今回は「民族自決(みんぞくじけつ)」について、なるべく簡単に、でもしっかりと解説していきます。
歴史の授業で「ウィルソンの十四か条」や「第一次世界大戦後の独立運動」といった言葉と一緒に出てくるこの言葉。「なんとなくわかるけど、説明できるかと聞かれると…」という人も多いと思います。
この記事では、「民族自決って何?」「誰が言い出したの?」「実際どんな国が独立したの?」といった疑問を、ウィルソンの目的や問題点も含めて、まるっと解説していきますよ。
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民族自決とは何か簡単に?意味・由来・歴史
民族自決という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、実際にはどういう意味なのでしょうか?ここでは、「民族自決」が何を指すのか、歴史的背景とともにわかりやすく説明します。
民族自決とは「自分たちの運命を自分たちで決める」こと
まず、「民族自決って何?」という疑問に、一番シンプルに答えましょう。
民族自決とは、ひとつの民族(文化・言語・歴史などを共有する人々)が、「自分たちの国や政府を、自分たちの意思で作るべきだ!」という考え方のことです。つまり、「ほかの国に命令されたくない、自分たちのことは自分たちで決めたい!」ということですね。
これまでの歴史では、強い国が弱い国や民族を支配してきました。民族自決は、そうした支配をやめて、それぞれの民族が自由に生きられるようにしよう、という考え方です。
はじまりはいつ?ルソーからウィルソンまでの流れ
この「民族自決」という考えが最初に現れたのは、フランス革命のころです。
その時代の思想家、ジャン=ジャック・ルソーが「人々は自由に生きるべきだ」と説きました。この考えが、やがて「民族」単位にも広がり、「民族ごとに自由を持とう」という発想になったのです。
さらに時代が進んで、19世紀のヨーロッパでは、イタリアやドイツがバラバラの地域から統一国家をつくる動きがありました。これも「自分たちの国を自分たちで作りたい!」という民族自決の流れのひとつです。
そして、第一次世界大戦が終わるころ、アメリカのウィルソン大統領がこの考えを「世界のルール」にしようとしました。それが有名な「十四か条の平和原則」です。
ウィルソンの十四カ条と民族自決の目的
ウィルソン大統領は、第一次世界大戦が終わった1918年、「十四か条の平和原則」を発表しました。その中で民族自決をはっきりと打ち出しています。
では、なぜウィルソンはこんな提案をしたのでしょうか?
理由のひとつは、ヨーロッパの大国による「帝国」の崩壊です。とくにオーストリア=ハンガリー帝国やオスマン帝国など、いろんな民族を無理やりまとめていた国が戦争で弱くなっていました。そこで、「それぞれの民族に独立させたほうが平和になるだろう」という考え方が生まれたのです。
もうひとつの理由は、ロシア革命で生まれたソビエト(共産主義)への対抗です。東ヨーロッパに新しい国を作って、ソ連との間に「壁」を作るという目的もありました。
民族自決が使われた具体例|どの国が独立した?
ウィルソンの提案を受けて、第一次世界大戦後には、ヨーロッパのいくつかの地域で新しい国が生まれました。
代表的な例をいくつか紹介します。
- ポーランド(ロシア・ドイツ・オーストリアの支配から独立)
- フィンランド(ロシアから独立)
- バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニアもロシアから独立)
- チェコスロバキア(オーストリアから独立)
- ユーゴスラビア(南スラブ系民族が集まって独立)
これらの国々は、ウィルソンの「民族自決」によって認められた新しい国々です。とくに中学・高校の歴史テストでは、これらの国名がよく出てくるので覚えておきましょう。
民族自決の矛盾|アジア・アフリカにはなぜ適用されなかった?
