今回は「トルーマンは原爆投下を知らなかったのか?」という歴史の大きな疑問に迫ってみましょう。

このテーマは、戦争・政治・倫理という複雑な要素が絡んでいますが、分かりやすく一つひとつ紐解いていきますね。

この記事を読めば、

「トルーマンは本当に知らなかったの?」
「なぜ原爆は落とされたのか?」


という疑問がスッキリ解決しますよ!

トルーマンは原爆投下を本当に知らなかった?真相解説

ここからは、原爆を使用した決断を下した後のトルーマンがどんな思いを抱えていたのか、彼の演説やスピーチ、関係者の証言などを通して見ていきます。

「後悔はあったのか?」「原爆をどう受け止めていたのか?」という疑問に、塾長が分かりやすくお答えしていきますよ!

トルーマンは原爆投下を知らなかった?

まず結論から言うと、トルーマンは原爆投下を「知らなかった」わけではありません。実はしっかりと関与していたのです。

たしかに、トルーマンが大統領に就任したのは1945年4月で、それまでは副大統領として核兵器の開発にはほとんど関与していませんでした。でも、就任からわずか数週間後、彼は「マンハッタン計画」という原爆開発の全容を知らされます。

その後、7月のポツダム会談の際には、「世界で最も恐ろしい兵器を発見した」と日記に書いており、原爆の存在をはっきりと理解していたことが分かります。また、原爆投下に関する命令書にはトルーマンの承認があったことも記録として残っています。

「知らなかった」という説は一部で語られている誤解にすぎません。

原爆投下は誰が決めた?トルーマンの役割

原爆投下の最終決定者は、アメリカ大統領であるトルーマンでした。ただし、マンハッタン計画の実務は、軍のグローヴス将軍と科学者たちによって進められており、彼らが中心になって技術的な部分を動かしていました。

戦争中という非常事態のなか、大統領がすべての細部まで把握していたわけではありませんが、「使うかどうか」を決めたのはトルーマンだったのです。

陸軍長官スティムソンは、原爆の使用には軍事的な正当性があると主張し、トルーマンに説得を試みました。その結果、トルーマンは7月25日に「8月以降、天候が良ければ日本本土に原爆を投下する」と明記した命令書を承認しました。

つまり、「誰が落としたのか?」の答えは、最終的にはトルーマンだったのです。

トルーマンは標的都市や投下日を把握していたのか

原爆の標的となった都市は、科学者や軍人によって構成された「標的選定委員会」によって決められました。広島、小倉、新潟、長崎が候補に挙げられましたが、最終的に天候や戦略上の理由で広島と長崎が選ばれたのです。

注目すべきは、当初候補に入っていた「京都」が外されたこと。これはスティムソン長官が「文化的に重要な都市で、破壊すべきではない」とトルーマンに進言し、彼も同意したことが理由でした。このエピソードからも、トルーマンが都市選定にある程度関与していたことがうかがえます。

また、7月25日に出された命令書には、「8月3日以降、目視可能な天候であれば投下を実行」と明記されており、トルーマンが投下予定日も把握していたのは間違いありません。

3発目の原爆をトルーマンが止めた?

広島と長崎の原爆投下後、実は「3発目」の準備も進められていました。候補地としては東京や他の都市が検討されていたという記録もあります。しかし、8月14日、トルーマンは英国公使に対して「東京に原爆を落とすしかない」と語りながらも、最終的にはそれを止めました。

理由は、日本の降伏が確実視されたこと、そして「これ以上子どもを殺したくない」という彼自身の発言があったからだとされています。このエピソードは、トルーマンが原爆投下をただの戦略とだけ考えていたのではなく、苦悩の中で判断していたことを物語っています。

軍事的効果と道義的ジレンマ

トルーマンは原爆の破壊力と恐ろしさを、ある程度理解していたと考えられます。彼は1945年7月の日記で「人類史上最も恐ろしい兵器」と記しており、また「子どもを殺したくない」とも書き残しています。こうした記録からも、単なる武器としてではなく、倫理的・道徳的な側面にも思いを巡らせていたことが分かります。

とはいえ、トルーマンは原爆を「戦争を終わらせるための手段」として使う決断をしました。技術的な詳細までは科学者に任せていたかもしれませんが、その影響力と重みは十分に認識していたのです。

トルーマンは原爆投下を知らなかった?演説と後悔の気持ち

ここからは、原爆を使用した決断を下した後のトルーマンがどんな思いを抱えていたのか、彼の演説やスピーチ、関係者の証言などを通して見ていきます。

「後悔はあったのか?」「原爆をどう受け止めていたのか?」という疑問に、塾長が分かりやすくお答えしていきますよ!

