今日は、新選組の局長として有名な近藤勇の最後について、わかりやすく解説していきます。
「近藤勇の死因って何?」「最後にどんな言葉を残したの?」「処刑の様子はどうだったの?」と疑問に思っている人も多いでしょう。歴史の授業でも取り上げられることがあるので、しっかり理解しておくと役に立ちますよ。
この記事では、近藤勇の死因、処刑の経緯、最後の言葉などを詳しく紹介します!それでは、一緒に学んでいきましょう。
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近藤勇の死因とは?処刑の経緯を詳しく解説
新選組の局長として幕末を駆け抜けた近藤勇ですが、最後は「斬首刑」によって命を落としました。彼はどのように捕らえられ、どんな最期を迎えたのでしょうか?順番に見ていきましょう。
近藤勇の死因は「斬首刑」だった?処刑の理由とは
近藤勇は1868年(慶応4年)4月25日に、新政府軍によって板橋刑場で斬首されました。つまり、刀で首をはねられてしまったのです。
なぜ新政府軍は近藤勇を処刑したのでしょうか?
それは、新選組が幕府側について戦ったからです。明治維新の流れの中で徳川幕府が倒され、新政府軍(薩摩・長州などの勢力)が日本の中心になっていく中で、新選組は「幕府の忠実な部下」として戦い続けました。
特に鳥羽伏見の戦い(1868年1月)で幕府が敗れた後も、近藤勇は新選組を率いて戦いを続けました。しかし、戦況は悪くなるばかりで、ついに千葉県流山市(下総流山)で新政府軍に捕らえられてしまったのです。
なぜ近藤勇は捕らえられたのか?流山での投降の真相
近藤勇が捕まったのは1868年4月3日のことです。彼は仲間とともに千葉県流山市(当時の下総国流山)にいました。そこへ新政府軍が攻め込んできたのです。
このとき、近藤勇は「大久保大和(おおくぼやまと)」という偽名を名乗っていました。これは、正体を隠して生き延びるための作戦だったと考えられます。
しかし、新政府軍の中には元新選組隊士である加納鷲雄(かのうわしお)がいました。彼はかつて近藤勇と戦ったことがある人物です。
「これは近藤勇ではないか?」
そう疑った加納鷲雄たちは、彼を厳しく問い詰めました。結果、近藤勇の本当の正体がバレてしまい、新政府軍に拘束されたのです。
このとき、土方歳三(ひじかたとしぞう)は「逃げろ!」と説得しましたが、近藤勇は自ら投降することを決めました。
その理由として、次の2つの説があります。
- 「大久保大和」として堂々と申し開きをしようとした(自分の潔白を証明しようとした)
- 「もう戦うのは無理だ」と諦めた(怪我や疲労もあり、戦う気力がなかった)
どちらが本当だったのかは、今も議論されています。しかし、結果として近藤勇は新政府軍に捕らえられ、江戸・板橋へ連行されることになったのです。
板橋刑場での処刑の様子とは?
近藤勇は板橋の本陣に数週間収監された後、1868年4月25日に板橋刑場で処刑されました。処刑の理由は「幕府側の武将として新政府軍に抵抗したから」です。
しかし、近藤勇の処刑には疑問点もあります。
- なぜ武士らしい「切腹」ではなく「斬首」だったのか?
→ 近藤勇は「武士」ではなく、もともとは「農民の出身」だったため、武士としての切腹は許されなかったという説があります。 - なぜ特別な刑場ではなく「道端」で処刑されたのか?
→ 彼の処刑は、新政府軍の中でも土佐藩(薩摩・長州とともに倒幕を進めた勢力)が強く主張した結果でした。特別な処刑場ではなく、一般的な罪人の扱いを受けてしまったのです。
処刑の際、近藤勇は落ち着いた様子だったといわれています。彼は「長い間、お世話になった」と言って、周囲の人々に礼を述べたそうです。
こうして、近藤勇は35歳という若さで命を落としました。
処刑後、近藤勇の首はどうなった?
近藤勇が処刑された後、彼の首は京都へ送られ、三条河原(さんじょうがわら)にさらされました。これは「反政府勢力への見せしめ」のためです。
しかし、その後近藤勇の首は行方不明になってしまいます。
いくつかの説があります。
- 「旧幕臣がこっそり持ち去り、京都の高台寺に埋めた」
- 「会津藩の関係者が会津若松の天寧寺に持ち込んで埋葬した」
- 「愛知県岡崎市の法蔵寺に埋められた」
現在、これらの場所には「首塚」と呼ばれる供養塔が建てられています。しかし、どれが本物なのかはわかっていません。
近藤勇の胴体はどこに?遺体の埋葬地に関する諸説
首とは別に、近藤勇の胴体はどうなったのでしょう?
- 東京都北区の寿徳寺(じゅとくじ):新選組の仲間たちが密かに埋葬したとされる。
- 東京都三鷹市の龍源寺(りゅうげんじ):近藤勇の実家の近くで、最も有力な埋葬地とされる。
- 日野市の高幡不動尊(たかはたふどうそん):近藤勇を祀る碑があり、ファンが多く訪れる。
つまり、近藤勇の遺体の正確な埋葬地は、今もはっきりしていないのです。
近藤勇の死因:最後の言葉や辞世の句

近藤勇の最期について、特に「最後の言葉」「辞世の句」「処刑時の様子」に焦点を当てて解説していきます。彼の言葉には、どんな思いが込められていたのでしょうか?また、処刑を回避する可能性はなかったのか?
