「暴れん坊将軍」って聞いたことがありますか?テレビの時代劇で、町の悪者を将軍自ら成敗する姿が印象的なこのキャラクター。でも、実際の歴史でも徳川吉宗は本当に「暴れん坊」だったのでしょうか?
実は、時代劇の「暴れん坊将軍」と歴史上の吉宗には、大きな違いがあります。
この記事では、「なぜ徳川吉宗が暴れん坊将軍と呼ばれるのか?」を分かりやすく解説します。また、吉宗の本当の姿や、なぜ時代劇のモデルになったのかも詳しく説明します。
徳川吉宗が暴れん坊将軍と呼ばれるのはなぜ?理由

徳川吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府の第八代将軍だった人物です。
彼は幕府の財政を立て直し、庶民の暮らしを守るためにさまざまな改革を行いました。
しかし、テレビの時代劇「暴れん坊将軍」の影響で、「剣を振るい、町の悪を成敗する将軍」として知られるようになりました。ここでは、なぜ吉宗が「暴れん坊将軍」と呼ばれるのか、その理由を詳しく見ていきましょう!
徳川吉宗はなぜ「暴れん坊将軍」と呼ばれるのか?
「暴れん坊将軍」という呼び名は、もともと時代劇のタイトルから生まれました。1978年に放送が開始されたこのドラマでは、徳川吉宗が自ら町に出て、
悪を斬り捨てるというストーリーが描かれています。

しかし、実際の徳川吉宗は、自ら刀を振るって戦うことはありませんでした。
彼は幕府の最高権力者であり、政治を動かす立場にあったからです。
では、なぜ「暴れん坊」と呼ばれるようになったのでしょうか?それは、吉宗がとても行動力のある人物だったからです。彼はお忍びで町に出て、庶民の暮らしを自分の目で確かめることもありました。
また、強いリーダーシップを持ち、幕府の政治を大胆に改革したことから、「実行力のある将軍」としてのイメージが後世に残ったのです。
「暴れん坊将軍」はどのように作られた?モデルとなった逸話
「暴れん坊将軍」は完全なフィクションではなく、徳川吉宗に関するいくつかの逸話が元になっています。
例えば、吉宗は「目安箱(めやすばこ)」という仕組みを作りました。これは、庶民が直接意見を書いて幕府に届けることができる箱のことです。この制度によって、江戸の人々の声を政治に反映させることができました。
また、吉宗は「お忍び」で町に出ることもあったと伝えられています。これは、庶民の暮らしを知るために自ら動いたという話です。時代劇ではこのエピソードをもとに、吉宗が町で直接悪と戦う場面が描かれたのですね。
なぜ徳川吉宗は名君とされるのか?
徳川吉宗は、江戸幕府の歴代将軍の中でも特に評価の高い人物です。彼は「享保の改革(きょうほうのかいかく)」という大規模な政治改革を行い、幕府の財政を立て直しました。
この改革では、無駄な支出を減らす「倹約令(けんやくれい)」や、大名たちに幕府への献金を求める「上げ米の制(あげまいのせい)」などが行われました。
また、農業の発展を促し、庶民の生活を安定させることにも力を入れました。
これらの政策によって、幕府は財政の危機を乗り越えることができました。そのため、吉宗は「江戸幕府中興の祖(えどばくふちゅうこうのそ)」と称されるようになったのです。
暴れん坊将軍の名シーンと時代劇の影響
時代劇「暴れん坊将軍」には、多くの名シーンがあります。特に有名なのが、白馬に乗った吉宗が登場し、華麗な剣さばきで悪を成敗する場面です。
しかし、実際の歴史では、将軍が町で戦うことはありえませんでした。将軍の役割は幕府を統治することであり、町の治安は町奉行(まちぶぎょう)や与力(よりき)、同心(どうしん)といった役人たちが担当していたのです。
このように、時代劇の「暴れん坊将軍」はフィクションではありますが、吉宗の「行動力がある」「庶民を大切にする」というイメージをより分かりやすく伝えるために作られたキャラクターだったのです。
「暴れん坊将軍」はどれくらい人気だったのか?
「暴れん坊将軍」は、1978年から2002年まで放送され、シリーズ12作、合計832回ものエピソードが制作されました。これは、日本の時代劇の中でも非常に長く続いたシリーズのひとつです。
人気の理由は、分かりやすいストーリー展開と、主演の松平健(まつだいら けん)さんの魅力にありました。また、「暴れん坊将軍」は日本国内だけでなく、海外でも放送され、時代劇ファンの間で高い評価を受けました。
このドラマの影響で、徳川吉宗といえば「暴れん坊将軍」というイメージが定着しました。実際の吉宗とは異なる部分が多いものの、彼の行動力や庶民への思いやりが、時代劇のキャラクターとして見事に表現されていたのですね。
徳川吉宗が暴れん坊将軍なのはなぜ?本当の徳川吉宗

