「ラクスマン来航ってテストに出るけど、いつの話なの?」「どんな目的で来たの?」こんな疑問を持っている人も多いでしょう。
江戸時代、日本は鎖国をしていました。しかし、ロシアから使節団がやってきて、日本と交渉をしようとしたのです。その先駆けとなったのが、1792年(寛政4年)のラクスマン来航でした。
この記事では、「ラクスマン来航はいつ?」という疑問を分かりやすく解説! さらに、ラクスマン来航の目的や日本との交渉の流れ、歴史的な意義まで、詳しく学べる内容になっています。
語呂合わせも紹介するので、暗記の助けにしてくださいね!
※AmazonのKindle Unlimitedは月額980円ですが、3ヶ月無料期間があります。その間、読み放題対象の電子書籍は全部無料。途中で解約ももちろん自由。そのため、電子書籍が実質0円で読めます。以下に、歴史の語呂合わせに関連する無料書籍を載せておきます。
↓実質無料で読めるおすすめ歴史の読み物↓


ラクスマン来航はいつ?日付や歴史的背景を詳しく解説
ロシアの使節アダム・ラクスマンが、日本にやってきたのは1792年(寛政4年)のことです。この出来事は、日本とロシアの最初の公式な外交交渉でした。
当時の日本は鎖国をしており、外国との貿易を制限していました。しかし、ロシアは日本との通商を望み、ラクスマンを使節として派遣。ラクスマンは、北海道の根室に上陸し、日本と交渉を行いました。
では、ラクスマン来航の具体的な日付や背景を詳しく見ていきましょう!
ラクスマン来航は1792年!具体的な日時とその背景
ラクスマンが日本にやってきたのは、1792年9月24日にロシアを出発し、10月20日に根室に到着しました。
この時代の日本は、鎖国政策をとっていて、中国(清)とオランダ以外の国とは貿易をしていませんでした。一方、ロシアは日本と貿易をしたいと考えており、そのきっかけとして、「漂流民の送還」を利用しました。
実は、日本人の大黒屋光太夫という人が、ロシアに漂着していました。ロシアは光太夫らを日本に送り届けるついでに、日本との交渉を試みたのです。
ラクスマンはどこに来航した?根室と松前での交渉の流れ
ラクスマンが最初にやってきたのは、北海道の根室です。当時の根室には松前藩の役人やアイヌの人々が住んでいました。
ラクスマンは日本の役人に対し、「ロシアの女帝エカチェリーナ2世からの親書を持ってきた」と伝えました。そして、日本人の漂流民を返す代わりに、日本との貿易を求めたのです。
幕府の命令を受けた松前藩は、「重要な決定は松前で行う」として、ラクスマンを松前へ案内。そこで交渉が行われました。しかし、幕府は通商を許可せず、「長崎でなら交渉できる」という条件を提示しました。
ラクスマンは、長崎への入港許可証(信牌)を受け取りましたが、結局長崎には行かず、そのまま帰国しました。
ラクスマンが来た理由は?ロシアの狙いと幕府の対応
ロシアが日本に接近した理由は、シベリアの発展のために日本との貿易が必要だったからです。ロシアはシベリアで毛皮を生産していましたが、食糧や日用品が不足していました。
ロシアは、日本と貿易を行うことで、シベリアに必要な物資を手に入れようと考えていました。そのため、ラクスマンは貿易の交渉を試みたのです。
しかし、幕府は鎖国政策を続けており、ロシアの申し出を拒否。「長崎でなら交渉できる」と伝えましたが、実際には長崎に来ても貿易を許すつもりはありませんでした。
ラクスマン来航の歴史的意義!鎖国下の日本に与えた影響
ラクスマン来航は、日本にとって大きな出来事でした。なぜなら、幕府が鎖国を続ける中で、外国と初めて公式に交渉を行ったからです。
また、幕府はこの出来事をきっかけに、北方の防衛意識を高めました。ラクスマンが来たことで、ロシアの脅威を意識するようになったのです。
この後、1804年にはロシアのレザノフが再び日本に通商を求めますが、幕府はこれも拒否。その結果、ロシア側が日本の北方地域を攻撃する事態に発展しました。
ラクスマン来航を覚える語呂合わせ!簡単に暗記できる方法
ラクスマン来航を年号とともに覚えるには、語呂合わせが便利です。
✅ 「なくに(1792)帰れたラクスマン」(泣くに帰れたラクスマン→1792年)
✅ 「代行使って楽に生活。いつでも眠ろう!」
- 代行(大黒屋光太夫)
- 楽に(ラクスマン)
- 眠ろう(根室)
語呂合わせを使えば、ラクスマン来航の年号や重要人物を簡単に覚えられます!
