今回は中国の近代史に出てくる「五四運動(ごしうんどう)」について、やさしく分かりやすく解説していきます。
「なぜ学生が中心だったの?」「どうして起こったの?」といった疑問もすっきり解決できる内容です。
五四運動は、日本とも関係が深く、世界の歴史の流れともつながっています。
それでは、一緒に学んでいきましょう!
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五四運動をわかりやすく解説!起こった理由と背景
五四運動は、中国近代史において重要な転換点を示す出来事です。この運動がどのようにして起こり、なぜ学生たちが中心となったのか、そしてその背景を詳しく解説します。五四運動を理解することで、当時の中国社会や政治の動きをより深く知ることができます。
五四運動とは?1919年に起こった中国の大規模な抗議運動
五四運動とは、1919年5月4日に中国の北京で始まった、大きな抗議運動のことです。この運動の主役は、なんと学生たちでした。北京大学の学生たちが立ち上がり、街でデモ行進を行ったのです。
きっかけは、第一次世界大戦が終わった後に開かれた「パリ講和会議」です。
その会議で、中国の山東(さんとう)省という場所の権利が、日本に渡されることになりました。
これを知った学生たちは、「そんなの不公平だ!」と怒り、行動を起こしたのです。このデモが全国に広がり、労働者や市民も巻き込んだ大きなうねりとなりました。五四運動は、中国の歴史の中でもとても大きな意味を持つ出来事です。
起こった理由は?パリ講和会議と山東省問題がカギ
五四運動が起こった一番の理由は、第一次世界大戦後の「パリ講和会議」で、日本に有利な取り決めがされたからです。
当時、ドイツが中国の山東省に持っていた利権を、日本が手に入れることになりました。「もともと中国の土地なのに、日本に渡るなんておかしい!」と、中国の人々はとても不満を持ちました。
しかも、日本は1915年に「二十一カ条の要求」という、中国にとってとても不利な条件を押しつけていました。このことも中国の人々を怒らせていたのです。
そんな中で、またもや山東省の問題が日本のものになってしまうと知った学生たちは、「今こそ声を上げるときだ!」と思ったのです。つまり、五四運動は、中国の主権(しゅけん)を守ろうとする強い気持ちから生まれたのです。
なぜ学生が中心だったのか?新文化運動と知識人の関係も解説
五四運動で中心になったのは、大学の学生たちでした。なぜ学生だったのでしょうか?
その理由のひとつに、「新文化運動」という流れがあります。これは1910年代の中国で広がっていた、知識人たちの新しい考え方の運動です。新文化運動では、「民主主義」や「科学」を大切にしようという意見が出されました。古い儒教(じゅきょう)の考え方や封建制度(ほうけんせいど)を見直す動きもありました。
この考えに影響を受けた学生たちは、「自分たちが国をよくするために動こう!」という強い思いを持っていたのです。また、新聞や雑誌などを通じて新しい考えが広まり、学生たちはとても意識が高くなっていました。
つまり、知識と正義感を持った若者たちが、自ら国を変えようと立ち上がったのが五四運動だったのです。
流れをわかりやすく!天安門デモから全国拡大までの経過
1919年5月4日、北京の「天安門広場」に集まったのは、3000人以上の学生たちでした。彼らは「山東省の利権を日本に渡すな!」「親日的な政治家をやめさせろ!」と大きな声で訴えました。
学生たちはさらに、親日派の政治家・曹汝霖(そうじょりん)の家を取り囲み、火をつけるなどの行動に出ました。政府は学生たちを逮捕しますが、これが逆に国民の怒りをかう結果になります。
すると、北京以外の都市でもデモが始まりました。やがて商人が「授業をボイコットする」、労働者が「仕事をストライキする」など、全国に運動が広がっていきました。
こうした行動を「三罷(さんぱ)」といいます。つまり、授業・商売・仕事のすべてが止まった大きな社会運動に発展したのです。
「21カ条要求」「ヴェルサイユ条約」なども覚えよう
五四運動を理解するためには、いくつかの大事なキーワードを知っておくことが大切です。テストにも出やすいので、しっかりチェックしましょう。
まずは「二十一カ条の要求」です。1915年に日本が中国に出した不平等な要求で、山東省の利権や鉄道の支配、軍事顧問の受け入れなどが含まれていました。
次に「ヴェルサイユ条約」。これは第一次世界大戦の終結を決める条約で、中国の主張はほとんど認められず、日本に有利な内容となっていました。
また、「国恥記念日(こくちきねんび)」という言葉も重要です。中国の人々が、二十一カ条の要求を受け入れた日や、パリ講和会議での屈辱の日を忘れないように作られた記念日です。
これらのキーワードを押さえておくと、五四運動の背景や意味がよくわかりますよ。
五四運動の影響と意義をわかりやすく!中国社会に与えたインパクト
五四運動は、ただのデモでは終わりませんでした。中国という国の未来を大きく変える「ターニングポイント(転機)」になった出来事です。