後悔はなかった?「眠れなかったことは一度もない」

原爆投下から十数年が経った1959年、トルーマンは「私は自分の決断で眠れなかったことは一度もない」と語っています。この発言からは、「後悔はなかったのか?」と感じる人も多いでしょう。

実際、戦後のアメリカでは「原爆が戦争を早期に終わらせ、数十万人の米兵の命を救った」という見方が一般的でした。退役軍人たちからは「トルーマンが決断してくれて命が助かった」と感謝の声も届いており、当時のアメリカ社会において原爆投下は「正しい判断」と広く認識されていたのです。

ですから、トルーマン自身も「自分の決断で多くの命が救われた」と信じていた可能性が高いです。

オフレコ演説原稿に見る苦悩

ただし、トルーマンが常に自信満々だったわけではありません。実は1945年12月の「グリディロン・クラブ」という記者非公開の晩餐会で使用した演説草稿には、こんな一文が記されていました。

「人間が下した最も恐ろしい決断は、ポツダムで私が下した決断です」

このスピーチ草稿では、「25万人の米兵の命と引き換えに、日本の2都市を犠牲にした」という重い選択についても触れており、彼の内心には深い葛藤があったことがわかります。

公の場では見せなかった「苦悩」や「人道的な疑問」が、この非公開原稿にはにじみ出ていたのです。

トルーマンの孫が語った謝罪と責任

現代では、トルーマンの孫であるクリフトン・トルーマン・ダニエル氏が、広島・長崎の被爆者と交流を重ね、原爆に関する和解のメッセージを世界に発信しています。

彼はかつて「祖父の決断が正しかったかどうかよりも、大切なのは被爆者の声を聴くこと」と語りました。彼自身が初めてヒロシマで祖父を亡くした女性に出会ったとき、「私はとても驚いた」と語っており、その後は日本への理解を深め、被爆者の証言を記録・公開する活動も行っています。

祖父の判断に対して「イエスかノーか」だけで答えるのではなく、世代を超えた対話や共感を通して、未来への教訓を伝えようとしているのです。

演説や声明から読み解く立場

原爆投下直後の1945年8月、トルーマンは国民に向けて声明を発表し、「この爆弾は日本の軍事基地を破壊するためのものである」と述べました。さらに、「原爆は戦争を終結させるための道具であり、必要な措置だった」と強調しています。

また、ポツダム宣言では「日本が無条件降伏しなければ、完全な破壊が待ち受けている」と警告しており、この文言もトルーマンの考えを反映しています。つまり彼は、戦争終結を最優先とする立場から原爆使用を正当化していたのです。

このスタンスは、戦後のアメリカ国内でも長く支持され、政治家や歴史家の中にも「原爆がなければ戦争はさらに長引き、多くの命が失われた」とする人が少なくありませんでした。

原爆投下と昭和天皇の責任論

原爆投下の道義的な責任をめぐって、近年のアメリカでは「昭和天皇の責任」についても語られることがあります。ある米メディアでは「最も血に手を染めたのは昭和天皇だ」と表現され、これは日米間で見解が大きく分かれる部分です。

また、原爆を開発した科学者ロバート・オッペンハイマーは、トルーマンに対して「私の手は血で汚れています」と述べたという有名なエピソードもあります。これに対し、トルーマンは「そんなことはない。決断を下したのは私だ」と突き放したとも言われています。

このように、アメリカでは原爆使用の責任を「リーダーとしての決断」として受け止める傾向が強く、トルーマンは「ピースメーカー(平和をもたらす者)」とまで評価されることもあるのです。

総括:トルーマンは原爆投下を知らなかった?まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • トルーマンは原爆投下を「知らなかった」わけではなく、しっかり関与していた。
  • 大統領就任後すぐに原爆開発(マンハッタン計画)の全容を知らされ、使用決定にも関与。
  • 投下都市の選定(京都除外など)や日付にも一定の関与があった。
  • 3発目の原爆使用(東京など)は最終的にトルーマンが中止させた。
  • トルーマンは原爆の恐ろしさを理解しており、道義的な葛藤もあった。
  • 戦後は「眠れなかったことは一度もない」と語るなど、後悔のない姿勢を見せた。
  • 非公開の演説草稿では「最も恐ろしい決断」と表現し、内心の葛藤が見える。
  • 孫のクリフトン氏は被爆者と交流し、対話と和解を重視する活動を行っている。
  • トルーマンは公式声明や演説で原爆使用を「戦争終結のため」と正当化。
  • アメリカでは昭和天皇の責任論や、オッペンハイマーとの比較も語られている。
  • 結論:トルーマンは原爆を理解し関与しており、後悔よりも正当性を重視していた。