今日は、歴史の授業でも名前が出てくる「板垣征四郎(いたがき せいしろう)」と「板垣退助(いたがき たいすけ)」について、ズバリ!その関係と違いを分かりやすく解説していきます。
この2人、どちらも「板垣」という名字を持ち、歴史に名を残した偉人ですが、「親戚なの?」「兄弟なの?」と疑問に思う人も多いはず。でも実は、名前が似ているだけで血縁関係はまったくありません。
この記事では、そんな2人の家系や生き方、功績を比べながら、なぜ混同されるのか、どうして同じ名字なのかまで、スッキリ解説していきますよ。
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板垣征四郎と板垣退助の関係:血縁・家系・名前の由来

まずは、もっとも気になる「2人の関係」からスタートしましょう。結論から言うと、「血縁関係はありません!」でも、それぞれのルーツをたどると、違いだけでなく意外な共通点も見えてくるんです。
2人の人物像や家系、名前の背景を丁寧に見比べながら、どうして「同じ名字の偉人」が生まれたのか、時代背景も含めて分かりやすく解説していきます!
板垣征四郎と板垣退助の違い比較表
板垣征四郎と板垣退助の関係を徹底比較してみました。
項目 | 板垣征四郎 | 板垣退助 |
---|---|---|
生年 | 1885年(明治18年) | 1837年(天保8年) |
出身地 | 岩手県 | 高知県(土佐藩) |
職業 | 陸軍軍人(陸軍大将) | 政治家(自由民権運動の先駆者) |
有名な出来事 | 満州事変の主導、A級戦犯として死刑 | 「板垣死すとも自由は死せず」の名言 |
家系の由来 | 盛岡藩士→板垣姓を名乗る | 武田信玄の家臣・板垣信方の子孫 |
こうして比べると、まったく別の時代、別の分野で活躍した2人だということが分かりますね。共通しているのは「板垣」という名字だけ!ここから、さらに詳しく掘り下げていきましょう。
板垣征四郎と板垣退助に血縁関係はない
塾長からズバリ結論を言いますと、板垣征四郎と板垣退助の間に血縁関係はありません!これは、複数の史料でも明らかになっている事実です。
板垣征四郎の祖父は、岩手県の盛岡藩士で「佐々木政清」と名乗っていた人物。後に「板垣桑蔭」と改名しています。つまり、板垣征四郎は「佐々木家」から改姓して「板垣」を名乗った人なんです。
一方、板垣退助のルーツは、戦国時代の武田家臣・板垣信方を祖とする「武田氏の支流」です。こちらは武家として代々「板垣姓」を受け継いできた正統な流れなんですね。
つまり、同じ「板垣」でも出どころが全く違う。だから「親戚かも?」という噂は完全に誤解なんです。
同じ「板垣姓」でもルーツが違う
まず、板垣退助の家系から見てみましょう。退助は、戦国時代に武田信玄に仕えた「板垣信方」の直系ではなく、庶流(本家ではない分家)の家系です。武田氏の支流である板垣氏は、甲斐国(現在の山梨県)をルーツとしています。
その後、江戸時代を経て、土佐藩(今の高知県)に仕え、明治維新で活躍した板垣退助が現れました。まさに武士の家系から生まれた政治家というわけです。
一方、板垣征四郎の家系は、もともと「佐々木姓」。盛岡藩に仕えていた士族の家系で、後に「板垣」と改姓。祖父が名乗った「板垣桑蔭(そういん)」という名が家の中で使われ、それを孫の征四郎が受け継いだ形です。
ルーツがまったく異なるため、「板垣」という名字だけでは関係を判断できないのです。
混同されやすい理由
この2人、どうして「親戚かも?」とよく間違われるのでしょうか?その理由は大きく2つあります。
まず1つ目は、「板垣」という比較的珍しい名字を持っていること。日本には「鈴木」や「田中」のような名字が多い中、「板垣」という姓はあまり見かけないため、目立つのです。
2つ目は、「どちらも歴史に名を刻んだ人物」であること。板垣退助は自由民権運動をリードした政治家、板垣征四郎は満州事変などに関与した軍人であり、どちらも近代史の教科書に登場します。
しかも2人とも明治・昭和の激動の時代を生きたため、「時代が近いのでは?」と思われがちですが、実際には半世紀近くの差があります。
板垣征四郎が「板垣」と名乗った背景
板垣征四郎の家では、もともと「佐々木」という姓が使われていましたが、祖父の直作(なおさく)が「板垣桑蔭(そういん)」と名乗ったのがきっかけです。これは、板垣という姓に特別な意味があったわけではなく、幽閉後に名乗った隠居名のようなものでした。
その後、征四郎の父・政徳も「板垣」の姓を使い始め、家としてその名を受け継ぐことになります。つまり、家系の中で選ばれた姓であり、歴史的な家系とは直接つながっていません。
一方、板垣退助の家は、江戸時代を通じて土佐藩に仕えた正式な「板垣氏」。そのルーツは戦国時代にさかのぼる名門の家柄です。代々武士としての血筋を保ち続けてきた家系との違いが、ここで明確になります。
