みんなは江戸時代の「本屋さん」ってどんなものだったか知っていますか?
今のように本屋がたくさんあるわけではなく、一部の人しか本を持てなかった時代です。そんな中で、庶民が気軽に読める本をたくさん作り、大人気の出版業者となったのが「鱗形屋孫兵衛(うろこがたや まごべえ)」です。
彼は「黄表紙(きびょうし)」と呼ばれる大人向けの絵入り本を広め、出版界をリードしました。しかし、ある事件をきっかけに、彼の出版社は大きなダメージを受けてしまいます。それが「重版事件(ちょうはんじけん)」です。
今回は、鱗形屋孫兵衛が何をしたのか、どんな本を出版したのか、そして重版事件でどうなってしまったのかを、分かりやすく解説します!
鱗形屋孫兵衛は何した人?江戸の出版界を支えた版元

江戸時代には、商売として「本を作って売る」ことをする人たちがいました。その人たちは 「版元(はんもと)」 と呼ばれ、有名な本屋の一つが 「鱗形屋孫兵衛」 でした。では、孫兵衛はどんな人物で、どんな本を作ったのでしょうか?
鱗形屋孫兵衛:江戸時代の有力版元で「黄表紙」文化を広めた人物
鱗形屋孫兵衛は、江戸時代中期に活躍した出版業者(版元)の一人です。特に「黄表紙」と呼ばれる本をたくさん作り、江戸の人々に大人気となりました。
黄表紙とは、今でいう漫画に近い本で、大人向けのユーモアや風刺がたっぷり詰まった内容です。代表作のひとつが『金々先生栄花夢(きんきんせんせい えいがのゆめ)』です。これは、お金持ちの道楽者が世間を渡り歩くという内容で、江戸の庶民たちが大笑いしながら読んでいました。
鱗形屋孫兵衛の工夫は、単に本を作るだけではなく、「今、何が流行っているか?」を見極めながら、新しいジャンルの本をどんどん出版したことです。そのおかげで、彼の出版物はたくさん売れ、江戸の町で大成功を収めました。
鱗形屋孫兵衛の家系:江戸の地本問屋を代々受け継いだ名家
孫兵衛は、もともと本を扱う家に生まれました。彼の家は 「地本問屋(じほんどいや)」という商売をしていて、江戸時代初期から続く由緒ある版元でした。
初代・三左衛門(さんざえもん)の時代から書物を販売し、2代目・加兵衛(かへえ)の時代にはさらに事業を拡大。浄瑠璃本(じょうるりぼん)や仮名草紙(かなぞうし)といった文学作品を多く出版しました。そして3代目となった孫兵衛が、黄表紙を中心とする娯楽本の出版で大成功を収めたのです。
本を作るという仕事は、ただ文字を印刷するだけではありません。どんな本が売れるのか、どの作家と契約するのかなど、たくさんの工夫が必要です。孫兵衛の家系は、代々その技術を受け継ぎ、江戸の出版業界を支えてきました。
江戸の出版業界で「吉原細見」などの人気ガイドブックも手掛けた
鱗形屋孫兵衛は、物語本だけでなく、「ガイドブック」も出版していました。その中でも特に有名なのが『吉原細見(よしわらさいけん)』という本です。
『吉原細見』は、江戸時代の遊郭「吉原」に関する情報をまとめた案内本です。今でいう「旅行ガイドブック」のようなもので、どのお店が人気なのか、どんな遊女がいるのかが詳しく紹介されていました。この本は非常に人気があり、多くの人が購入しました。
しかし、この『吉原細見』の出版をめぐって、大きな争いが起こります。それが蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)との対立です。
蔦屋重三郎との関係:師匠かライバルか?
