こんにちは、塾長です!

今日は、鎌倉幕府の2代目執権、北条義時(ほうじょうよしとき)の死因について、分かりやすく解説していきます。歴史の教科書では「病死」と書かれていますが、実は「毒殺説」もあるんです。

また、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、義時の最期がとてもドラマチックに描かれたことで話題になりましたね。

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「北条義時ってどんな人?」「本当の死因は何?」「最後の様子は?」という疑問を、一緒に考えてみましょう!

北条義時の死因は病死?毒殺?史料から徹底解説

北条義時は、鎌倉幕府の2代目執権として大きな役割を果たしました。しかし、1224年に62歳で亡くなります。

その死因については、大きく分けて2つの説があります。

  1. 病死説(『吾妻鏡』による記録)
  2. 毒殺説(『明月記』に記された噂)

どちらが本当なのか、詳しく見ていきましょう!

北条義時の死因は「病死」説が有力(吾妻鏡の記述)

まずは、「病死説」について見ていきましょう。鎌倉時代の歴史書である『吾妻鏡(あづまかがみ)』には、義時の死因について詳しく書かれています。

義時は1224年6月12日の朝から体調が悪くなり、昼頃には急激に悪化。陰陽師(おんみょうじ)という占い師のような人たちが診断した結果、夜には回復するだろう」と言われたものの、どんどん悪くなってしまいました。そして翌日(6月13日)の午前4時に出家し、その数時間後に亡くなりました。

当時の記録では、義時は「もともと脚気(かっけ)を患っていた」とされ、それに加えて暑さによる体調不良が重なったことが死因だったとされています。現代でいう「夏バテ」や「熱中症」に近いものかもしれませんね。

毒殺説も根強い?『明月記』に記された疑惑

一方で、「毒殺説」もあります。これは、鎌倉時代の貴族・藤原定家(ふじわらのていか)が書いた『明月記』という日記に記されているものです。

その記録の中に、「義時の妻(伊賀の方)が義時に毒を盛った」という噂が書かれています。しかも、毒を使った理由として「義時の後継者を自分の子ども(政村)にしたかったから」という話まで出てきます。

ですが、『明月記』はあくまで日記であり、公式な歴史書ではありません。また、他の史料には毒殺の証拠となるような記述がないため、本当に毒殺されたかどうかは分かりません。単なる噂話の可能性もあるのです。

なぜ毒殺説が広まったのか?NHK大河ドラマの影響も

毒殺説が特に有名になった理由の一つは、2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の影響です。このドラマでは、義時の後妻・伊賀の方が夫を毒殺するシーンが描かれました。

歴史ドラマでは、史実に基づきながらも、ドラマとしての面白さを出すためにフィクションが加えられることがよくあります。つまり、「大河ドラマで見たからといって、それが史実とは限らない」のです。

とはいえ、この説が広まったのは事実。義時の人生がそれだけドラマチックで、多くの人の関心を引いたということですね。

陰陽師も頼った!?当時の医療と祈祷の実態

義時の体調が悪くなったとき、現代のように病院で診察を受けることはできませんでした。そのため、陰陽師(おんみょうじ)と呼ばれる人たちが占いや祈祷(きとう)を行って、病気を治そうとしました。

実際に行われたのは次のような儀式です。

  • 「天地災変祭(てんちさいへんさい)」:天変地異(てんぺんちい)を防ぐための祈り
  • 「三万六千神祭(さんまんろくせんしんさい)」:災いを取り除くための儀式
  • 「属星祭(ぞくしょうさい)」:生まれた星の影響を鎮めるお祈り

しかし、これらの祈祷を行ったにもかかわらず、義時の病状は回復しませんでした。現代の医療から考えれば、「病気には薬や治療が必要」というのは当たり前ですが、当時は「祈りや呪術(じゅじゅつ)で病を治せる」と信じられていた時代でした。

北条義時の死因は結局どちら?歴史学的な見解

それでは、北条義時の死因は「病死」なのでしょうか? それとも「毒殺」だったのでしょうか?

現在の歴史学者の多くは、『吾妻鏡』に記された「病死説」を有力視しています。理由としては、次のような点が挙げられます。

  • 『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式記録であり、信頼性が高い
  • 『明月記』の毒殺の記述は、単なる噂にすぎない可能性がある
  • 義時の死後、妻・伊賀の方は流罪となったが、それは毒殺のせいではなく、政変(伊賀氏の変)に関与したため

もちろん、「絶対に毒殺ではない」と断言することはできません。しかし、現在の研究では「病死説」が最も有力とされています。

北条義時の死因の後に:最期の様子や何をした人か

北条義時は、鎌倉幕府を支えた重要な人物の一人です。その最期はどのようなものだったのか、そして彼が歴史にどんな影響を与えたのかを見ていきましょう。

北条義時の最期の様子とは?

