人で、絞首刑のための台が5つしかなかったことから、2回に分けて行われました。

東條英機は第1グループで、他の3人と一緒に執行されました。執行の直前には、お線香を立て、花山信勝(はなやま・しんしょう)教誨師が経を唱え、ブドウ酒を少し飲んだといいます。

その後、十三段の階段をのぼって絞首台へ。照明が昼のように明るく照らされた中、米英中ソの代表が見守る中で、静かに処刑が執り行われました。

処刑前に語られた東條英機の心境

教誨師の花山信勝師によれば、東條英機は最期まで落ち着いていて、「ありがとう」「ごくろうさん」と周囲の人に声をかけていたそうです。

処刑前の面談で、東條は「今が死ぬにちょうどいい時期だ」と語りました。

・国民に謝罪できる
・天皇に迷惑をかけずに済む
・戦後日本の礎(いしずえ)になれる


という理由をあげて、死を受け入れていたのです。

「弥陀の浄土に往生できる」と話していたことから、仏教への信仰心の深さもうかがえますね。

なぜ処刑日は皇太子(上皇)明仁の誕生日?

なぜ処刑日がわざわざ皇太子の誕生日だったのか。これは偶然ではなく、GHQの“意図”があったという見方があります。

昭和天皇の誕生日(4月29日)には起訴状が読み上げられ、皇太子の誕生日(12月23日)には処刑が行われたのです。この二つの“日付”は、連合国が天皇制に対して「象徴的な刻印」を残す意図があったのではと、多くの歴史家が分析しています。

つまり、「天皇を処刑せずにすませた代わりに、その家族にとって忘れられない日を選んだ」可能性があるということです。

東條英機の死因の後に:最後の言葉と遺言

ここからは、東條英機が処刑直前に語った「最後の言葉」や、死を目前にして残した遺言・辞世の句を取り上げます。彼の信仰、戦争への考え、そして日本への思いが込められた言葉の数々を、一緒にひもといていきましょう。

最後の言葉は「ありがとう」|絞首刑直前のやりとりとは

東條英機が絞首刑に向かう直前、付き添っていた米軍の下士官に向かって言った言葉は、「ごくろうさん」「ありがとう」だったと伝えられています。

この言葉は、戦争で敵対した側の兵士に向けて発したものであり、多くの人々に驚きを与えました。東條と共に処刑された他の戦犯たちも「ありがとう」と繰り返し、見張り役の米軍将校が思わず手を差し出して握手を求めたという、世界でも珍しい処刑前の光景が記録されています。

死の直前まで冷静さを失わず、敬意をもって人に接する姿は、ある意味で東條英機の人格を象徴する場面ともいえるでしょう。

遺言に込められた7つの覚悟

東條英機は処刑前、花山信勝教誨師との面談で、「ちょうど今が死ぬべきとき」と語り、その理由を7つにまとめて伝えています。

  1. 国民への謝罪を果たせる
  2. 戦後日本の再建の礎になれる
  3. 天皇陛下に迷惑をかけずに済む
  4. 自殺ではなく、裁かれて死ぬことに意味がある
  5. 自身は病弱で、もはや長く生きられない
  6. 金銭的不名誉がないまま死ねる
  7. 病苦よりも一瞬の死の方が楽である

さらに、「阿弥陀仏の浄土へ行けることが一番の喜びです」と、仏教的な死生観をにじませていました。死を恐れるどころか、自らの死に役割を見出し、国と天皇、家族への責任を全うしようとする強い覚悟がうかがえます。

辞世の句「さらばなり有為の奥山~」

東條英機は、絞首刑の前に辞世の句(じせいのく)をいくつも残しています。
その中でも有名な一つがこちらです。

さらばなり 有為の奥山 今日越えて
弥陀のみもとに 往くぞうれしき

「有為の奥山」とは、この世の苦しみや迷いのこと。それを今日、自分は越えて、阿弥陀仏のいる極楽へ向かう——そんな解脱(げだつ)と救いを喜ぶ心が込められています。

他にも「またこの土地に還りこむ 国に報ゆることの足らねば」と詠んだ句もあり、死してなお国に尽くすという強い意思を表しています。戦争責任を問われた人物とはいえ、その心には日本という国や民を思う真摯な気持ちがあったことが、辞世の句から読み取れます。

東條英機が目指した理想と現実

東條英機は、太平洋戦争を通して「大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)」という理念を掲げていました。これは、アジア諸国が欧米の植民地支配から独立し、協力しあって繁栄しようという理想のことです。

しかし現実には、日本が他国を支配・侵略しているとの批判が多く、「共栄」ではなく「支配」だとみなされました。戦後、東條はこの理念が誤解されたことを悔やみ、「共に進む未来を信じていた」とも語っています。

理想と現実のギャップに苦しみつつも、アジアの独立や平和を願った思いは、遺言にも繰り返し記されています。

戦犯家族への配慮と靖国神社への願い

東條英機は、自分とともに戦犯とされた仲間たちだけでなく、その家族や戦死者たちのことも強く気にかけていました。

遺言の中で、こう願っています。

「戦犯者の家族には保護を与えられたし。靖国神社に英霊として合祀されるようにしてほしい。」

つまり、自分たちの処刑をもって「責任は終わり」とし、家族や他の戦死者にこれ以上の負担をかけないようにしてほしいというのです。

実際、戦犯家族への差別や非難は戦後も続きました。そんな中で東條は、最期まで「人としての責任」と「他者への配慮」を忘れなかったことが分かります。

総括:東條英機の死因&最後の言葉まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 東條英機の死因は絞首刑で、1948年12月23日午前0時1分に処刑された。
  • A級戦犯として東京裁判で有罪となり、「平和に対する罪」で死刑判決を受けた。
  • 絞首刑当日は巣鴨拘置所で7人が2回に分けて処刑された。東條は第1グループだった。
  • 処刑直前には線香を上げ、経を唱え、ブドウ酒を口にするなど、厳粛な雰囲気だった。
  • 最後の言葉は「ありがとう」「ごくろうさん」で、敵である米軍兵にも敬意を示した
  • 処刑日は当時の皇太子(上皇明仁)の誕生日であり、GHQの意図的な選定とされる。
  • 遺言では7つの覚悟(国民への謝罪・天皇への配慮・戦後日本への貢献など)を語っていた。
  • 辞世の句には仏教的な死生観と、「死しても国に尽くす」という愛国の精神が込められていた。
  • 東條は「大東亜共栄圏」の実現を理想とし、アジアの独立と協力を願っていた。
  • 戦犯家族や戦死者への配慮として、「靖国神社への合祀」や「家族への保護」を訴えていた。