みなさん、歴史の授業で「和気清麻呂(わけのきよまろ)」という名前を聞いたことはありますか?「あまり覚えていない…」という人もいるかもしれませんね。
でも、和気清麻呂は、日本の歴史の中でとても重要な役割を果たした人物です。
彼がいなかったら、日本の天皇の歴史が大きく変わっていたかもしれません。さらに、今の京都(平安京)の礎を作った人でもあるんです。
今回は、和気清麻呂がどんな人で、どのような功績を残したのかを、塾長が分かりやすく解説していきます!
和気清麻呂は何した人か簡単に?歴史的な役割と影響

和気清麻呂は、奈良時代から平安時代初期に活躍した貴族です。
有名なのは「道鏡(どうきょう)の皇位簒奪(さんだつ)を阻止したこと」と「平安京遷都を進めたこと」です。この2つの功績がなければ、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
では、具体的にどのような出来事があったのか、詳しく見ていきましょう。
和気清麻呂は何をした人?皇位簒奪を阻止した忠臣
和気清麻呂は、天皇の側近として仕えていた貴族です。特に大きな功績を挙げたのが、769年に起こった「宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)」です。
当時、日本の政治を牛耳っていた僧・道鏡は、「自分が天皇になれば、国が安泰になる」という神のお告げ(神託)があったと称徳天皇に報告しました。しかし、「本当にそんな神託があったのか?」と疑問を持った称徳天皇は、和気清麻呂を九州の宇佐八幡宮へ派遣し、真偽を確かめさせることにしました。
清麻呂が神託を受けると、「皇位は必ず皇族の者が継ぐべきであり、道鏡のような無道の者は排除せよ」との言葉が告げられました。つまり、「道鏡は天皇になってはいけない」という神のお告げがあったのです。清麻呂はこの神託を称徳天皇に報告しました。
この報告を聞いた道鏡は激怒し、清麻呂の足の腱を切り、「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という屈辱的な名前に改名させた上で、大隅国(現在の鹿児島県)に流罪にしました。しかし、翌年に称徳天皇が亡くなると、清麻呂は都に呼び戻され、名誉を回復しました。
和気清麻呂と道鏡事件|対立の背景とその結果
この事件が起こるまで、道鏡は称徳天皇から非常に気に入られており、太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)や法王(ほうおう)という位を授かっていました。称徳天皇は独身だったため、道鏡を次の天皇にしようと考えていたとも言われています。
しかし、当時の日本では「天皇は皇族が継ぐもの」というルールがありました。もし道鏡が天皇になっていたら、このルールが崩れ、日本の歴史が大きく変わっていたかもしれません。
この事件によって道鏡は失脚し、新たに光仁天皇(こうにんてんのう)が即位しました。こうして、天皇の血統は守られたのです。
和気清麻呂が果たしたもう一つの功績|平安京遷都の立役者
和気清麻呂のもう一つの大きな功績は「平安京(へいあんきょう)遷都」です。
平安時代が始まる前、日本の都は「奈良の平城京(へいじょうきょう)」や「長岡京(ながおかきょう)」にありました。しかし、長岡京は洪水が多く、さらに政治的な混乱もあったため、遷都(せんと)が検討されていました。
和気清麻呂「長岡京ではなく、もっと良い場所に新しい都を作るべきです!」と桓武天皇に進言しました。そして、794年、「平安京」という新しい都が京都に作られたのです。
現在の京都が長く日本の中心であったのは、この平安京遷都のおかげです。そして、その遷都を提案したのが、和気清麻呂だったのです。
和気清麻呂と八幡神|武家社会への影響
和気清麻呂が神のお告げを受けた「宇佐八幡宮」は、後に武士たちの信仰を集めることになります。特に源頼朝(みなもとのよりとも)などの武士は、八幡神を守護神として信仰しました。
和気清麻呂が道鏡の野望を阻止し、天皇の血統を守ったことは、武士たちにとっても重要な意味を持っていました。武士たちは「正義を貫いた和気清麻呂こそ、我々の模範だ」と考えたのです。
そのため、八幡神社が全国に広がり、和気清麻呂も一緒に祀られるようになりました。
和気清麻呂が紙幣に?旧10円札の肖像に選ばれた理由
和気清麻呂の功績が評価され、昭和時代には旧10円札の肖像になりました。お札に選ばれるということは、日本の歴史にとって非常に重要な人物だった証拠です。
日本の歴史の中で、「忠臣」としてのイメージが強く、権力に屈せずに正しいことを貫いた和気清麻呂は、多くの人々から尊敬されました。そのため、お札に使われるほどの人物として認められたのです。
和気清麻呂は何した人か:伝説とゆかりの地

和気清麻呂には、多くの伝説やゆかりの地が残されています。特に「300頭の猪が清麻呂を守った」という話は有名ですね。彼が流罪にされた大隅国(現在の鹿児島県)や、神託を受けた宇佐八幡宮(大分県)など、清麻呂にまつわる場所を巡ることで、彼の歴史をより深く知ることができます。
