今日は「大隈重信(おおくま しげのぶ)」という、明治時代に活躍したすごい人物について学んでいきますよ。

「この人はいったい何をしたの?」
「なんで教科書に出てくるの?」


と疑問に思ったことはありませんか?

実は、大隈重信は、今の日本にとってとても大切な“ルール”や“しくみ”を作った立役者の一人なんです。学校でよく聞く「政党政治」や「早稲田大学」、そして「鉄道」や「お金のしくみ」にも深く関わっていたんですよ!

この記事では、「大隈重信ってどんな人?」「何をやったの?」という疑問を、塾長がやさしく分かりやすく、丁寧に解説していきます。さあ、一緒に明治時代のスーパースターをのぞいてみましょう!

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大隈重信は何した人?やったことを簡単に解説

大隈重信は、明治時代から大正時代にかけて活躍した政治家です。2度も内閣総理大臣になったことがあり、日本で初めての政党内閣をつくった人物としても有名です。

また、「早稲田大学」を作ったり、日本の鉄道を広めたり、「円(えん)」というお金の単位を決めたりと、現代の私たちの生活にも関わるたくさんのことをしてきました。

ここでは、大隈重信が何をした人なのか、やったことを5つに分けて分かりやすく紹介していきます!

日本初の政党内閣をつくった人

大隈重信は、1898年に板垣退助(いたがきたいすけ)と手を組んで、「憲政党(けんせいとう)」という政党を作り、日本で初めての政党中心の内閣をつくりました。これを「政党内閣(せいとうないかく)」といいます。

それまでの日本の政治は、薩摩藩(さつまはん)や長州藩(ちょうしゅうはん)など、特定のグループが力を持っていた「藩閥政治(はんばつせいじ)」でした。大隈重信はこの古い政治のやり方を変えて、みんなの声が届くような政治にしたいと思っていたのです。

この改革は、日本の政治に「政党」という考え方を根づかせる大きなきっかけとなりました。

早稲田大学をつくった教育者

1882年、大隈重信は「東京専門学校(とうきょうせんもんがっこう)」という学校を設立しました。これは、今の「早稲田大学(わせだだいがく)」の前身です。

大隈さんは、「もっと自由に学べる学校が必要だ!」と考え、政治や経済など、実際に社会で役に立つ学問を教える場を作ったのです。特に「学問の独立」と「学問の活用」を大事にしていました。

早稲田大学は今も、多くのリーダーや専門家を育てる有名な大学であり続けています。大隈重信の教育への思いが、今も引き継がれているんですね。

鉄道の建設を進めた近代化の推進者

日本に初めて鉄道が開通したのは1872年(明治5年)、新橋(東京)から横浜までの区間でした。この鉄道をつくるために、中心となって動いたのが大隈重信です。

当時は「そんなもの必要ない!」と反対する人も多かったのですが、大隈さんは「これからの日本には鉄道が必要だ!」と信じて工事を進めました。

鉄道ができたことで、人や物の移動が速くなり、日本の経済や暮らしが一気に発展しました。今の新幹線や電車のある生活のはじまりを作ったのは、大隈さんだったんですね。

「円」という通貨制度を導入した人物

みなさんが使っている「円(えん)」というお金の単位。実はこれを使うきっかけを作ったのも、大隈重信なんです。

それまで日本では、地域ごとにいろんな種類のお金が使われていて、ものの値段がバラバラでした。そこで大隈さんは、外国とも取引しやすく、みんなにわかりやすい「円」という単位を作って、お金の制度を整えたのです。

このおかげで、今では日本中どこでも「円」が使えるようになりました。私たちの暮らしを支えている大切なお金の制度も、大隈さんの努力によるものだったんです。

大隈重信は二度も内閣総理大臣を務めた名政治家

大隈重信は、1898年に第8代内閣総理大臣、そして1914年には第17代内閣総理大臣として、2度も日本のリーダーを務めました。

特に2回目に総理大臣になったときは、76歳という高齢でした。第一次世界大戦の中、日本をどのように導くかという難しい時期に、しっかりとその役目を果たしました。

大隈さんは体が弱くなっても、国のために力を尽くし続けた立派な政治家だったのです。その姿勢は、今でも多くの人に尊敬されています。

大隈重信は何した人?やったことをさらに深掘り

大隈重信がやったことは、日本の近代化に大きな影響を与えるものばかりでした。ここからは、彼の考え方や性格がよくわかるエピソードを中心に、もっと深く彼の人物像にせまっていきます。

ただの「すごい政治家」ではなく、「人としてどんな人だったのか?」を知ることは、歴史をもっと楽しくするポイントです!