さて、ここで大きな疑問が出てきます。
「なぜアジアやアフリカの国々は独立できなかったの?」
じつは、ウィルソンの民族自決の原則は、ヨーロッパの白人国家にしか本格的には適用されなかったのです。アジア・アフリカの地域、つまり当時の「植民地」だった国々には認められなかったのです。
これに強く反発したのが、朝鮮と中国でした。
- 朝鮮では1919年、「三・一独立運動」が起こります。朝鮮の人々が「日本の支配に反対して、自分たちの国を取り戻そう」とした運動です。
- 中国では同じく1919年、「五・四運動」が発生しました。日本が出した「二十一か条の要求」などへの怒りが爆発したのです。
このように、民族自決の原則がすべての民族に平等に適用されたわけではなかったため、不満や反発が生まれ、後の独立運動のきっかけにもなりました。
民族自決とは何か簡単に:問題点や現代の課題
さて、前半では民族自決の意味や歴史、ウィルソンがこの原則を提唱した理由などを学びました。でも、ここからが本題とも言えます。実は、この「民族自決」という考え方は、良い面だけでなく、たくさんの問題点もかかえているんです。
ここからは、民族自決の難しさや、実際に起きた問題・戦争について、現代の事例も交えながら解説していきますよ。
問題点①「誰が民族か」を決めるのが難しい
まず最初の問題点は、「そもそも、どこまでが一つの民族なのか?」ということです。
たとえば、言葉がちがう?宗教がちがう?顔が似てる?文化がちがう?これらは民族を見分ける目安かもしれませんが、ぜったいの基準ではありません。
また、ひとつの国の中に、たくさんの民族がまじって暮らしていることもよくあります。そうなると、「ここは○○民族の国だ!」と決めるのがとてもむずかしいのです。
これが原因で、「あの地域は私たちの民族の土地だ!」と、複数の民族が主張しあい、対立や争いのきっかけになってしまうのです。
問題点②ナチスやソマリアが利用した「濫用」の歴史
次に紹介するのは、「民族自決」が悪用(=濫用)された歴史です。
たとえばナチス・ドイツのヒトラーは、1930年代に「ズデーテン地方にはドイツ人が多いから、ドイツのものだ!」と主張しました。これも一種の民族自決を口実にした行動です。
また、1960年代のソマリアも、ケニアやエチオピアに住んでいるソマリ人を「うちの民族だから」と主張し、戦争に発展しました。
このように「民族のため」と言いながら、実は戦争の理由に使われてしまうことがあるのです。
問題点③少数民族と国家の対立(現代の民族紛争)
今でも世界中で、民族自決をめぐる争いは続いています。
たとえば旧ユーゴスラビアでは、スロベニア・クロアチア・ボスニアなどの国々が民族ごとに独立しようとして、内戦や大量虐殺が起きました。ルワンダでも、フツ族とツチ族という二つの民族の対立が大きな悲劇を生みました。
最近では、スペインの「カタルーニャ地方」が独立を目指して住民投票を行い、中央政府と大きな対立になりました。
このように、民族自決の考え方は、人々に希望を与える一方で、国家との激しい衝突も引き起こしてしまうことがあるのです。
民族自決と内的自決・外的自決の違い
ここでちょっと専門用語を紹介します。「内的自決」と「外的自決」という言葉です。
- 内的自決とは、「ひとつの国の中で、少数民族が自分たちの文化や言葉を守りながら、政治に参加できるようにする」ことです。つまり「国の中での自治」ですね。
- 外的自決とは、「その国から分かれて、新しい国をつくること」です。これは「独立」を意味します。
現代では、多くの国が「内的自決」なら認めても、「外的自決」=独立は簡単に認めません。国のまとまりがバラバラになるのを恐れているからです。
ただし、その国で人権がまったく守られていなかったり、民族がひどく差別されていたりすると、「外的自決」も正当化される場合があります。
総括:民族自決とは何か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 民族自決の意味:民族が自分たちの政治・運命を自分たちで決めるという考え方。
- 起源:フランス革命のルソーの思想にさかのぼり、19世紀にイタリアやドイツの統一運動へとつながる。
- ウィルソンの提唱:第一次世界大戦後、アメリカのウィルソン大統領が「十四か条」の中で民族自決を国際原則として提唱。
- 独立した国々:ポーランド、フィンランド、バルト三国、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなどが民族自決によって独立。
- 適用の矛盾:民族自決は主にヨーロッパにだけ適用され、アジア・アフリカは除外されていたため、朝鮮や中国で独立運動が起こる(三・一運動・五・四運動)。
- 問題点①:民族の定義があいまいで、どこまでが「民族」か決めにくい。
- 問題点②:ナチスやソマリアが民族自決を口実に戦争や侵略に利用した歴史がある。
- 問題点③:現代でもユーゴスラビア内戦、ルワンダ虐殺、カタルーニャ独立問題などで衝突が続く。
- 内的自決と外的自決の違い:内的自決=国の中での自治、外的自決=国から独立すること。外的自決は原則認められにくい。
- 現代の課題:人権侵害や差別が深刻な場合、「外的自決」も認められることがあるが、国際社会では議論が続いている。
