「北条泰時って何をした人?」と聞かれたら、あなたは答えられますか?

鎌倉時代に活躍した彼は、武士のための法律を作り、幕府の政治を大きく変えた重要な人物です!歴史の授業やテストでよく出てくる「御成敗式目」や「承久の乱」も、実は北条泰時と深く関係があります。

この記事では、そんな北条泰時の功績を分かりやすく解説します!

北条泰時がしたこととは?何をした人か詳しく解説!

北条泰時は、鎌倉幕府の3代執権(しっけん)として、幕府を安定させるために数々の改革を行いました。

では、彼のしたことを詳しく見ていきましょう!

北条泰時はどんな人?プロフィールを簡単に解説

北条泰時(ほうじょうやすとき)は、1183年に生まれました。父は2代執権・北条義時(よしとき)で、鎌倉幕府の中でも重要な家柄の出身です。

幼少期の泰時は、源頼朝(みなもとのよりとも)からも可愛がられていました。『吾妻鏡』という歴史書には、「泰時は聡明で、公平な心を持っていた」と記録されています。

1194年には元服(大人の仲間入りをする儀式)をし、頼時(よりとき)という名前をもらいます。しかし、その後「泰時」と改名しました。

泰時は、武士が正しく政治を行うためのルールを作ったり、戦争で活躍したりと、大きな功績を残しました。では、彼が何をしたのか詳しく見ていきましょう!

北条泰時が確立した鎌倉幕府の合議制とは?

泰時が執権になった頃、幕府の政治は「独裁」に近い状態でした。しかし、泰時は「一人の考えではなく、みんなで話し合って決めるべきだ!」と考えました。

そこで、彼は 「評定衆(ひょうじょうしゅう)」 という会議の仕組みを作ります。評定衆とは、幕府の有力な御家人(武士)たちが集まって、重要なことを決める会議です。また、執権を補佐する「連署(れんしょ)」という役職を新設しました。最初の連署には、叔父の北条時房(ほうじょうときふさ)が選ばれました。

これらの制度によって、鎌倉幕府は一人の独裁ではなく、武士たちが話し合って決める「合議制(ごうぎせい)」へと変わりました。この仕組みは、その後の鎌倉幕府を長く支えることになります。

北条泰時の最大の功績「御成敗式目」

「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」は、日本で初めて作られた武士の法律です。

鎌倉時代には、武士たちが土地を巡って争うことが多く、ルールが曖昧でした。そこで、泰時は「武士の裁判の基準をはっきりさせよう!」と考え、1232年に「御成敗式目」を作りました。

この法律では、以下のようなことが定められました。

✅ 武士の間で起きた争いの解決方法
✅ 土地の所有権の決め方
✅ 武士としての道徳(正しい行い)

「御成敗式目」は武士の社会に大きな影響を与え、のちの江戸時代まで使われました。これは、泰時がどれほど優れた政治家だったかを示しています。

承久の乱での北条泰時の活躍

1221年に起こった「承久の乱(じょうきゅうのらん)」は、朝廷(京都)と鎌倉幕府の大きな戦いでした。

この戦いでは、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が「幕府を倒そう!」と兵を集め、北条義時を討とうとしました。これに対し、泰時は鎌倉幕府の軍を率いて京都へ向かいます。

泰時は宇治川の戦いで勝利し、そのまま京都を制圧。戦いの結果、後鳥羽上皇は隠岐(おき・現在の島根県)へ流され、幕府の力がさらに強まりました。

また、この戦いの後、泰時は京都に「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を設置し、朝廷を監視する体制を作りました。こうして、幕府の力は確固たるものとなったのです。

北条泰時が築いた鎌倉の都市整備とは?

泰時は、政治だけでなく、鎌倉という都市を発展させることにも力を入れました。

その代表的なものが 「和賀江島(わかえじま)」 という人工の島です。これは、日本で最も古い港の一つで、船が安全に荷物を運べるように作られました。

また、鎌倉の道路も整備し、人々が安全に移動できるようにしました。例えば、

✅ 「六浦道(むつらみち)」:鎌倉と六浦(横浜市)を結ぶ道
✅ 「巨福呂坂(こぶくろざか)」:鎌倉から山を越えて北へ行く道

さらに、泰時は都市の治安維持にも努めました。例えば、僧兵(武装した僧侶)による暴力行為を禁止し、鎌倉の町を平和に保ちました。こうした整備のおかげで、鎌倉はますます発展し、多くの人が暮らしやすい街になっていきました。

北条泰時がしたことの後に:人物像と後世への影響

北条泰時は、政治の仕組みを整えるだけでなく、武士としての生き方を示した人物でもあります。ここでは、彼の性格や面白いエピソード、そして後世に与えた影響について詳しく見ていきましょう。

北条泰時の性格とは?公正で誠実なリーダー

北条泰時は、公平で優しい性格の持ち主だったと言われています。歴史書『吾妻鏡』には、彼の性格を示すエピソードがいくつも記録されています。

例えば、源頼朝が御家人を罰しようとしたとき、幼い泰時は「主君の怒りにまかせて罰を与えるのはよくない」と頼朝に進言しました。この勇気ある行動に頼朝は感心し、泰時に刀を与えたと言われています。

また、泰時は権力を独占せず、みんなで話し合って決める「合議制」を導入しました。これは、彼が「自分だけが偉くなるのではなく、みんなが納得する政治をするべきだ」と考えていたからです。

公正なリーダーとしての泰時の姿勢は、武士たちから尊敬され、彼の政治が安定した理由の一つとなりました。

北条泰時にまつわる面白い逸話!

