平忠常の乱(たいらのただつねのらん)」を知っていますか?
この乱は平安時代の1028年に関東で起こった大きな反乱で、約3年間にわたって続きました。最終的には源頼信(みなもとのよりのぶ)が平定しましたが、それまでに多くの戦いがあり、関東地方は大きく荒廃しました。
では、なぜ平忠常は反乱を起こしたのでしょうか?誰が鎮圧したのでしょうか?そして、この戦いは日本の歴史にどんな影響を与えたのでしょうか?
今日は塾長が分かりやすく解説していきます!
平忠常の乱をわかりやすく解説!何が起きたのか?

平安時代中期に関東で起きた平忠常(たいらのただつね)の乱は、日本史の中でも重要な出来事の一つです。
この反乱は、平将門の乱以来の大規模な動乱となり、約3年にわたって関東地方を混乱に陥れました。
平忠常の乱とは?いつどこで起きた?
平忠常の乱は、1028年(長元元年)に関東地方(上総国・下総国・安房国、現在の千葉県)で起こった大規模な反乱です。平安時代の関東では、平将門の乱(935年〜940年)以来の大きな動乱とされています。
反乱は約3年間も続き、朝廷は討伐軍を何度も派遣しましたが、なかなか鎮圧できませんでした。しかし1031年、源頼信が追討使に任命されると、戦わずして平定されることになります。
この乱の影響で、関東地方は大きく荒れ、源氏が関東で勢力を広げるきっかけにもなりました。
なぜ平忠常は反乱を起こしたのか?原因を解説
平忠常が反乱を起こした一番の理由は、国司(こくし)との対立です。当時、地方には朝廷から派遣された国司が治めていましたが、その支配に反発する地元の武士が増えていました。
忠常は上総国・下総国・常陸国に広大な土地を持っていましたが、国司の命令を無視し、納税もしなかったのです。そして、ついには安房国の国司・平維忠(たいらのこれただ)を殺害してしまいます。
また、当時の社会情勢も反乱の背景にあります。1027年に絶大な権力を持っていた藤原道長が亡くなり、朝廷内部が混乱していたのです。この混乱の影響で、地方の武士たちはますます独立心を強め、忠常もその波に乗って反乱を起こしたと考えられます。
平忠常の乱の経過を時系列でわかりやすく
この乱の流れを年表で整理しましょう。
- 1028年:平忠常が安房国の国司・平維忠を殺害し、反乱勃発。
- 1029年:朝廷は平直方(たいらのなおかた)を追討使として派遣するが、鎮圧できず。
- 1030年:戦況が長引き、朝廷は平直方を更迭し、新たに源頼信を追討使に任命。
- 1031年:頼信が平忠常を説得し、戦わずして降伏させる。帰京途中、美濃国で忠常が病死。
忠常の乱は最終的に頼信の外交的な手腕によって終結しましたが、それまでに関東地方は大きく荒廃しました。
平忠常の乱と平将門の乱の違い
平忠常の乱と平将門の乱は、どちらも関東地方で起きた武士の反乱ですが、大きな違いがあります。
共通点
- どちらも関東での武士の反乱である。
- どちらも朝廷によって討伐された。
違い
- 目的の違い
- 平将門の乱は「関東独立」を目指し、新皇(しんのう)を名乗った。
- 平忠常の乱は「反受領闘争(地方の役人との対立)」が主な原因だった。
- 影響の違い
- 平将門の乱は全国の武士に影響を与えた。
- 平忠常の乱は関東の情勢に影響を与え、源氏の勢力拡大に繋がった。
- 結末の違い
- 平将門は激戦の末に討ち取られた。
- 平忠常は戦わずして降伏し、病死した。
このように、目的や影響の違いを理解すると、乱の意味がより明確になります。
平忠常の乱がもたらした影響
この乱は、関東地方と日本の歴史に大きな影響を与えました。
関東地方への影響
- 戦乱が続いたため、農地が荒れ、経済が大きく低迷。
- 戦場となった上総・下総・安房国の多くの村が廃村状態になった。
武士社会への影響
- 乱の鎮圧を通じて、源頼信が関東武士をまとめる存在になった。
- これが後の源氏の東国支配の始まりとなる。
- 関東における平氏の影響力が弱まり、源氏が台頭するきっかけに。
歴史の流れへの影響
- この乱の後、関東では源氏の影響力が拡大し、後の前九年の役(1051年)や鎌倉幕府成立(1185年)へと繋がっていく。
このように、平忠常の乱は「関東における源氏の台頭」を決定づける重要な出来事だったのです。
平忠常の乱をわかりやすく解説!誰が鎮圧したのか

平忠常の乱を鎮圧したのは、源頼信(みなもとのよりのぶ)です。彼は戦うことなく、忠常を降伏させることに成功しました。
なぜ彼はこのようなことができたのでしょうか?また、この出来事が後の歴史にどのような影響を与えたのでしょうか?
平忠常の乱の鎮圧に最初に派遣されたのは誰?
最初に朝廷から派遣された追討使は平直方(たいらのなおかた)でした。
平直方は、平忠常と同じ平氏の一族でしたが、貞盛流平氏に属しており、忠常の良文流平氏とは対立関係にありました。つまり、もともと忠常を敵視していたのです。
しかし、直方の討伐は思うように進みませんでした。
その原因は、以下のような点が挙げられます。
- 忠常の軍が関東の地理に精通していたため、直方の軍は効果的に戦えなかった。
- 忠常が現地の豪族たちを味方につけていたため、追討軍が苦戦した。
- もう一人の追討使・中原成通(なかはらのなりみち)が消極的だったため、軍の士気が上がらなかった。
このような理由から、平直方の討伐軍は忠常を鎮圧できず、戦いは長期化しました。
源頼信が追討使に選ばれた理由とは?
