今回は、1919年に朝鮮半島で起きた「三一独立運動(さんいちどくりつうんどう)」について、子どもにも分かるようにやさしく解説していきますよ。
三一独立運動は、日本の植民地だった朝鮮で、人びとが「自分たちの国を取りもどそう!」と立ち上がった大きなできごとです。
なぜこの運動が起きたのか?どうやって広がったのか?どんな人物が関わったのか?
歴史の大切な一場面を、いっしょにじっくり見ていきましょう。
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三一独立運動をわかりやすく解説!起こった理由と流れ
三一独立運動は1919年に朝鮮で起きた大きな独立運動です。ここではその背景や原因、起こった当日の様子など、流れをわかりやすく解説します。
三一独立運動とは?簡単に言うと朝鮮の日本からの独立運動
三一独立運動とは、1919年3月1日に朝鮮で起きた大きな独立運動のことです。
「三一(さんいち)」という名前は、運動が始まった日付「3月1日」からつけられました。
当時の朝鮮は、日本によって植民地にされており、多くの朝鮮人が「自由がほしい」「自分たちの国を取り戻したい」と思っていました。そこで人びとは、「朝鮮は朝鮮人のものだ!」という独立の思いをこめて、街で「独立万歳(どくりつばんざい)!」と声を上げるデモを始めたのです。
この運動は全国に広がり、学生や宗教の指導者など、さまざまな人が参加しました。三一独立運動は、のちの韓国独立運動の出発点ともいえる大切なできごとです。
起きた理由は?韓国併合と武断政治が背景にあった
三一独立運動の背景には、日本による「韓国併合(かんこくへいごう)」があります。1910年、日本は大韓帝国を力で併合し、朝鮮という名前に変えて、自分たちの支配下におさめました。
このとき、日本は「武断政治(ぶだんせいじ)」という強い力を使った政治を行っていました。朝鮮の人びとは、警察や軍隊によって言論の自由もなく、集会やデモも禁止され、苦しい生活を送っていたのです。
また、日本は日本語教育を強制したり、日本の文化を押しつけたりして、朝鮮人のアイデンティティを弱めようとしました。これらの行動に不満を感じた人たちが、「このままではいけない!」と立ち上がり、三一独立運動が始まったのです。
きっかけは?高宗の死と「民族自決」の流れ
三一独立運動の直接のきっかけは、大韓帝国の元皇帝・高宗(こうそう)の死でした。1919年3月3日に高宗の国葬が予定されており、多くの朝鮮人が悲しみに包まれていました。
そんな中、「高宗は日本に殺されたのでは?」といううわさも広まり、人びとの怒りはさらに強まりました。
さらに、世界ではちょうど第一次世界大戦が終わり、アメリカのウィルソン大統領が「民族自決(みんぞくじけつ)」という考えを発表します。これは「それぞれの民族は、自分たちのことを自分で決めるべきだ」という考え方です。
この言葉に感化された朝鮮の人々は、「私たちのことは私たちが決める!日本に支配されるのはおかしい!」と考え、独立の動きを始めたのです。
流れを簡単に解説!各地で起こったデモや弾圧の様子
三一独立運動は、1919年3月1日、ソウル(当時の京城)にあるタプコル公園で始まりました。民族代表33人が「独立宣言書」を発表し、人びとは「独立万歳!」と叫びながらデモ行進を行いました。
この運動はすぐに全国へ広がり、600か所以上でデモが行われました。学生、農民、宗教の指導者など、多くの人が参加し、大きなうねりとなりました。
しかし、日本の朝鮮総督府はこの運動を「暴動」とみなし、警察や軍を使って強く弾圧します。デモに参加した人たちは逮捕されたり、暴力を受けたり、命を落とした人もいました。
それでも、人びとの「朝鮮を取り戻したい!」という思いは強く、この運動は朝鮮の歴史に深く刻まれました。
中心人物と名言!柳寛順など英雄の行動を紹介
三一独立運動には、たくさんの勇気ある人物が関わっています。なかでも有名なのが「柳寛順(ユ・グァンスン)」という女子学生です。
彼女はたった16歳で独立運動に参加し、「自分の国のことは自分で決めたい」と叫びながら、デモを先導しました。捕まってからも「朝鮮の独立を願う気持ちは変わりません」と堂々と語り、その姿は多くの人の心を打ちました。
他にも、天道教やキリスト教、仏教の指導者たち33人が「民族代表」として独立宣言を出し、それぞれの宗教のネットワークを使って運動を広めました。彼らの勇気ある行動は、今も韓国で語りつがれており、「朝鮮のジャンヌ・ダルク」とまで称えられた柳寛順の存在は、まさに独立運動の象徴です。
三一独立運動を分かりやすく:結果と今への影響
さて、ここからは「三一独立運動のあと、どうなったのか?」について見ていきましょう。日本の対応や政策の変化、そして現代における評価まで、しっかり押さえておきましょう!