泰時には、多くの面白い逸話があります。特に有名なものを紹介しましょう。

「蹴鞠(けまり)好きの将軍を諫めた」
将軍・源頼家が蹴鞠に夢中になっていた時、泰時は「大雨で庶民が困っているのに、蹴鞠をしている場合ではありません」と諫めました。頼家はこれに怒り、泰時を伊豆へ帰らせましたが、その後泰時の行動が正しかったと評価されました。

「人工島・和賀江島を作った!」
鎌倉の港が遠浅で使いにくかったため、泰時は和賀江島という人工島を築きました。これは日本最古の人工港として知られています。

「天皇の即位に関与!」
1242年、四条天皇が亡くなった時、幕府は順徳天皇の子・忠成王の即位を阻止し、代わりに土御門上皇の子を後嵯峨天皇として即位させました。これは、幕府が朝廷に影響を与える力を持っていたことを示す出来事でした。

このように、泰時は武士のためだけでなく、庶民の生活や国全体の政治にも深く関わっていた人物だったのです。

北条泰時の死因は?怨霊に呪われた?

1242年、北条泰時は60歳で亡くなりました。死因は病気(赤痢や過労とされる)ですが、当時の人々は「後鳥羽上皇の怨霊に呪われた」と噂しました。

なぜそんな話が出たのかというと、承久の乱で後鳥羽上皇を流罪にしたのが泰時だったからです。ちょうど彼が亡くなったのが、後鳥羽上皇が流された6月15日と同じ日だったため、「上皇の恨みが泰時を襲ったのでは?」と考えられたのです。

しかし、実際には泰時の晩年は多忙を極めており、体力的に限界だった可能性が高いとされています。

テストに出るポイント!語呂合わせで覚えよう!

北条泰時に関する出来事は、歴史のテストでもよく出題されます。そこで、語呂合わせを使って楽しく覚えましょう!

「御成敗式目 → いつも(1232)公正な武士のルール」
「承久の乱 → いつに(1221)も負けない幕府軍」
「六波羅探題設置 → いつに(1221)も見張るぞ朝廷」

このように、年号と出来事をセットで覚えるとテストでもすぐに思い出せます!

また、頻出キーワードとして「評定衆」「連署」「御成敗式目」などをしっかり押さえておきましょう。

北条泰時の功績が後世に与えた影響

泰時が作った「合議制」や「御成敗式目」は、彼の死後も長く続きました。特に、御成敗式目はその後の幕府政治において基本となる法律として使われ、江戸時代に至るまで影響を与えました。

また、泰時の「公平な政治をするべきだ」という考え方は、後の執権たちにも受け継がれました。

室町幕府(足利尊氏の時代)でも、泰時の合議制を参考に政治を行った
江戸幕府では、御成敗式目が「武家法」の原型となった

つまり、泰時が築いた政治の仕組みは、数百年にわたって日本の歴史を支えたのです。

総括:北条泰時がしたことまとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

鎌倉幕府の3代執権として政治を安定させた
「合議制」を導入し、独裁ではなく話し合いで政治を行う仕組みを確立
 → 評定衆(ひょうじょうしゅう) を設置し、御家人たちと協議する体制を作った
 → 連署(れんしょ) を設け、執権を補佐する仕組みを整えた

日本初の武士の法律「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を制定(1232年)
 → 武士の間の争いや土地の所有権などを明確化し、公正な裁判を実現

承久の乱(1221年)で鎌倉幕府軍を率いて勝利し、幕府の権威を確立
 → 宇治川の戦いで後鳥羽上皇の軍を破り、京都を制圧
 → 朝廷を監視する「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を設置

鎌倉の都市整備を進め、物流を円滑にするため「和賀江島(わかえじま)」という人工島を築いた

治安維持のため、僧兵の暴力行為を禁止し、街の秩序を守った

1242年に死去(享年60)。死因は病気(赤痢・過労など)とされるが、「後鳥羽上皇の怨霊によるもの」という噂もあった

彼の政治改革は後世の室町幕府・江戸幕府にも影響を与えた
 → 御成敗式目 は江戸時代まで武家法の基礎として使われた
 → 合議制 は後の幕府政治にも取り入れられた

テストでよく出る語呂合わせ
 ・「御成敗式目 → いつも(1232)公正な武士のルール」
 ・「承久の乱 → いつに(1221)も負けない幕府軍」
 ・「六波羅探題設置 → いつに(1221)も見張るぞ朝廷」