戦国時代は、たくさんの武将が自分の国を広げようと戦っていた時代です。そんな中、もともとは小さな領地の領主だったのに、一代で中国地方の大名にまで成り上がった人がいます。
それが、毛利元就(もうり もとなり)です!
元就は、「三本の矢」や「百万一心」など、今でも語り継がれる言葉を残し、家族や家臣と協力して毛利家を大きくしました。では、いったいどんなことをして戦国時代を生き抜いたのでしょうか?
性格や戦国大名になった理由とともに、わかりやすく解説します!
毛利元就は何をした人?簡単に解説

戦国時代には、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった有名な武将がいましたが、その中でも特に「知略の天才」と呼ばれたの毛利元就(もうりもとなり)です。
彼はもともと安芸国(現在の広島県)の小さな領主でしたが、数々の戦に勝ち、中国地方の覇者にまで成り上がりました。
毛利元就は中国地方を統一した戦国大名
毛利元就は、戦国時代の日本で、中国地方を統一した大名です。彼はもともと安芸国(現在の広島県)の小さな領主でしたが、知略を駆使して戦に勝ち続け、ついには10カ国120万石を治める大名になりました。
戦国時代には、たくさんの大名がいましたが、毛利元就は特に「知恵を使って勝つ戦い」を得意としていました。織田信長や豊臣秀吉のように、兵力を使ってゴリ押しするのではなく、敵を油断させたり、味方につけたりしながら勢力を広げたのです。
彼の活躍がなければ、後に幕末で活躍する長州藩(ちょうしゅうはん)も存在しなかったかもしれません。つまり、毛利元就は歴史を動かしたすごい人物なのです!
毛利元就の出自と幼少期|苦労の連続だった少年時代
元就は、1497年に安芸国の小さな城で生まれました。でも、幼い頃から苦労ばかりだったんです。
お父さんが亡くなった後、家臣たちに領地を奪われ、城を追い出されてしまいます。そのため、「乞食若殿(こじきわかどの)」と呼ばれるほど、みじめな生活を送っていました。そんな元就を助けたのが、お父さんの後妻である杉大方(すぎのおおかた)という女性でした。彼女は、血のつながりはなくても、実の息子のように元就を育てたんです。
毛利元就が戦国大名になった理由|家督相続と初陣
元就は最初から毛利家の当主だったわけではありません。
お兄さんである毛利興元(もうり おきもと)が当主だったのですが、彼が急死してしまったのです。すると、2歳の甥(お兄さんの子ども)が家督を継ぐことになりました。でも、2歳では家を守ることができませんよね。そこで、元就が後見人として毛利家を支えることになったのです。
そんな中、1517年に初めての戦、「有田中井手の戦い(ありたなかいでのたたかい)」に出陣します。この戦で元就は、たった千人の兵で敵の五千人を打ち破りました!これがきっかけで、周囲の大名たちは元就のことを「ただ者ではない」と思うようになったのです。
そして1523年、甥が病気で亡くなり、元就が毛利家の正式な当主になります。ここから、彼の「戦国大名としての人生」が本格的に始まるのです!
毛利元就の「三本の矢」とは?逸話の真実
みんなは「三本の矢」の話を知っていますか?
ある日、元就は3人の息子を集めて、1本ずつ矢を渡しました。そして、「折ってみろ」と言いました。息子たちは簡単に矢を折ることができました。次に、3本の矢を束ねて渡し、「これを折ってみろ」と言いました。でも、今度は誰も折ることができませんでした。
元就はこう言いました。
「1本の矢では簡単に折れてしまうが、3本束ねると折れない。お前たちも協力すれば、どんな敵にも負けることはない。」
この話はとても有名ですが、実は後世の創作とも言われています。でも、本当に元就が書いた「三子教訓状(さんしきょうくんじょう)」という手紙の中には、「家族や家臣の団結を大事にしなさい」という教えが書かれています。
元就は、一族をまとめることこそが大名として成功するカギだと考えていたのです。
毛利元就が行った策略|奇襲戦や養子縁組の活用
毛利元就は、「知略の天才」とも呼ばれています。彼が行った代表的な策略をいくつか紹介しましょう。
① 厳島の戦い(いつくしまのたたかい)
→ わざと城を作って敵を誘い出し、奇襲攻撃を仕掛ける。結果、大軍を撃破!
② 偽情報を流す
→ 敵の家臣たちに「お前の仲間が裏切ろうとしている」と嘘の情報を流す。これで敵が内部で争うように仕向けた。
③ 養子戦略
→ 自分の息子を有力豪族の家に養子に送り込み、毛利家とその家を一体化させる。こうして「毛利・吉川・小早川」の強力な連携が生まれた。
これらの作戦が成功し、毛利元就は次々と領土を広げていきました。単純な戦の強さだけではなく、頭を使った戦い方で勝ち続けたのです。
毛利元就は何した人か簡単に:性格・戦国大名になった理由

戦国時代を生き抜いた武将の多くは、圧倒的な力やカリスマ性を持っていました。しかし、毛利元就が特別だったのは「知略」と「団結の大切さ」を重視したことです。
元就は、自分の息子や家臣に対して団結を強く求め、家を守るためのルールをしっかりと作りました。その結果、毛利家は戦国時代を乗り越え、江戸時代、そして明治維新に至るまで影響を与え続ける存在になりました。
毛利元就の性格|冷徹な策略家か、家族思いの名将か?
