みなさん、こんにちは!今日は戦国時代の武将、柴田勝家(しばた かついえ)についてお話しします。
織田信長(おだ のぶなが)の家臣として活躍し、「鬼柴田」と呼ばれるほどの勇猛な武将でした。しかし、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)との戦いに敗れ、壮絶な最後を迎えました。
「柴田勝家の最後ってどうだったの?」「お市の方も一緒に亡くなったの?」という疑問を持っている人も多いでしょう。
本記事では、柴田勝家の死因や、戦国時代ならではのドラマチックな最期について、塾長が分かりやすく解説していきます!
柴田勝家の最後は切腹?死因や壮絶な最期を解説

では早速、柴田勝家の最後について解説していきます。
柴田勝家の死因は切腹!賤ヶ岳の戦いで敗れた後の決断
柴田勝家の死因は「切腹」でした。
彼は、織田信長の家臣として長年仕えましたが、本能寺の変の後、信長の後継者をめぐって羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と対立しました。そして「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」で敗れ、逃げ込んだ北ノ庄城(きたのしょうじょう)で自害したのです。
勝家は秀吉軍に完全に包囲され、もはや助かる見込みはありませんでした。しかし、彼はただ降伏するのではなく、最期まで武士としての誇りを貫きました。戦国時代の武将にとって、敵に捕まるよりも自ら命を絶つことが名誉とされていたのです。
彼は自らの左脇腹に刀を突き立て、右脇まで切り裂きました。さらに、刀を返して胸から下腹部に向かって縦に切り裂く「十文字切腹(じゅうもんじせっぷく)」を行ったと伝えられています。これは非常に苦しい死に方であり、壮絶な最期だったといえるでしょう。
お市の方も自害!最後の夫婦の決断とは
柴田勝家の妻、お市の方(おいちのかた)も、彼と運命を共にしました。お市の方は、もともと織田信長の妹であり、浅井長政(あざい ながまさ)に嫁いでいました。しかし、長政が信長に滅ぼされると、彼女は3人の娘とともに柴田勝家のもとへ嫁ぎました。
賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家は、お市の方に「子どもたちと一緒に城を脱出するように」と勧めました。
しかし、お市の方は「私はあなたと最後まで一緒です」と言い、城を出ることを拒みました。そして、3人の娘(茶々・初・江)を秀吉のもとへ送り届けた後、勝家とともに自害しました。
お市の方の辞世の句(じせいのく)として、次のような歌が残されています。
「さらぬだに うちぬるほども 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな」
意味は、「寝ているときに夢を見るように、私の人生もはかなく終わる。ほととぎすよ、どうか私の名を後世に伝えてほしい」というものです。戦国時代の女性として波乱万丈な人生を歩んだお市の方の思いが込められています。
勝家の最後は武士の誇り?秀吉を恨んだのか
柴田勝家は、最後の最後まで秀吉を憎んでいたのでしょうか?実は、勝家は「裏切られても恨まない」性格だったと言われています。
賤ヶ岳の戦いでは、勝家の家臣である前田利家(まえだ としいえ)が戦の途中で勝家を見捨て、秀吉側に寝返りました。これによって勝家の軍は総崩れとなりました。しかし、勝家は前田利家を責めることなく、むしろ「秀吉に降伏するように」と勧めたといいます。
また、勝家の死後、北ノ庄城の周辺では「首なしの武者行列」が目撃されたという伝説が生まれました。これは、地元の人々が勝家の無念を感じ、秀吉を憎んだからこそ生まれた話なのかもしれません。
北ノ庄城の落城と柴田家の滅亡
柴田勝家が自害した北ノ庄城は、現在の福井県にありました。この城は、勝家が織田信長から与えられた領地を守るために築いた要塞でした。しかし、賤ヶ岳の戦いに敗れた勝家にとって、もはや城に残された道は「死」しかありませんでした。
秀吉の軍勢が城を取り囲む中、勝家は最後の酒宴を開きました。これは、戦国武将が自害する前に行う習慣の一つです。彼は家臣たちと酒を飲みながら、まるで何事もないかのように過ごしました。しかし、これは「最後まで平然としていたい」という勝家の気持ちの表れだったのです。
城が完全に陥落すると、勝家とお市の方は自害し、柴田家は滅亡しました。そして、勝家の遺体は介錯(かいしゃく:切腹した人の首を落とす役目)を務めた家臣によって、その場で火薬とともに爆破されたとも伝えられています。
柴田勝家の辞世の句に込められた意味
柴田勝家は、切腹する前に辞世の句を残しました。
「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
この意味は、「夏の夜に見る夢のように、私の人生もあっという間だった。ほととぎすよ、どうか私の名を後世に伝えてくれ」となります。
戦国時代は、どれだけ力を持っていても、一瞬で滅びる世界でした。信長の忠臣として生きた勝家も、秀吉という新たな天下人の前では太刀打ちできませんでした。しかし、最後まで武士としての誇りを貫いた彼の生き様は、後世の人々の記憶に残るものとなりました。
柴田勝家の最期が与えた影響とお市の方の子どもたち

柴田勝家の死は、戦国時代の勢力図に大きな影響を与えました。また、お市の方が残した三姉妹(茶々・初・江)は、後に日本の歴史の重要な人物となります。
ここでは、勝家の死後の影響について詳しく解説します。
柴田勝家の死後:豊臣秀吉が天下統一へと進む
柴田勝家の死は、豊臣秀吉にとって大きな勝利でした。信長亡き後、織田家の後継者争いは、柴田勝家と秀吉の二大勢力による戦いとなりましたが、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れたことで、秀吉の勢いは誰にも止められなくなりました。
その後、秀吉は全国の戦国大名を次々と従え、1590年には小田原征伐を成功させて日本を統一します。もし賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が勝っていたら、日本の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
また、秀吉は勝家が治めていた北陸地方を手に入れ、これを基盤にして大阪城を築きます。これにより、豊臣政権が盤石なものとなったのです。
お市の方の子どもたちの運命とは?
