今回は「吉野作造(よしのさくぞう)ってどんな人?」という疑問に答えていきます。
歴史の教科書にも出てくる名前ですが、なんとなく「民本主義(みんぽんしゅぎ)を唱えた人」というイメージだけの人も多いのではないでしょうか?でも、吉野作造は日本の政治の考え方を大きく変えるきっかけを作った、すごい人物なんです。
この記事では、吉野作造が何をした人なのか、なぜ彼が「日本の民主主義の父」と呼ばれるのかを、やさしく・わかりやすく解説していきます!
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吉野作造は何した人か簡単に!大正デモクラシーの中心人物
吉野作造は、民本主義を唱え、大正時代の日本の政治を大きく変えた人物です。彼の考え方は、今の民主主義の基盤にも影響を与えました。ここでは、吉野作造が何をした人なのか、わかりやすく解説します。
「民本主義」を唱えた人!思想の意味をわかりやすく説明
吉野作造が何をしたかというと、いちばん有名なのが「民本主義」という考え方を広めたことです。民本主義とは、簡単に言うと「政治はえらい人のためじゃなくて、国民みんなの幸せのためにやるべきだ!」という考え方です。
この「民本主義」は、1916年に吉野が発表した論文『憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず(けんせいのほんぎをといて そのゆうしゅうのびをなすのみちをろんず)』で紹介されました。名前はむずかしいですが、言っていることはシンプル。「国民の意見を大切にしよう」ということです。
当時の日本では、天皇を中心に少数のえらい人たち(藩閥や官僚)が政治を動かしていて、ふつうの人たちはほとんど政治に関われませんでした。そんな中、吉野作造は「みんなの声を聞こうよ!」と声を上げたんですね。
「普通選挙の実現」を目指した政治学者
民本主義の考えを広めるなかで、吉野作造がとくに力を入れたのが「普通選挙」の実現です。普通選挙とは、かんたんに言うと「大人の男ならだれでも選挙に参加できる」という制度です。
当時の日本では、税金をたくさん払っている一部のお金持ちしか選挙に参加できませんでした。つまり、国の未来を決めるはずの選挙に、ほとんどの人は関わることができなかったのです。これに対して吉野は「それはおかしい!みんなが意見を出せる国にしよう!」と主張したのです。
この考えは多くの人たちに支持され、大正時代には普通選挙を求める運動が広がっていきました。吉野作造の活動はその中心にあり、1925年にようやく「普通選挙法」が成立するという大きな成果につながります。
「中央公論」で民本主義を発表し時代を動かす
吉野作造は、ただ大学の先生として研究していただけではありません。自分の考えを多くの人に知ってもらうために、当時有名だった雑誌『中央公論(ちゅうおうこうろん)』にたくさんの文章を載せました。
そのなかでも特に有名なのが、さきほど紹介した『憲政の本義~』という論文です。この論文が載ったことで、吉野の名前は一気に全国に知られるようになり、「民本主義」という新しい考え方も広がっていきました。
ふつうの人たちに向けて、わかりやすい言葉で政治を語った吉野の文章は、多くの人たちの心を動かしました。「政治はむずかしいものじゃない。みんなが関わるべきものだ」というメッセージが、多くの人に届いたのです。
「言論の自由」を守るため右翼とも戦った人物
吉野作造は、考えを自由に言える「言論の自由」をとても大事にしていました。でもその考えが気に入らない人たち、特に右翼(うよく)と呼ばれる保守的な考えの人たちから、攻撃されることもありました。
たとえば「白虹事件(はっこうじけん)」と呼ばれるできごとでは、吉野が書いた文章に対して、右翼の人たちが怒って暴力をふるいました。それでも吉野はひるまず、公開の場で討論を行い、多くの人々の前で堂々と自分の考えを述べたのです。
この姿勢は、学生や知識人のあいだで大きな支持を集め、「勇気ある学者」として尊敬されました。吉野作造は、政治だけでなく、「自由にものが言える社会をつくる」ためにも尽力していたのです。
キリスト教に基づく人格主義でも知られる思想家
吉野作造は、若いころからキリスト教の教えにふれて育ちました。そのため、「人の価値はお金や地位じゃなくて、その人の人格(人間性)にある」という考え方を大切にしていました。これを「人格主義」といいます。
吉野は「人格をみがくことこそが、よりよい社会をつくる力になる」と考え、教育や福祉活動にも力を入れました。とくに、貧しい人たちや病気の人たちを助けるための施設づくりに関わったり、自分自身で講演を行って社会への理解を広めようとしました。