ラクスマン来航がいつか分かったら:その後の影響
ラクスマンが日本に来た目的や、日本とロシアの関係にどんな影響を与えたのかを詳しく解説していきます。幕府の対応や、その後のロシアの動きも合わせて見ていきましょう。
ラクスマン来航の目的は何だったのか?ロシアの狙いを解説
ラクスマンが日本にやってきた目的は、大きく分けて「漂流民の送還」と「貿易交渉」の2つです。
1. 漂流民の送還
ロシアは、日本人漂流民の大黒屋光太夫たちを日本に返すことで、日本との関係を築こうとしました。これまでも外国に漂流した日本人が送り返されることはありましたが、国を代表する使節が交渉を試みるのは初めてのことでした。
2. 貿易交渉
ロシアは、日本と貿易を行い、シベリアに必要な物資を確保したいと考えていました。毛皮の交易を拡大し、シベリアの発展を進めるため、日本から食料や日用品を輸入する計画でした。
しかし、日本は鎖国政策を取っており、ロシアの要求を受け入れることはありませんでした。
ラクスマン来航に対する幕府の対応とその理由
江戸幕府は、ラクスマンの要求に対して鎖国政策を守る方針を取りました。しかし、完全に門前払いをしたわけではなく、次のような対応をしました。
1. 長崎への入港許可証(信牌)の発行
幕府はラクスマンに対し、「長崎なら交渉できる」という条件を出しました。これは、外国との窓口を長崎に限定していたためです。しかし、実際には交渉に応じるつもりはなく、ただの外交的な手段でした。
2. ロシアとの交渉は松前藩に任せた
幕府は、自ら交渉するのではなく、松前藩を通じてラクスマンと話し合いました。これは、ロシアとの本格的な交渉を避けるための戦略でした。
結果的に、幕府はロシアとの貿易を許可せず、ラクスマンは帰国することになりました。
ラクスマン来航のその後!レザノフ来航とロシアの反応
ラクスマン来航の12年後、1804年(文化元年)に、ロシアの使節レザノフが再び日本にやってきました。レザノフは、ラクスマンが受け取った長崎への入港許可証(信牌)を持参し、正式な貿易交渉を試みました。
しかし、幕府はレザノフを半年以上も待たせた後、「通商は認めない」と回答しました。さらに、レザノフが持っていたロシア皇帝の親書の受け取りさえ拒否しました。
この対応に激怒したレザノフは、帰国途中に日本の北方地域(樺太や択捉島)を攻撃し、日露関係は悪化してしまいました。
ラクスマン来航の影響!日本の対外政策に与えた変化
ラクスマン来航は、日本の対外政策に大きな影響を与えました。特に、北方地域の防衛強化が進められることになりました。
1. 北方警備の強化
ロシアの接近を受けて、幕府は蝦夷地(北海道)を直轄領とし、警備を強化しました。さらに、間宮林蔵(まみやりんぞう)を派遣し、樺太の調査を行わせました。
2. 鎖国政策の維持
幕府は、ロシアの要求を拒否し、鎖国をさらに強化しました。1808年には、外国船を無条件で撃退する「異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)」が出されました。
このように、ラクスマン来航は、日本の防衛意識を高めるきっかけとなり、その後の対外政策にも大きく影響を与えました。
総括:ラクスマン来航はいつかまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. ラクスマン来航はいつ?
- 1792年(寛政4年) にロシアの使節ラクスマンが来航
- 9月24日 にロシアを出発し、10月20日 に北海道・根室に到着
2. ラクスマンはどこに来たのか?
- 最初に北海道の根室に来航
- 交渉のため松前に移動
3. ラクスマン来航の目的
- 漂流民の送還(大黒屋光太夫らを日本に返す)
- 貿易交渉(日本との通商を求める)
- ロシアの戦略(シベリア発展のため、日本と交易したい)
4. 江戸幕府の対応
- 「長崎なら交渉可能」と伝え、入港許可証(信牌)を発行
- 実際には交渉するつもりはなく、貿易は拒否
- ロシアとの交渉は松前藩に任せた
5. ラクスマン来航のその後
- ラクスマンは長崎に行かず、そのまま帰国
- 12年後の1804年、レザノフが長崎に来航し再交渉を試みる
- 幕府は半年間待たせた後、通商を拒否
- 激怒したレザノフが帰国途中に樺太や択捉島を攻撃
- 日露関係が悪化
6. ラクスマン来航の影響
- 北方防衛の強化(蝦夷地を幕府の直轄領に)
- 間宮林蔵の派遣(樺太の調査を行い、間宮海峡を発見)
- 鎖国政策の維持と強化
- 1808年に異国船打払令を発令(外国船の撃退を指示)
7. ラクスマン来航を覚える語呂合わせ
- 「なくに(1792)帰れたラクスマン」
- 「代行使って楽に生活。いつでも眠ろう!」
- 代行 → 大黒屋光太夫
- 楽に → ラクスマン
- 眠ろう → 根室
8. ラクスマン来航の歴史的意義
- 日本とロシアの最初の公式外交交渉
- 幕府が北方の防衛意識を高める契機となった
- 鎖国政策を維持しながらも、対外関係の重要性を認識
- 後のロシアとの関係悪化につながる重要な出来事