柴田勝家とともに自害したお市の方ですが、彼女の三人の娘は秀吉によって保護されました。彼女たちは後に日本の歴史において重要な役割を果たします。
- 茶々(ちゃちゃ)
→ 豊臣秀吉の側室となり、後の豊臣秀頼(とよとみ ひでより)を生む。
→ 豊臣家の滅亡の際、大坂城で自害。 - 初(はつ)
→ 京極高次(きょうごく たかつぐ)に嫁ぎ、江戸時代まで生き延びる。 - 江(ごう)
→ 徳川秀忠(とくがわ ひでただ)と結婚し、徳川家光(とくがわ いえみつ)の母となる。
→ 徳川幕府の基盤を築く重要な役割を果たす。
お市の方の娘たちは、それぞれ異なる道を歩みましたが、戦国時代の大きなうねりの中で生き抜いた女性たちでした。特に三女の江は、徳川将軍家と結びつき、江戸時代の礎を築くことになります。
柴田勝家の「首なし武者行列」伝説とは?
柴田勝家が自害した北ノ庄城の近くでは、長年「首なし武者行列」の伝説が語り継がれています。この伝説によると、4月24日の丑三つ時(深夜2時頃)、足羽川(あすわがわ)に架かる九十九橋(つくもばし)付近に、首のない武士たちの行列が現れると言われています。
この武者行列は、勝家とその家臣たちの霊が成仏できず、毎年その日になると現れるとされています。特に、橋を架け替える前は多くの目撃談があったといいますが、現在では見ることが少なくなりました。
このような伝説が生まれたのは、地元の人々が柴田勝家の死を悼み、彼を敬っていたからかもしれません。戦国時代の武将の最期は、単なる歴史の一幕ではなく、人々の心に深く刻まれた出来事だったのです。
柴田勝家の家紋と「かかれ柴田」の由来
柴田勝家は、家紋として「丸に二つ雁金(まるにふたつかりがね)」を使用していました。雁(がん)は渡り鳥であり、忠誠心の象徴ともされていました。まさに信長への忠義を貫いた勝家にふさわしい家紋といえるでしょう。
また、柴田勝家には「かかれ柴田」という異名があります。これは、戦場で常に先陣を切り、「かかれ!」と突撃を命じていたことから名付けられたものです。戦国時代には、武将の戦いぶりを表す言葉が多くありましたが、「かかれ柴田」はその勇猛さを象徴するものとなりました。
柴田勝家の辞世の句が語るもの
勝家が自害する際に詠んだ辞世の句は、次のようなものです。
「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」
この句には、「私の人生は夏の夜の夢のように短くはかないものだった。しかし、私の名は後世に語り継がれてほしい」という願いが込められています。
戦国時代の武将は、自らの死を前にしても、誇り高く辞世の句を詠むことが一般的でした。勝家もまた、自らの名を歴史に刻もうとしたのです。そして実際に、彼の名は現代まで語り継がれています。
総括:柴田勝家の最後まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- 柴田勝家の最後:織田信長の家臣として活躍し、豊臣秀吉と対立。賤ヶ岳の戦いで敗れ、北ノ庄城で自害。
- 死因は切腹:十文字に切腹し、武士としての誇りを貫いた。
- お市の方も自害:勝家とともに最期を迎える決意をし、3人の娘(茶々・初・江)を秀吉に託す。
- 秀吉との関係:勝家は秀吉を恨まず、むしろ前田利家に秀吉への降伏を勧める。
- 北ノ庄城の落城:勝家は最期の酒宴を開いた後に自害し、柴田家は滅亡。
- 辞世の句:「夏の夜の夢のように、人生は儚かったが、名は後世に残るよう願う」と詠む。
- 勝家の死後の影響:秀吉が天下統一への道を進み、日本の歴史が大きく変わる。
- お市の方の娘たちの運命:茶々は豊臣秀吉の側室、初は京極家へ、江は徳川家康の家系に嫁ぎ、歴史の重要人物となる。
- 首なし武者行列の伝説:勝家と家臣たちの霊が北ノ庄城周辺で目撃されたとされる。
- 「かかれ柴田」の由来:勇猛果敢な戦いぶりから名付けられた異名。