1030年、朝廷は平直方を見限り、新たに源頼信(みなもとのよりのぶ)を追討使に任命しました。
では、なぜ源頼信が選ばれたのでしょうか?その理由は大きく4つあります。
- 源頼信はすでに関東で影響力を持っていた
彼は甲斐守(かいのかみ)として関東地方を統治しており、地元の武士との関係が深かったのです。 - 過去に忠常を家人(家来)として従えていた
以前、忠常は源頼信の従者となったことがありました。このため、頼信は武力ではなく説得で忠常を降伏させることができると考えられたのです。 - 戦いを長引かせるより、早く決着をつけたかった
朝廷はすでに2年以上この戦乱に悩まされており、軍事的な負担を減らしたかったのです。 - 源氏の武士団が成長していた
これを機に源氏を東国で強くさせ、平氏の力を削ごうという思惑もあったと考えられます。
源頼信の策略!戦わずして平忠常を降伏させた方法
源頼信は戦うことなく、見事に平忠常を降伏させました。その方法は「説得」と「心理戦」でした。
- 忠常の軍を包囲する作戦
源頼信は軍を率いて関東に向かいましたが、いきなり攻め込まず、忠常の勢力圏を包囲する形で圧力をかけました。 - 「戦えばさらに厳しい結果になる」と伝える
頼信は忠常に使者を送り、「これ以上の抵抗は無駄だ。降伏すれば命を助ける」と説得しました。 - 過去の主従関係を利用
忠常は以前、頼信の家来だったことがありました。そのため、頼信の言葉に耳を傾けやすかったのです。 - 長期戦に疲れ果てた忠常
3年間の戦乱で忠常の軍は疲弊していました。頼信の説得を受け、もはや戦う力がないと判断したのです。
こうして1031年、忠常は戦わずして降伏し、乱は終結しました。
平忠常の最期!降伏後にどうなったのか?
平忠常は降伏した後、源頼信によって京へ護送されることになりました。
しかし、移動の途中、美濃国(現在の岐阜県)で病にかかり、そのまま死亡しました。
忠常の死後、頼信は彼の首を京に持ち帰りました。
しかし、降伏した者の首を晒すのはよくないとされ、忠常の首は親族のもとへ返されることになります。
また、忠常の子供たちも処刑されることなく助命されました。
これは、忠常が最後に戦わずに降伏したことや、源頼信の影響があったためだと考えられます。
源頼信の活躍が後の歴史に与えた影響
平忠常の乱を鎮圧したことで、源頼信とその子孫は大きな力を得ることになりました。
- 河内源氏の影響力が強まる
この乱をきっかけに、頼信の子・源頼義(みなもとのよりよし)、孫の源義家(みなもとのよしいえ)へと続く、河内源氏の勢力が確立されていきます。 - 関東武士の信頼を得る
この乱の後、多くの関東武士が源氏のもとに集まり、後の前九年の役(1051年)や後三年の役(1083年)で源氏が主導的な役割を果たすことになります。 - 鎌倉幕府成立への布石となる
源氏の勢力拡大は、のちの鎌倉幕府(1185年)へとつながっていきます。つまり、忠常の乱は「武士の時代」の始まりを告げる重要な出来事だったのです。
総括:平忠常の乱をわかりやすく解説まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
① 平忠常の乱とは?
- 1028年(長元元年)に関東地方(上総・下総・安房)で起きた大規模な反乱。
- 935年の平将門の乱以来の大きな動乱。
- 約3年間続き、最終的に源頼信によって鎮圧された。
② なぜ平忠常は反乱を起こしたのか?
- 国司(朝廷の役人)との対立が原因で、納税を拒否し、戦闘へ発展。
- 1027年に藤原道長が死去し、朝廷が混乱。地方武士の独立心が高まった。
- 忠常は安房国の国司・平維忠を殺害し、反乱の火種をつくった。
③ 平忠常の乱の経過(時系列)
- 1028年:忠常が安房国の国司を殺害し、反乱開始。
- 1029年:平直方が追討使として派遣されるが、鎮圧できず。
- 1030年:戦況悪化で平直方が更迭され、源頼信が追討使に。
- 1031年:源頼信が忠常を説得し、戦わずして降伏。護送中に忠常は病死。
④ 平将門の乱との違い
- 目的の違い:将門は「新皇」を名乗り独立を目指したが、忠常は国司との対立が主因。
- 影響の違い:将門の乱は全国に影響を与えたが、忠常の乱は関東に限定。
- 結末の違い:将門は討ち取られたが、忠常は降伏して病死。
⑤ 平忠常の乱の影響
- 関東の荒廃:3年間の戦乱で経済が大打撃を受けた。
- 源頼信の影響力拡大:関東武士を従え、源氏が台頭。
- 武士社会の発展:後の鎌倉幕府成立につながる流れが生まれた。
⑥ 平忠常の乱を鎮圧したのは誰?
- 最初の追討使は平直方だったが、鎮圧に失敗。
- 1030年、源頼信が新たな追討使に任命される。
⑦ 源頼信の戦略
- 武力ではなく、説得と心理戦で忠常を降伏させた。
- 忠常は頼信の元で降伏し、京へ護送される途中で病死。
⑧ 源頼信の活躍が歴史に与えた影響
- 河内源氏の勢力拡大:頼信の子・源頼義、孫の源義家へと影響。
- 関東武士の団結:後の前九年の役(1051年)、鎌倉幕府成立(1185年)へつながる。
- 武士の時代の幕開け:忠常の乱が、武士が歴史の主役となる転換点となった。