板垣征四郎と板垣退助の生涯・功績・評価を徹底比較

ここからは、それぞれの人物がどんな生涯を送り、どのような功績を残したのかを比較していきましょう。「軍人」と「政治家」というまったく異なる立場ながら、日本の歴史に大きな影響を与えた2人。その生き方や評価の違いも見えてきますよ。
板垣征四郎とはどんな人物?満州事変からA級戦犯まで
板垣征四郎は、1885年に岩手県で生まれた陸軍軍人です。彼は若い頃から陸軍に入り、中国大陸での活動を中心にキャリアを積んでいきました。とくに有名なのは1931年に起こった「満州事変」。これは日本軍が中国東北部(満州)を占領するきっかけとなった事件で、板垣はこの作戦を計画・主導した中心人物でした。
その後も、日中戦争などの戦線で重要な役割を果たしましたが、第二次世界大戦が終わると戦犯として裁かれ、東京裁判でA級戦犯と認定。1948年、巣鴨プリズンで絞首刑に処されました。
彼の行動にはさまざまな評価があり、戦争を広げた責任を問う声もあれば、軍人としての忠誠心や統率力を称える意見もあります。
板垣退助とはどんな人物?自由民権運動の立役者
一方、板垣退助は1837年、現在の高知県で生まれました。彼は幕末の志士として戊辰戦争に参加し、明治時代になると政治の世界で活躍します。特に「自由民権運動」の中心人物として知られており、国民に選ばれた代表が政治を行う「国会の開設」を求めて運動を広めました。
1874年には「民選議院設立建白書」を政府に提出し、日本における議会制民主主義の第一歩を作りました。なかでも有名なエピソードが「板垣死すとも自由は死せず」。これは、選挙遊説中に暴漢に襲われたときに叫んだとされる言葉です。
この言葉は後に自由の象徴として語り継がれ、退助は日本の民主主義の礎を築いた英雄として、今でも高く評価されています。
軍人と政治家:それぞれの役割の違い
板垣征四郎と板垣退助は、どちらも「国のために尽くした」人物ですが、その立場は大きく違います。
板垣征四郎は「軍人」として、主に戦場での指揮や戦略立案を担当していました。彼の目的は、軍の勝利と国家の安全保障を守ること。戦争という非常に厳しい世界の中で任務を遂行する立場でした。
それに対して、板垣退助は「政治家」として、民衆の権利を守り、政府の在り方を変えようとした人物です。暴力ではなく「言論」や「制度」によって国を動かそうとしたわけですね。
同じ「国のため」という動機でも、そのアプローチはまったく異なります。戦争と政治、軍人と民間人。それぞれの時代と役割が、2人を大きく分けているのです。
時代背景の違いが2人の行動にどう影響した?
板垣退助が活躍したのは、江戸時代末期から明治維新、そして新しい国家が始まった時代。日本が西洋化し、近代国家を目指して必死に変わろうとしていた時期でした。このような時代背景があったからこそ、自由民権運動のような「新しい政治」が求められたのです。
一方、板垣征四郎の時代は、すでに近代国家となった日本が「帝国」として海外に勢力を広げようとしていた昭和の初期。国際的な緊張が高まり、軍の力が強くなっていた時代です。つまり、「外に向けて力を示すこと」が重視された時代に彼は軍人として活躍しました。
このように、時代のニーズや空気が、それぞれの行動や評価に大きな影響を与えたことが分かります。
現代の評価はどう違う?顕彰・記念館・子孫のエピソード
最後に、現代における2人の評価の違いについて見てみましょう。
板垣退助は「自由と民主主義の父」として今も多くの人から尊敬されています。高知県には「板垣退助先生顕彰会」が存在し、記念館も整備されています。また、2024年には彼の曾孫である板垣正明さんが亡くなったことが報道され、世間から多くの追悼が寄せられました。
一方の板垣征四郎は、A級戦犯として戦後に処刑されたため、評価は分かれるところです。戦争責任を問う声がある一方で、家族や郷里では彼を静かに顕彰する動きもあります。ただし、全国的な記念館や顕彰会はなく、その功罪については現在も議論が続いています。
このように、現代における2人の扱いからも、その生き方の違いが色濃く表れているのです。
総括:板垣征四郎と板垣退助の関係まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 2人に血縁関係はない
→ 名前が同じでも家系や出身地がまったく違う。 - 名字が同じ理由
→ 板垣征四郎はもともと佐々木姓で、祖父が改姓。
→ 板垣退助は武田信玄の家臣・板垣信方の家系。 - 混同されやすい理由
→ 珍しい名字・歴史的偉人・時代が近いと誤解されがち。 - 人物像の違い
→ 板垣征四郎:満州事変の軍人、A級戦犯。
→ 板垣退助:自由民権運動の政治家、「自由は死せず」の名言。 - 時代背景の違い
→ 征四郎は昭和の軍国主義、退助は明治の民主主義草創期。 - 現代の評価
→ 板垣退助は記念館や顕彰会あり。
→ 板垣征四郎は評価が分かれ、顕彰活動は少ない。