毛利元就の性格は、一言で言うと「冷静で賢い人」でした。でも、それだけではありません。戦では敵を騙してでも勝つような冷徹な策略を使いましたが、家族や家臣に対してはとても思いやりのある人物だったのです。
例えば、「三本の矢」の話が示すように、元就は家族や家臣の団結を何よりも大切にしました。戦国時代には親兄弟でさえ裏切ることが珍しくなかったのに、元就は家族の結束を強く保ち続けました。
また、領民(一般の人々)に対しても優しい面を持っていました。お城を作るときに、昔の風習では「人柱(ひとばしら)」として人を埋めることがありました。でも、元就はそんなことはせず、「石柱を埋めてみんなの力を合わせよう」と言ったのです。
このように、「勝つためには冷徹な策略を使うが、仲間や家族は大切にする」というのが、毛利元就の性格だったのです。
「百万一心」の意味とは?毛利元就の理念
「百万一心(ひゃくまんいっしん)」という言葉を聞いたことがありますか?これは、毛利元就が残した言葉の一つで、「一人ひとりが力を合わせれば、大きなことを成し遂げられる」という意味です。
実はこの言葉は、城の築城工事のときに石柱に刻まれました。本当は「百万の民が一つの心になれば」という意味だったのですが、縦に読むと「一日一力一心(いちにちいちりきいっしん)」と読めるようになっていました。これは、「毎日、みんなが力を合わせて一つの目標に向かえば、大きな成果を出せる」という意味になります。
この言葉は、現代の会社や学校でも使われることがあります。「チームワークを大切にしよう!」という教えですね。毛利元就がいかに「みんなの力を合わせることの大切さ」を理解していたかがわかります。
毛利元就が築いた毛利家の繁栄とその後
毛利元就のすごいところは、自分が亡くなった後も毛利家が繁栄し続けたことです。
彼の息子たちは、「三本の矢」の教えを守り、力を合わせて毛利家を支えました。そして、毛利家は豊臣秀吉の時代でも徳川家康の時代でも生き残り、江戸時代には長州藩(ちょうしゅうはん)として続きました。
長州藩は、幕末(江戸時代の終わり)になると、明治維新の中心的な役割を果たします。つまり、毛利元就が築いた毛利家の力は、日本の歴史を大きく動かしたのです!
毛利元就と織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の関係
毛利元就は、織田信長や豊臣秀吉とは直接戦ったことはありませんが、彼の息子たちの時代には関わりを持ちました。
- 信長とは対立関係(信長が将軍・足利義昭を追放したとき、毛利は足利義昭を助けた)
- 秀吉とは協力関係(秀吉が織田家の後継者になったとき、毛利家はその家臣として仕えた)
- 家康とは警戒関係(関ヶ原の戦いで、毛利は豊臣方として戦ったが敗北。その後、領地を大幅に減らされた)
結果として、毛利家は江戸時代には勢力を縮小してしまいましたが、それでも生き残り、幕末には再び力を発揮することになります。
毛利元就の遺言|「毛利は天下の争いに関わるな」
毛利元就は、天下統一を目指した織田信長や豊臣秀吉と違い、「毛利家は西国の王として生き残るべきだ」と考えていました。
そのため、彼は亡くなる前にこんな遺言を残しました。
「毛利家は天下の争いには深入りせず、自分たちの国を守ることに専念しなさい」
戦国時代の武将たちは、天下を取ろうとする野心家が多かったですが、元就は現実的な考え方をしていました。無理に天下を狙うよりも、自分たちが生き残る道を選んだのです。
この遺言のおかげで、毛利家は江戸時代になっても生き残り続けることができました。
総括:毛利元就は何した人か簡単に解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
✅ 安芸国(現在の広島県)の小領主から、中国地方を統一した戦国大名になった
✅ 知略の天才であり、武力よりも頭脳戦を重視した戦い方で勝利を積み重ねた
✅ 「三本の矢」の逸話を通じて、一族の結束を大切にし、毛利家を強固にした
✅ 「百万一心」の言葉を残し、家臣や領民との団結を重視した
✅ 幼少期は父の死後、家を追われる苦難の時代を経験し、知恵と忍耐を学んだ
✅ 「有田中井手の戦い」で初陣を飾り、わずか千の兵で五千の敵軍を打ち破った
✅ 「厳島の戦い」では奇襲戦を成功させ、大軍を撃破する策略を駆使した
✅ 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康とは直接戦わなかったが、毛利家は彼らの時代を生き抜いた
✅ 「天下の争いに深入りするな」と遺言を残し、毛利家の生存戦略を確立した
✅ 江戸時代には長州藩として存続し、幕末には明治維新の中心勢力となった