徳川吉宗は「暴れん坊将軍」というイメージが定着していますが、実際の彼はどのような人物だったのでしょうか?ここでは、時代劇とは異なる「本物の吉宗」の姿を詳しく見ていきます。
徳川吉宗の生い立ちと将軍になるまで
徳川吉宗は1684年、紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)の家に生まれました。
紀州藩は、江戸幕府を開いた徳川家康の子孫が治める御三家(ごさんけ)の一つであり、将軍家に次ぐ格式の高い大名家でした。
吉宗は紀州藩主の四男として生まれたため、最初は将軍になるとは考えられていませんでした。しかし、兄たちが早くに亡くなり、家督(かとく)を継ぐことになります。
そして、1716年、7代将軍・徳川家継(とくがわ いえつぐ)が亡くなった後、
幕府の重臣たちは財政難に苦しむ幕府を立て直すため、「倹約家で、しっかりした政治をする人物」として吉宗を8代将軍に選びました。
こうして吉宗は、江戸幕府の最高権力者となったのです。
享保の改革とは?吉宗が行った政治改革
徳川吉宗の最大の功績といえば、「享保の改革(きょうほうのかいかく)」です。この改革は、幕府の財政を立て直し、人々の生活を安定させることを目的としたものでした。
主な政策には以下のようなものがあります。
- 倹約令(けんやくれい):幕府や大名、庶民に対して無駄な支出を減らすように命じた。
- 上げ米の制(あげまいのせい):大名に米を納めさせ、幕府の収入を増やした。
- 新田開発(しんでんかいはつ):農業を発展させるために新しい田んぼを作った。
- 目安箱(めやすばこ):庶民の意見を幕府に届けるための箱を設置した。
これらの政策によって、幕府の財政は大幅に改善されました。特に「目安箱」は、庶民の意見を直接聞く仕組みとして画期的なものでした。吉宗の政治は、厳しさと優しさを兼ね備えたものだったのです。
庶民の暮らしと吉宗の関係性
徳川吉宗は、庶民の暮らしをよくするためにいろいろな工夫をしました。しかし、倹約令や上げ米の制は、大名や庶民にとって厳しいものでした。
たとえば、倹約令では贅沢な食事や服装が禁止されました。また、上げ米の制によって、大名は負担を強いられました。
一方で、庶民の生活を支えるために「米価安定策」や「医療の充実」も行いました。特に有名なのが「小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)」の設立です。これは、貧しい人でも医者にかかれるようにした病院のような施設でした。
このように、吉宗は庶民にとって厳しい政策も行いましたが、同時に彼らの生活を守るための工夫もしていたのです。
暴れん坊将軍と実際の吉宗の違いとは?
テレビ時代劇「暴れん坊将軍」と、実際の徳川吉宗には多くの違いがあります。
項目 | 暴れん坊将軍(時代劇) | 実際の徳川吉宗 |
---|---|---|
役割 | 町で悪を成敗する | 幕府を統治する |
戦い | 自ら剣をふるう | 戦いはしない |
生活 | 派手な印象 | 倹約を重んじる |
政策 | ほとんど描かれない | 享保の改革を実施 |
このように、実際の吉宗は「暴れん坊」ではなく、むしろ「慎重で倹約家な将軍」だったことが分かります。
しかし、ドラマの吉宗が持つ「正義感の強さ」「庶民を大切にする姿勢」は、
実際の吉宗の性格とも共通する部分があると言えますね。
徳川吉宗の死後、彼の功績はどう評価されたのか?
徳川吉宗は、1745年に将軍職を退き、その後も幕府の政治を陰ながら支え続けました。そして、1751年に亡くなりました。享年68歳でした。
彼の死後、吉宗の改革は「江戸幕府の黄金時代を支えた」と評価されました。
また、後の時代になっても、彼の政治手腕は「名君の手本」として語り継がれました。
時代劇「暴れん坊将軍」の影響もあり、現在でも徳川吉宗は「庶民思いの名将軍」として広く知られています。
総括:徳川吉宗が暴れん坊将軍なのはなぜかまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
・「暴れん坊将軍」のイメージは時代劇の影響
→ テレビドラマの影響で、吉宗が自ら悪を成敗する印象が強まった。
・実際の徳川吉宗は剣を振るって戦うことはなかった
→ 幕府の最高権力者として、政治改革を行う立場だった。
・吉宗が「暴れん坊」と呼ばれるのは行動力のため
→ お忍びで町に出ることがあり、庶民の生活を直接観察していた。
・時代劇の「暴れん坊将軍」はフィクションだがモデルはある
→ 目安箱の設置や庶民のための政治など、吉宗の実際の政策がベースになっている。
・吉宗は「享保の改革」で幕府の財政を立て直した
→ 倹約令、上げ米の制、新田開発などの改革を実施。
・庶民のための政策も行った
→ 小石川養生所を作り、貧しい人も医療を受けられるようにした。
・時代劇と実際の吉宗には大きな違いがある
→ 時代劇は勧善懲悪のヒーロー、実際の吉宗は倹約家で政治改革に尽力した。
・「暴れん坊将軍」は日本国内外で人気があった
→ 832回放送され、松平健の演技も高評価を受けた。
・吉宗の死後も名君として評価され続けている
→ 幕府の安定に貢献し、「江戸幕府中興の祖」と称された。