ここでは、五四運動が中国にどんな影響を与えたのか、そして今の私たちにとってどんな意味があるのかを見ていきましょう。
中国共産党の誕生と思想的な変化
五四運動の最大の影響の一つは、中国共産党が生まれるきっかけになったことです。
運動を通じて、「民衆が力を合わせて政府を動かすことができる」という成功体験をした人々は、政治に対する関心を強めていきました。そして「もっと平等な社会を目指そう」という考えが広まり、ロシア革命の影響もあって、共産主義の思想が人気になっていきました。
この流れの中で、1921年には「中国共産党(ちゅうごくきょうさんとう)」が結成されます。つまり、五四運動は中国共産党のはじまりと深く関係しているのです。
このように、五四運動は「中国の政治のあり方」そのものを動かした大きな出来事だったのです。
孫文の復活と国民党・共産党の連携へ
五四運動は、孫文(そんぶん)という有名な政治家にも大きな影響を与えました。孫文は、1911年に清(しん)という王朝を倒して中華民国をつくった人ですが、その後は力を失い、日本に亡命していました。
でも、五四運動によって民衆の力を目の当たりにした孫文は、「もう一度やろう!」と立ち上がります。1919年には再び中国で活動を始め、「中国国民党(こくみんとう)」という政治グループをつくりました。
さらに、孫文は「民衆の力を集めて政治を変えよう」と考え、共産党との協力(国共合作)にも前向きになります。このように、五四運動は孫文の復活や国民党と共産党の連携のきっかけにもなったのです。
日本製品不買運動と中国のナショナリズム高揚
五四運動では、単にデモをするだけではなく、具体的な行動もたくさん行われました。その代表的なものが「日本製品の不買運動(にっぽんせいひんのふばいうんどう)」です。
当時の中国では、多くの日本の商品が使われていましたが、五四運動をきっかけに、「日本のものは買わない!」という動きが広まりました。これを「日貨排斥(にっかはいせき)」といいます。
このような行動から、中国の人々の中で「自分たちの国を守ろう!」という気持ち、つまり「ナショナリズム」が強くなっていきました。
ナショナリズムとは、自分の国を大事にし、外国の支配に反対する気持ちのことです。五四運動は、この気持ちを一気に高めた重要な出来事だったのです。
デモ・ストライキで政府を動かした民衆の力
五四運動は、中国の歴史の中で初めて、民衆の力が政府に影響を与えた運動と言われています。
学生がデモをし、市民や労働者がストライキをして、国全体がひとつになって声を上げた結果、政府が政策を変えることになったのです。
これは、当時としてはとても画期的なことでした。
中国政府は最終的に、親日派の政治家を辞めさせ、ヴェルサイユ条約の調印も拒否しました。つまり、民衆の行動が「政治を変えた」という成功体験になったのです。
この経験は、その後の中国の民主化運動や革命運動にも大きな影響を与えました。五四運動は、「声を上げれば社会は変えられる」と中国の人々に教えた歴史的な出来事なのです。
「青年の日」としての現在の意義を紹介
五四運動は、今でも中国でとても大切にされています。中国では、五四運動が起きた5月4日を「青年節(せいねんせつ)」という祝日にして、若者の力をたたえています。
学校や地域では、この日になるとイベントや記念式典が開かれたり、ボランティア活動が行われたりします。「若者こそ未来をつくる力がある!」という考え方が、今でも生き続けているのです。
また、五四運動は「知識を持ち、自分の考えをもって行動することの大切さ」を教えてくれます。これは、現代に生きる私たちにとっても大事な教訓です。
だからこそ、五四運動は100年以上たった今でも、歴史の教科書にしっかりと載っているのですね。
総括:五四運動をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
五四運動の概要と背景
- 五四運動は1919年5月4日に中国の北京で始まった学生中心の抗議運動。
- きっかけは、パリ講和会議で中国の山東省の利権が日本に渡されたこと。
- 学生たちは「不公平だ」と怒り、天安門で大規模なデモを行った。
五四運動が起こった理由
- 第一次世界大戦後、日本は山東省の権益を得た。
- 日本の「二十一カ条の要求」も背景にあり、中国人の不満が高まっていた。
なぜ学生が中心だったのか
- 新文化運動の影響で、学生や知識人が民主主義や科学を重視するように。
- 学生たちは新聞や雑誌を通じて社会問題に敏感だった。
運動の流れと拡大
- 学生のデモは全国に広がり、労働者や商人も巻き込んだ「三罷闘争」に発展。
- 親日派政治家の家を襲撃するなど、抗議は激しさを増した。
覚えておきたいキーワード
- 二十一カ条の要求、ヴェルサイユ条約、国恥記念日などが重要語句。
五四運動の影響と意義
- 中国共産党の誕生に影響。共産主義思想の広がりのきっかけに。
- 孫文が再び政治活動を始め、国民党と共産党の連携が進んだ。
- 日本製品の不買運動など、ナショナリズムが高まった。
- 民衆の力で政府が動かされた「成功体験」となり、社会運動の礎に。
- 現在でも5月4日は「青年節」として記念されている。