北条義時は1224年6月12日に病を発症し、翌日の午前10時頃に亡くなりました。
死の直前の様子をまとめると、次のようになります。

  1. 6月12日午前8時ごろ:体調が悪化し、陰陽師による占いが行われる。
  2. 6月12日夜:快復するはずだったが、逆に容態が悪化。
  3. 6月13日午前4時:出家して最期を覚悟する。
  4. 6月13日午前10時ごろ:息を引き取る(享年62歳)。

この時、義時は念仏を唱えながら最期を迎えたと言われています。彼は「自分の運命を受け入れる」という心境だったのかもしれません。

義時の死後に起こった「伊賀氏の変」とは?

北条義時が亡くなった直後、幕府内部では大きな政変が起こりました。それが「伊賀氏の変」です。

この事件の背景には、義時の後妻・伊賀の方の存在がありました。彼女は、自分の息子・政村を執権にしようと考えましたが、それを阻止しようとした義時の長男・北条泰時(ほうじょうやすとき)との間で対立が起こったのです。

結果として、伊賀の方は失脚し、伊豆へ流罪となりました。

これにより、北条氏の権力は泰時へと引き継がれ、鎌倉幕府の安定につながったのです。

北条義時はどんなことをした人?

北条義時は、鎌倉幕府の2代目執権として、様々な功績を残しました。彼の重要な役割を見ていきましょう。

1. 承久の乱(じょうきゅうのらん)を指揮

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が鎌倉幕府を倒そうとした戦い「承久の乱」(1221年)では、義時は幕府軍を指揮し、見事に勝利しました。この結果、朝廷の力が大きく弱まり、幕府の権力がさらに強まりました。

2. 幕府の仕組みを整えた

義時は、鎌倉幕府の政治を安定させるため、さまざまな制度を整えました。そのおかげで、北条氏の支配がしっかりとしたものになったのです。

3. 幕府内のライバルを排除

義時は、自分の権力を守るため、源頼家(よりいえ)や源実朝(さねとも)など、将軍家の人々を排除していきました。その結果、幕府の実権は北条氏のものとなり、「執権政治(しっけんせいじ)」が確立しました。

北条義時の墓はどこにある?

北条義時の墓は、鎌倉市内の「法華堂跡(ほっけどうあと)」にあるとされています。

この場所は、源頼朝(みなもとのよりとも)の墓のすぐ近くにあり、2005年には遺跡の発掘調査が行われました。その結果、義時の墓と考えられる遺構が発見されたのです。

また、義時と伊賀の方の墓が、静岡県伊豆の国市にある「北條寺(ほうじょうじ)」にも存在します。歴史ファンにとっては、一度訪れてみたい場所ですね。

総括:北条義時の死因まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

1. 北条義時の死因について

  • 病死説(有力):鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』によると、義時は 脚気(かっけ) を患い、夏の暑さによる体調不良が重なり、1224年6月13日に亡くなった(享年62歳)。
  • 毒殺説:貴族・藤原定家の日記『明月記』には、「義時の妻(伊賀の方)が毒を盛った」という噂が記録されているが、証拠はなく、単なる憶測の可能性が高い。
  • 現在の歴史学では「病死説」が有力視されている。

2. 義時の最期の様子

  • 6月12日午前8時:体調が急変し、陰陽師が占う。
  • 6月12日夜:容態が悪化し、快復せず。
  • 6月13日午前4時:出家して最期を覚悟。
  • 6月13日午前10時ごろ:亡くなる。

※義時は 念仏を唱えながら静かに最期を迎えた とされる。

3. 義時の死後に起こった「伊賀氏の変」

  • 義時の後妻・伊賀の方が 自分の息子・政村を執権にしようと画策
  • 長男・北条泰時と対立し、最終的に 伊賀の方は流罪に
  • この政変の結果、泰時が執権となり、北条氏の権力基盤が強固になった。

4. 北条義時が果たした役割・功績

  1. 承久の乱(1221年)を指揮 → 幕府軍を勝利に導き、朝廷の力を大きく弱めた。
  2. 幕府の仕組みを整備 → 政治を安定させ、北条氏の支配を確立。
  3. 幕府内のライバルを排除 → 源頼家・源実朝など将軍家の人々を次々と排除し、北条氏の実権を確立(執権政治の始まり)。

5. 北条義時の墓

  • 神奈川県鎌倉市の「法華堂跡」 にあるとされる(源頼朝の墓の近く)。
  • 静岡県伊豆の国市の「北條寺」にも、義時と伊賀の方の墓がある。