みなさん、日本の歴史には「源平合戦」という有名な戦いがありますね。
その中でも 「屋島の戦い」は、戦の天才・源義経が奇策を用いて平家を圧倒したことで知られています。
今回は、この戦いをわかりやすく解説しながら、義経の伝説的なエピソードも紹介していきます。
歴史のテストに出るポイントや、語呂合わせで覚えやすくする方法も解説するので、最後まで読んでくださいね!
屋島の戦いをわかりやすく解説:戦いの経緯と勝敗のカギ

屋島の戦いは、1185年に源義経率いる源氏軍が平家を奇襲し、大勝利を収めた戦いです。この戦いがなぜ重要なのか、どんな戦術が使われたのか、歴史の流れをわかりやすく解説していきます。
屋島の戦いとは:1185年に起きた源平合戦の重要な戦い
「屋島の戦い」は、1185年(寿永4年/元暦2年)2月に現在の香川県高松市屋島で行われた戦いです。
この戦いは、源義経率いる源氏軍と平宗盛率いる平家軍の対決でした。平家は、一ノ谷の戦いで敗れたあと、屋島に拠点を移し、最後の抵抗を試みます。しかし、義経は少数の兵で奇襲を仕掛け、平家を打ち破りました。
屋島は瀬戸内海に浮かぶ天然の要塞であり、平家はここに陣を敷いていました。しかし、義経はこの強固な拠点を陸路からの奇襲によって攻略し、戦いの流れを大きく変えたのです。
この戦いが終わると、平家は海を逃げ場として壇ノ浦の決戦へと追い込まれることになります。つまり、屋島の戦いは平家が滅亡する決定的なきっかけとなった戦いなのです。
なぜ屋島の戦いが起こったのか
この戦いの背景には、「一ノ谷の戦い」での平家の敗北がありました。
1184年2月、源義経は兵庫県の一ノ谷で平家を急襲し、大勝利を収めます。この敗北により、平家は拠点を失い、再び屋島へ撤退しました。
一方、源氏軍はこの機を逃さず、さらに平家を追い詰める作戦を立てます。そこで活躍するのが、天才戦略家・源義経です。
義経は「屋島を攻めるなら海から来る」という平家の考えを逆手に取り、なんと陸路を使って奇襲を仕掛けます。通常、瀬戸内海に囲まれた屋島に陸路からの攻撃を仕掛けることは不可能と考えられていました。しかし、義経は潮の満ち引きを計算し、干潮時に馬で進軍できるルートを発見したのです!
これにより、平家はまさか陸から攻められるとは思わず、大混乱に陥りました。この義経の奇襲作戦こそ、屋島の戦いを源氏の勝利に導いた最大の要因なのです。
源義経の戦術が光る!少数軍勢で大軍に勝利した理由
屋島の戦いでの義経の作戦は 「心理戦」「奇襲戦」「情報戦」 の3つの要素がポイントです。
① 心理戦:義経軍はわずか150騎の少数軍勢でした。しかし、進軍する途中で民家に火を放つことで、「大軍が来た!」と思わせる作戦をとりました。実際には少数だったにもかかわらず、平家は圧倒的な数の敵が来たと勘違いし、慌てて逃げ出してしまったのです。
② 奇襲戦:平家は海からの攻撃に備えていました。しかし、義経は陸から攻め込むことで、平家の防御計画を完全に崩しました。これにより、平家は反撃の準備ができないまま撤退せざるを得なくなりました。
③ 情報戦:義経は地元の豪族・近藤親家から、平家の守りが手薄であることを聞き出しました。その情報をもとに、わずか150騎で屋島を攻める決断をしたのです!
この3つの戦術を駆使したことで、義経軍は少数でありながら圧倒的に有利な戦いを進めることができたのです。
平家の敗因は何だったのか?地形・心理戦・奇襲の影響
平家が敗れた理由はいくつかありますが、主に「油断」「戦略の誤り」「士気の低下」の3つが挙げられます。
- 油断:平家は、源氏が攻めてくるなら海からだと考えていました。しかし、義経は陸路を選び、まったく違う方向から攻め込んだことで、平家は完全に不意を突かれました。
- 戦略の誤り:平家は軍船を隠して待ち伏せしようとしましたが、義経はそれを見抜き、逆に奇襲 を仕掛けました。その結果、戦わずして撤退することになったのです。
- 士気の低下:一ノ谷の戦いの敗北後、平家の士気は低下していました。一方で、義経の軍は圧倒的不利な状況でも士気が高く、攻める姿勢を貫いたことで戦局が一気に変わりました。
屋島の戦いの後:源平の戦局はどう変わったのか
屋島の戦いの勝利によって、源氏の優勢は決定的となりました。平家は本拠地を失い、海を逃げ場とするしかなくなったのです。
その後、平家は最後の拠点・長門国(現在の山口県)彦島に追い詰められます。そして、1185年3月24日、壇ノ浦の戦いが勃発し、平家は滅亡することになります。
また、この屋島の戦いでの活躍が源義経の名声を高めました。しかし、それが後に源頼朝との対立を生み、義経の悲劇へとつながっていくのです。
屋島の戦いをわかりやすく:義経の伝説と名場面

屋島の戦いでは、ただ戦うだけでなく、後世に語り継がれる伝説的なエピソードが生まれました。特に有名なのが、義経の「弓流し」や、弓の名手・那須与一の「扇の的」 です。
これらの物語は『平家物語』にも登場し、日本の歴史の中でも非常にドラマチックな場面として語り継がれています。
伝説の「扇の的」:那須与一の神業
屋島の戦いで最も有名なエピソードのひとつが、那須与一(なすの よいち)による「扇の的」 です。
この出来事は、平家の軍船から一艘の小舟が出てきて、その上に赤い扇を立てるところから始まります。これは、「この扇を弓で射落とせるか?」という、平家の挑発でした。
そこで義経は、弓の名手である那須与一に命じて扇を射るよう指示します。与一は、「南無八幡大菩薩…」と神に祈り、馬の背から矢を放ちました。そして見事に扇の中央を射抜いたのです!