結果はどうなった?運動の終息と朝鮮総督府の変化
三一独立運動は、約2か月にわたって続きましたが、日本の警察や軍による激しい弾圧によって終息してしまいました。
この運動で数千人が死亡し、数万人が逮捕されるという悲惨な結果となりました。しかし、この出来事が日本政府に大きな影響を与えたのです。朝鮮総督府は、それまでの強制的な支配方法である「武断政治(ぶだんせいじ)」を見直し、もっと穏やかな方法で朝鮮を支配しようとしました。
つまり、三一独立運動は「失敗した運動」ではなく、朝鮮人の声が日本の政策を変えた運動でもあったのです。
統治政策が「武断」から「文化」へ移行
三一独立運動をきっかけに、日本は朝鮮に対して「文化政治(ぶんかせいじ)」と呼ばれる新しい方針をとるようになりました。
「武断政治」は、軍や警察を使った力づくの支配でしたが、「文化政治」では、日本語教育を行ったり、日本文化を広めたりすることで、朝鮮人を日本に同化させようとしたのです。
また、新聞や雑誌の発行が一部認められるようになったり、朝鮮人が公務員として働ける機会も少しずつ増えていきました。このように、表向きには「やさしくなった」ように見える文化政治ですが、その目的は「朝鮮人を日本人にすること」だったという点に注意が必要です。
韓国の独立運動の出発点となった意義
三一独立運動は、その場では朝鮮の独立を実現できませんでした。けれど、この運動が与えた影響はとても大きく、その後の朝鮮独立運動のスタート地点となりました。
たとえば、運動後に海外へ逃れた人々は、中国の上海で「大韓民国臨時政府」をつくり、海外からの独立活動を続けました。また、この運動がきっかけで、労働運動や女性の権利運動、青年団体の活動なども活発になっていきました。
つまり、三一独立運動は「朝鮮人の目を覚まさせた運動」と言えるでしょう。
独立への道は遠くても、民族の誇りを取り戻した歴史的な第一歩だったのです。
日本人の反応は?吉野作造・石橋湛山らの主張
三一独立運動が起こったとき、日本の新聞は最初、「暴動」「反乱」などと報じました。しかし、次第に「日本の統治に問題があったのでは?」という意見も出てきます。
とくに、大正デモクラシーをリードした吉野作造(よしのさくぞう)は、朝鮮の人びとにも「政治の自由」が必要だと主張しました。また、のちに首相となる石橋湛山(いしばしたんざん)も、「朝鮮の独立運動を理解しよう」と語っています。
日本国内にも、朝鮮の人びとの気持ちに共感しようとする知識人たちがいたことは、歴史の中でも大切なポイントです。
現在どう評価されている?韓国の祝日「三一節」とは
三一独立運動は、今の韓国にとってとても大切なできごとです。毎年3月1日は「三一節(さんいちせつ)」という国の祝日となっており、全国で記念式典が開かれます。
この日は、戦いの中で命を落とした人たちに感謝し、自由と独立の大切さをあらためて考える日とされています。韓国の学校でも、この運動についてはしっかり教えられており、柳寛順をはじめとする英雄たちは今も尊敬される存在です。
一方、北朝鮮ではこの運動を「失敗した運動」とみなしており、評価は分かれていますが、韓国にとっては、三一独立運動は「国の原点」といえるほど重要な歴史のひとつとなっています。
総括:三一独立運動をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 三一独立運動は、1919年3月1日に朝鮮で起こった日本からの独立を求める大規模な運動。
- 背景には韓国併合と、日本の強制的な統治「武断政治」があり、朝鮮人の不満が高まっていた。
- きっかけは、元皇帝・高宗の死と、ウィルソン大統領の「民族自決」の提唱。
- ソウルのタプコル公園で始まり、600か所以上に広がった平和的なデモが、日本によって弾圧された。
- 柳寛順など若者や宗教指導者が中心となり、命をかけて独立を訴えた。
- 運動は弾圧で終息したが、朝鮮総督府は「文化政治」に転換し、支配方法が変わった。
- 三一独立運動はその後の独立運動や民主化運動の出発点となった。
- 日本の知識人の中には運動を支持・理解した人もいた(例:吉野作造・石橋湛山)。
- 現在の韓国では、3月1日は「三一節」という祝日で、国を挙げて記念行事が行われている。
- 三一独立運動は、韓国にとって国の誇りと原点とされる重要な歴史的事件である。