江戸の出版業界には、もう一人有名な人物がいました。それが 「蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)」 です。
最初のころ、鱗形屋孫兵衛は蔦屋重三郎に本作りのノウハウを教え、出版業界に導いた存在でした。しかし、蔦屋は独自のアイデアを活かしてどんどん成長し、やがて鱗形屋のライバルになっていきます。
特に『吉原細見』の出版権をめぐっては、熾烈な争いがありました。最初は鱗形屋が独占していましたが、重版事件(後述)の影響で出版が難しくなり、最終的には蔦屋が『吉原細見』の新しい版を出版し、成功を収めることになります。
鱗形屋孫兵衛の出版ビジネスは「江戸のトレンド」を捉えていた
孫兵衛は、単に本を作るのではなく、「何が売れるか?」を見極めるセンスを持っていました。
江戸時代には、庶民が楽しめる娯楽が少なかったため、本は大事な娯楽のひとつでした。そこで孫兵衛は、当時の流行や人気のテーマを取り入れた本を次々と出版しました。
例えば、江戸の町で話題になっていた言葉や事件をネタにしたり、滑稽なキャラクターを登場させたりしました。そのため、多くの人々が「鱗形屋の本は面白い!」と言って次々に購入したのです。
しかし、この成功の裏には、後に大きな危機が待ち受けていました。それが「重版事件」です。この事件がきっかけで、鱗形屋孫兵衛の運命は大きく変わってしまうのです。
鱗形屋孫兵衛の運命を変えた「重版事件」とは

成功を収めていた鱗形屋孫兵衛でしたが、「重版事件(ちょうはんじけん)」という大きな問題に巻き込まれてしまいました。この事件が原因で彼の出版業は衰退し、最終的には廃業へと追い込まれていきます。
ここでは、重版事件の内容とそれが孫兵衛に与えた影響について詳しく解説していきます。
重版事件とは?手代が起こした海賊版騒動
重版事件とは、江戸時代に出版された本を無断でコピーし勝手に売るという違法行為のことです。今でいう「海賊版」の販売にあたります。
事件の発端は、鱗形屋孫兵衛の店で働いていた手代(使用人)が引き起こしました。
当時、大坂の版元・柏原与左衛門(かしわばら よざえもん)が出版していた『早引節用集(はやびきせつようしゅう)』という辞書がありました。これを孫兵衛の手代・徳兵衛(とくべえ)が勝手に 『新増節用集(しんぞうせつようしゅう)』というタイトルに変え、無断で販売してしまったのです。
当時、版元同士の間では 「同じ本を勝手に出版しない」 というルールがありました。江戸幕府もこれを厳しく取り締まっていました。当然、柏原与左衛門は激怒し、この件は幕府に訴えられることになりました。
事件の責任を取らされ、鱗形屋孫兵衛に下された罰
この事件の責任を問われたのは、手代の徳兵衛だけではありませんでした。店の経営者である鱗形屋孫兵衛も処罰を受けることになったのです。
幕府は、手代の徳兵衛に対し、「家財没収」と「江戸からの追放」という厳しい処分を下しました。そして、店の管理が不十分だったとして、孫兵衛には罰金20貫文(現在の価値で約200万円相当)が課されました。
しかし、この罰金以上に大きな打撃だったのは、「信用の失墜」でした。版元という商売では、お客さんや作家、取引先からの信用が何よりも大事です。この事件によって、孫兵衛の店は「ルールを守らない危険な版元」という印象を持たれてしまったのです。
さらなる不祥事で信用を完全に失う
重版事件で大きなダメージを受けた孫兵衛ですが、彼の不運はそれだけでは終わりませんでした。もう一つの不祥事が発生し、致命的な打撃を受けることになります。
それは、大名家の御用人と関わるスキャンダルでした。ある大名家の家臣が、金に困って主家の宝物を質入れしてしまい、その仲介をしたのが孫兵衛だったと言われています。
この事件は正式な記録には残っていませんが、当時の文献『菊寿草(きくのすそう)』には、「うろこ屋(鱗形屋)が大名の家臣と問題を起こした」という内容が書かれています。
これによって、幕府の目はますます厳しくなり、孫兵衛は完全に信用を失ってしまいました。版元としての活動がほぼ不可能になり、最終的に廃業へと追い込まれたのです。
鱗形屋孫兵衛の最後:その後に何が起こったのか?
孫兵衛が廃業したあとは、彼の次男が「西村屋(にしむらや)」という別の版元に引き取られ、出版業を続けたと言われています。また、孫兵衛の跡地には他の版元が入り、彼が築いた出版のノウハウは、別の形で受け継がれていきました。
しかし、孫兵衛本人がその後どうなったのかは、詳しい記録が残っていません。大きな失敗をしたことで、ひっそりと隠居生活を送ったのではないかと考えられています。
こうして、かつて江戸の出版界をリードしていた鱗形屋孫兵衛の物語は幕を閉じたのです。
総括:鱗形屋孫兵衛は何した人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめとを残しておきます。
① 鱗形屋孫兵衛の基本情報
- 江戸時代中期に活躍した有力な版元(出版社経営者)。
- 「黄表紙(きびょうし)」と呼ばれる大人向けの絵入り本を広めた。
- 『金々先生栄花夢』などのユーモアや風刺の入った本を出版し、大ヒット。
② 出版ビジネスの成功
- 「吉原細見」 という遊郭ガイドブックを出版し、大きな利益を得る。
- 流行や庶民の関心を見極め、売れる本を積極的に出版していた。
- 江戸時代の本の流通を支える「地本問屋」の中心的存在 だった。
③ 蔦屋重三郎との関係
- 最初は指導者的な立場だったが、やがてライバル関係に。
- 『吉原細見』の出版権をめぐり、蔦屋と激しく競争 。
- 重版事件の影響で最終的に蔦屋に市場を奪われてしまう。
④ 「重版事件」の発生
- 手代が無断で辞書の海賊版(違法コピー)を販売し、トラブルに発展。
- 幕府の裁きを受け罰金と信用の失墜 により経営が傾く。
- 『吉原細見』の独占権を失い蔦屋重三郎が市場を支配。
⑤ さらなるスキャンダルと廃業
- 大名家の家臣の不正に関与した疑惑があり、さらに信用を失う。
- これらの事件の影響で出版業を続けることが困難になり廃業。
- 彼の次男が「西村屋」として出版業を継続したが、孫兵衛本人の行方は不明。