この場面は『平家物語』にも描かれ、日本の歴史の中でも特に有名なエピソードのひとつとなっています。戦場にもかかわらず、平家・源氏の両軍がこの妙技に拍手を送ったと伝えられています。
源義経の「弓流し」の伝説
義経には、もう一つ有名なエピソードがあります。それが 「弓流し」 です。
屋島の戦いで、義経は敵を深追いし過ぎて、誤って自分の弓を海に落としてしまいました。 それを見た家臣たちは、「あのままにしておきましょう」と言いました。しかし、義経は「敵に自分の弓を拾われたら、弱い弓だと思われてしまう」と言い、なんと 自ら海へ乗り出して弓を拾ったのです!
これは「武士の誇りを守るための行動」だとされ、義経の名将ぶりを示す伝説のひとつとなっています。
義経の戦術が後世に与えた影響
義経の奇襲戦術は、後の日本の戦国時代にも大きな影響を与えました。彼の 「少数精鋭で奇襲を仕掛ける戦術」 は、戦国時代の武将たちにも受け継がれていきます。
例えば、戦国時代の名将である織田信長や武田信玄も、義経の戦い方を研究したと言われています。特に信長は、「桶狭間の戦い」で今川義元を奇襲した際、義経の戦術を参考にしたと言われています。
つまり、義経の戦術は単なる一時的なものではなく、その後の日本の戦い方に大きな影響を与えたのです。
屋島の戦いのテストに出るポイントと重要な用語
歴史のテストに出やすい「屋島の戦い」のポイントを整理しておきましょう。
✅ 戦いの年 :1185年(元暦2年)2月
✅ 戦った相手 :源義経(源氏) vs. 平宗盛(平家)
✅ 戦いの場所 :現在の香川県高松市・屋島
✅ 戦いの特徴 :義経が陸路から奇襲を仕掛け、圧勝した
✅ 重要なエピソード :
- 那須与一の「扇の的」 → 平家の挑発に対し、見事に扇を射落とした
- 義経の「弓流し」 → 自ら海に弓を拾いに行ったことで武士の誇りを示した
- 奇襲戦術 → 陸路から攻めることで、平家の予想を完全に裏切った
これらのポイントをしっかり押さえておけば、テストで高得点を狙えるはずです!
屋島の戦いを覚える語呂合わせ!
歴史の出来事を語呂合わせで覚えるのもおすすめです!
「人々(1185)が屋島で義経大勝利!」
→ 「1185年、屋島の戦いで義経が勝利した」 ことを覚える語呂合わせです!
また、「扇の的」や「弓流し」のエピソードは、歴史の年号よりもイメージで覚えることが大事です。歴史のテストでは、こういった名場面を問う問題も出されることがあるので、しっかり理解しておきましょう。
総括:屋島の戦いをわかりやすく解説のまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 屋島の戦いとは?
- 1185年(元暦2年)2月 に発生した源平合戦の重要な戦い。
- 源義経(源氏) vs 平宗盛(平家) の対決。
- 香川県高松市・屋島で行われた。
✅ 戦いの背景
- 1184年の一ノ谷の戦いで平家が敗北 → 屋島に拠点を移す。
- 義経は海上戦ではなく、陸路からの奇襲作戦を決行。
✅ 義経の戦術が光る!勝因となった戦略
- 心理戦:わずか150騎の軍勢ながら火を放ち、大軍に見せかけた。
- 奇襲戦:平家が想定していた海上戦を避け、陸路から攻撃。
- 情報戦:地元の豪族・近藤親家から平家の守りが手薄な情報を得る。
✅ 平家の敗因
- 油断:源氏の攻撃が「海から来る」と考えていた。
- 戦略ミス:軍船を隠して待ち伏せしようとしたが、奇襲により不意を突かれる。
- 士気の低下:一ノ谷の敗北後、平家軍の士気が大きく下がっていた。
✅ 屋島の戦い後の影響
- 平家は最終的に壇ノ浦の戦い(1185年3月24日)で滅亡。
- 義経の名声が高まる → しかし、これが頼朝との対立の原因となる。
✅ 屋島の戦いの伝説と名場面
- 那須与一の「扇の的」
- 平家の挑発に応じ、弓の名手・那須与一が見事に扇を射抜いた。
- 敵味方を超えて両軍が称賛。
- 義経の「弓流し」
- 戦場で落とした弓を自ら海へ入り拾い上げた。
- 武士の誇りを示したエピソードとして語り継がれる。
- 義経の「八艘飛び」
- 平教経の攻撃を逃れるため、船から船へ飛び移り脱出。
- 「まるで風のような動き」と評された。
✅ テストに出る重要ポイント
- 戦いの年号:「1185年(元暦2年)」
- 戦いの場所:「香川県高松市・屋島」
- 戦いの特徴:「義経の奇襲戦術で圧勝」
- 有名なエピソード:「扇の的・弓流し・八艘飛び」