「政治だけでなく、人としてどう生きるべきか」を語り続けた吉野の考え方は、今でも多くの人に影響を与えています。
吉野作造は何した人か簡単に:民本主義とはどんな思想か
さて、ここからは吉野作造が唱えた「民本主義」について、もう少しくわしく見ていきましょう。「民主主義」とはちがうの?どうして「民本主義」という言葉を使ったの?と思う人もいるはずです。
ここでは、民本主義の意味や民主主義との違い、大正時代の時代背景まで含めて、しっかりと解説していきます。
民本主義とは「民衆のための政治」を目指す考え方
民本主義とは、「国民のために政治を行うべきだ!」という考え方です。つまり、「えらい人が勝手に決める政治」ではなく、「国民の生活や意見を大切にする政治にしよう」という主張です。
この考えは、大正時代の日本ではとても新しかったのです。当時の日本は、天皇が政治の中心にいて、限られた人だけが選挙に参加できました。そんな中、吉野作造は「もっと多くの人が政治に関わるべきだ」と言いました。
民本主義では、主権(政治の一番大きな権限)がどこにあるかをハッキリ言いませんが、「政治の目的は民衆の幸福」として、人々のために政治をするべきだと主張したのです。
民本主義と民主主義の違いは「主権の所在」
「民本主義」と「民主主義」、どちらも国民のことを考える政治のように見えますが、実は大きな違いがあります。その違いは「主権(しゅけん)がどこにあるか」です。
民主主義では、「主権は国民にある」とハッキリ言います。つまり、国民が国のルールや政治の中心にいるという考え方です。これは、欧米の国々で広まっていた「国民主権」の考えです。
一方、民本主義では、「主権は天皇にある」とする当時の日本の憲法に合わせて、あえて主権の話は避けています。主権は天皇のままでよいけれど、「政治のやり方」は民衆のためにするべきだと考えたのです。
このように、民本主義は、日本の憲法に合ったかたちで民主的な政治を進めようとした知恵ともいえるのです。
「民本主義」と名付けた理由:天皇制との関係
吉野作造が「民本主義」という言葉を使った理由は、日本の当時の憲法との関係があります。明治時代の憲法では「天皇が国の主(あるじ)」とされていて、「民主主義=国民が主権を持つ」という考えは合わなかったのです。
もし「民主主義」と言ってしまえば、「天皇の力を否定するのか?」と問題になってしまいます。そこで吉野は、「国民が主権を持つ」とは言わず、「国民のために政治をするべき」という考えを伝えるために、あえて「民本主義」という言葉を使いました。
つまり、「主権は天皇のままでもいいけど、政治の運び方は国民が中心になるべきだよ」という、当時としてはとても賢くて、現実的な主張だったのです。
「大正デモクラシー」とは何か
吉野作造の民本主義は、「大正デモクラシー」という時代の流れを支える大きな柱になりました。大正デモクラシーとは、大正時代に広がった「国民が政治に参加すべきだ!」という民主的な考えや運動のことです。
この時期には、選挙にもっと多くの人が参加できるようにしようという「普通選挙運動」や、政治をえらい人たちの独占から取り戻そうという「護憲運動」などが活発になりました。
吉野の考えは、大学の教室だけでなく、新聞や雑誌を通して社会全体に広がり、若者たちや知識人にとても支持されました。結果として、1925年には「普通選挙法」ができ、日本の政治は一歩大きく前進したのです。
総括:吉野作造は何した人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 吉野作造は「民本主義」を唱えた政治学者で、日本の民主主義に大きな影響を与えた人物です。
- 民本主義とは「政治は国民の幸福のために行うべきだ」という考え方です。
- 吉野は「普通選挙の実現」を目指し、多くの人が選挙に参加できるよう運動しました。
- 有名な論文「憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」で民本主義を広めました。
- 雑誌『中央公論』などを通じて、わかりやすい言葉で民本主義を国民に伝えました。
- 言論の自由を守るため、右翼からの攻撃にも屈せず堂々と議論しました。
- キリスト教の影響を受け、「人格主義」に基づく人間中心の思想を持っていました。
- 民主主義とは違い、民本主義では「主権は天皇にある」ことを前提としつつ民意を重視しました。
- 民本主義は、大正デモクラシーの理論的な柱として、多くの社会運動に影響を与えました。
- 1925年に普通選挙法が成立するなど、吉野の考えは日本の政治に大きな成果を残しました。