大隈重信は「浩然の気」に満ちた人物だった

渋沢栄一(しぶさわえいいち)は、大隈重信のことを「浩然の気(こうぜんのき)に満ちた人」とほめたたえています。「浩然の気」とは、正しくて強く、そして広くゆるぎない心を持つ人のことです。

大隈さんは、明るくて元気で、人を引きつける力がありました。実際に多くの若者や仲間が「この人についていきたい」と思ったと言われています。
だからこそ、渋沢栄一も「自分の夢をかなえるなら、この人と一緒にやっていこう」と思ったのです。

リーダーにふさわしい人格を持ち、人を動かす力があったことも、大隈重信の大きな魅力の一つですね。

爆弾事件で片足を失っても笑っていた

1889年、大隈重信は不平等条約の改正に取り組んでいる最中、なんと爆弾を投げられて大けがをしました。右足を切断することになってしまいます。

普通なら落ち込んでしまいそうですが、大隈さんはちがいました。「文明の力(爆弾)で足を失ったのだから本望だ!」と、前向きな言葉を残したのです。

さらに、爆弾を投げた相手に対しても「恨んでいない。勇気ある若者だった」とまで言ったのです。この出来事からも、大隈さんの心の広さと立派な人柄がよく分かります。

「つらいときこそ笑って前に進む」――そんな生き方ができる人だったのですね。

字が苦手だった?でも名言を多く残した

実は、大隈重信は「字が下手だから、自分ではあまり書かなかった」という意外な一面があります。ほとんどの文章は口で話し、それを人に書いてもらっていたそうです。

でも、だからこそ「話す力」がとても強く、人の心に響く言葉をたくさん残しています。

たとえば、こんな名言があります。

「愚痴をこぼすな。失敗したって、それは新たな希望じゃないか。」

このように、失敗しても前を向き、つねに「未来」を信じる言葉が多いのが大隈さんの特徴です。「勉強が苦手でも、努力すればできることはたくさんある!」ということを、大隈重信の生き方が教えてくれます。

教育に人生をかけた人だった

大隈重信は、政治家としてだけでなく、「教育こそが国の未来をつくる」と考えていました。だから、早稲田大学をつくったあとも、学問を守ることに力を入れていきました。

当時の大学は「国の役人を育てるための学校」というイメージが強かったのですが、大隈さんは「自由に学べる学校」を目指しました。その考え方が、早稲田大学の「学問の独立」という教育方針に表れているのです。

生徒たちが自由に考え、行動することを応援する――それが、大隈重信が大切にした教育のかたちでした。今もそれは、日本中の大学に受けつがれています。

国民から愛されたリーダーだった

1922年、大隈重信が亡くなったとき、日比谷公園でおこなわれた「国民葬(こくみんそう)」には、なんと30万人もの人が集まりました。これは、当時としてはとても珍しいことで、どれだけたくさんの人が大隈さんを尊敬していたかが分かります。

普通の政治家は、亡くなってもここまで多くの人に見送られることはありません。大隈重信は「民衆の味方」「国のために働く人」として、長い間愛され続けてきたのです。

足を失っても前を向く姿、教育に人生をささげた姿、そして人を思いやる心――。そのすべてが、今も人々の心に残っているからこそ、多くの人に支持されたのです。

総括:大隈重信は何した人?やったことを簡単にまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 大隈重信は明治から大正時代に活躍した政治家で、2度内閣総理大臣を務めた。
  • 日本初の「政党内閣」をつくり、政党政治の基礎を築いた。
  • 早稲田大学の前身「東京専門学校」を設立し、教育の自由と独立を重視した。
  • 日本初の鉄道(新橋〜横浜間)の建設を推進し、近代化に貢献した。
  • 「円(えん)」という通貨単位を導入し、日本のお金の制度を整えた。
  • 渋沢栄一から「浩然の気に満ちた人物」と称され、多くの人に慕われた。
  • 爆弾事件で片足を失ったが、前向きに受け止め、相手を責めなかった。
  • 字は苦手だったが、名言や講演で多くの人の心を動かした。
  • 教育を国の未来と考え、生涯をかけて教育に力を注いだ。
  • 亡くなった際は30万人が葬儀に参列し、国民に深く愛された人物だった。