ここからは、清麻呂の伝説や、彼を祀る神社について詳しく見ていきましょう。
300頭の猪が清麻呂を守った!和気清麻呂とイノシシ伝説
和気清麻呂の伝説の中でも特に有名なのが、「300頭の猪が清麻呂を守った」という話です。
清麻呂は道鏡の怒りを買い、大隅国に流罪となりました。しかし、その途中で道鏡の手下による刺客(しかく)に襲われそうになります。そこに突然、300頭もの猪が現れ、清麻呂を守ったと伝えられています。
さらに、清麻呂の足の腱が切られていたにもかかわらず、猪に導かれながら宇佐八幡宮に参拝したところ、足の傷が回復したとも言われています。
この伝説が広まり、清麻呂を祀る護王神社(ごおうじんじゃ)では「狛犬」ではなく「狛猪(こまいのしし)」が置かれるようになりました。また、清麻呂は「足腰の神様」としても信仰され、スポーツ選手や足の病気に悩む人々の参拝が絶えません。
護王神社|和気清麻呂を祀る京都の神社
京都にある「護王神社」は、和気清麻呂を祀る神社として有名です。この神社には、清麻呂が道鏡の陰謀を阻止したことを称えるために建てられました。
護王神社では、狛犬ではなく「狛猪」が置かれており、「足腰の健康祈願」のご利益があるとされています。特にスポーツ選手や登山家、さらには高齢者の方々が「足腰の健康」を願って訪れることが多い神社です。
また、毎年1月には「いのしし奉納祭」が行われ、多くの参拝者でにぎわいます。和気清麻呂の伝説が現代にも息づいていることが分かりますね。
宇佐八幡宮|和気清麻呂が神託を受けた場所
和気清麻呂が神託を受けた「宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)」は、大分県にある日本全国の八幡神社の総本宮です。
この神社は、日本の歴史において重要な役割を果たしてきました。和気清麻呂が訪れたことでさらに有名になり、今でも多くの人が訪れるパワースポットになっています。
宇佐八幡宮では、和気清麻呂にまつわる史跡も残っており、「和気清麻呂像」や「神託を受けた場所」とされる場所も見学できます。また、ここを訪れることで、清麻呂の生涯をより深く感じることができるでしょう。
和気神社|清麻呂の生誕地・岡山県和気町
岡山県和気町には、和気清麻呂を祀る「和気神社」があります。この神社は、清麻呂の生誕地とされる場所に建てられ、地元の人々にとってはとても大切な神社です。
和気神社では、清麻呂の功績を称える行事が毎年行われています。また、神社の周辺には「藤公園(ふじこうえん)」という美しい公園があり、春には藤の花が満開になります。
和気町は、清麻呂のルーツをたどるにはぴったりの場所ですね。もし歴史好きなら、一度訪れてみるのも面白いかもしれません。
和気清麻呂の功績が残る場所|日本各地に伝わる彼の影響
和気清麻呂の功績は、日本全国に影響を与えました。その証拠に、彼のゆかりの地は多くの場所に点在しています。
- 鹿児島県霧島市の和気神社(流罪の地として建立)
- 東京都千代田区の和気清麻呂像(皇居近くに設置)
- 奈良県奈良市の道鏡事件関連の史跡(称徳天皇や道鏡の影響を感じられる場所)
これらの場所を訪れることで、和気清麻呂が日本の歴史にどれだけ大きな影響を与えたのかが分かります。特に、平安京遷都や天皇の血統を守ったという功績は、今でも語り継がれています。
総括:和気清麻呂は何した人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 和気清麻呂(わけのきよまろ)とは?
- 奈良時代から平安時代初期に活躍した貴族。
- 「道鏡の皇位簒奪を阻止」「平安京遷都の立役者」として有名。
- 道鏡の皇位簒奪を阻止(宇佐八幡宮神託事件)
- 僧・道鏡が「自分が天皇になれば国が安泰」と称徳天皇に進言。
- 天皇の命で和気清麻呂が宇佐八幡宮へ行き、真偽を確かめる。
- 神託:「皇位は皇族が継ぐべき、道鏡は排除すべき」との内容。
- 清麻呂が報告すると、道鏡の怒りを買い流罪に。
- 翌年、称徳天皇の死後、名誉回復。
- 平安京遷都の推進
- 桓武天皇に「長岡京ではなく新しい都を」と進言。
- 794年、京都に平安京が建設される。
- 和気清麻呂と八幡神|武士への影響
- 宇佐八幡宮の神託事件を機に、八幡信仰が広まる。
- 源頼朝など武士が八幡神を守護神として信仰。
- 伝説:300頭の猪が清麻呂を守った
- 流罪の途中、道鏡の刺客に襲われるも猪の群れに守られる。
- 猪のおかげで傷が癒えたとの伝説も。
- 和気清麻呂を祀る神社・ゆかりの地
- 護王神社(京都):清麻呂を祀る神社。狛犬の代わりに「狛猪」。
- 宇佐八幡宮(大分):神託を受けた場所。全国の八幡宮の総本社。
- 和気神社(岡山):生誕地にある神社。清麻呂を祀る。
- 和気神社(鹿児島):流罪の地に建てられた神社。
- 和気清麻呂と旧10円札
- 「忠臣」としての功績が評価され、昭和時代の旧10円札の肖像になる。