これらの疑問に答えながら、彼の死が新選組に与えた影響についても考えてみましょう。
近藤勇の最後の言葉は「トシ、楽しかったな」なのか?
「トシ、楽しかったな。」
この言葉は、近藤勇が処刑される直前に土方歳三(ひじかたとしぞう)に向かって言ったとされるものです。しかし、これは 史実ではなく、フィクションの可能性が高 です。
この言葉が広まった理由の一つに、大河ドラマなどの影響があります。特に1990年代以降の時代劇や小説では、近藤と土方の絆を象徴するエピソードとして、このセリフがよく使われるようになりました。
しかし、史実に基づく一次資料や証言の中に「トシ、楽しかったな」という言葉は出てきません。近藤の最期を記録した文献では、彼が冷静に処刑に臨んだことは書かれていますが、土方に向けた具体的な言葉は記録されていません。
とはいえ、近藤と土方が幼い頃から剣を磨き、新選組を共に作り上げた盟友であったことは間違いありません。もし近藤が本当にこのような言葉を残していたとすれば、それは彼の人生を振り返る、最後の感慨深い一言だったのかもしれません。
辞世の句「快く受けん電光三尺の剣」その意味とは?
近藤勇が残したとされる辞世の句には、次のようなものがあります。
「快受電光三尺劔 只將一死報君恩」
(こころよく受けん 電光三尺の剣 ただ一死をもって 君恩に報いん)
この詩の意味は、
「雷のように鋭い三尺の剣(刃)を快く受け入れ、一命をもって主君の恩に報いる」
というものです。
ここでいう「君恩」とは、幕府のことを指します。つまり、近藤勇は「幕府のために戦い抜き、最後は潔く死ぬことが、自分の役目である」という強い決意を示したのです。
この辞世の句は、中国の歴史に登場する忠臣 張巡(ちょうじゅん)の影響を受けたものと考えられます。張巡は、敵に包囲されながらも最後まで抵抗し、壮絶な最期を迎えた武将でした。
近藤は自分の境遇を張巡に重ね合わせ、同じように「忠義を貫いて死ぬ」ことを覚悟していたのでしょう。
近藤勇の最期の態度や処刑時のエピソード
近藤勇の最期は、堂々とした態度だったと伝えられています。甥の近藤勇五郎の証言によると、処刑場に向かう彼は取り乱すことなく、最後まで冷静だったそうです。
また、処刑直前に「ながながとご厄介に相成った」という言葉を残したとされています。これは、「長い間、お世話になった」という意味であり、彼が処刑人や周囲の人々に対して感謝の気持ちを示した言葉と考えられています。
さらに、近藤は自分と一緒に捕らえられた部下相馬主計(そうまかずえ)と野村利三郎(のむらりさぶろう)の助命を嘆願しました。その結果、二人は処刑を免れ、後に土方歳三と合流し、函館戦争まで戦い続けることになります。
近藤勇は「死ぬことそのものを恐れず、最後まで武士の誇りを持っていた」のです。
処刑を回避する可能性はあったのか
もし、近藤勇が最後まで偽名「大久保大和(おおくぼやまと)」を貫いていたら、助かった可能性はあったのでしょうか?
実際、新政府軍の中では「近藤勇を処刑するか、助けるか?」について議論がされていました。特に、勝海舟(かつかいしゅう)や 山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)などの旧幕臣は、近藤の助命を願っていました。
しかし、新政府軍の中でも土佐藩が強く処刑を主張したため、それは叶いませんでした。
また、もし近藤が投降せず、土方とともに戦い続けていたら?
この場合、彼はおそらく戦場で討ち死にしていたでしょう。実際、土方歳三も函館戦争の最中に戦死しました。つまり、どちらにせよ近藤勇が生き延びる可能性は極めて低かったのです。
近藤勇の死が新選組に与えた影響
近藤勇が1868年4月25日に処刑されたことで、新選組の運命は大きく変わりました。
この後、新選組は土方歳三が率いることになります。しかし、もはやかつての勢いはなく、彼らは各地を転戦しながら徐々に衰退 していきました。そして1869年(明治2年)、函館戦争で土方歳三が戦死したことで、新選組は事実上の終焉を迎えました。
近藤勇の死は「新選組の終わり」を象徴する出来事だったのです。
総括:近藤勇の死因&最後の言葉まとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
1. 近藤勇の死因と処刑の経緯
- 1868年(慶応4年)4月25日、新政府軍により板橋刑場で斬首された。
- 鳥羽伏見の戦いで幕府が敗北後も戦い続けたが、千葉県流山市(下総流山)で新政府軍に捕縛された。
- 偽名「大久保大和」を名乗ったが、新政府軍内の元隊士・加納鷲雄により正体が発覚。
- 武士の特権である切腹は許されず、罪人として斬首刑に処された。
2. 近藤勇の最後の言葉
- 「トシ、楽しかったな」は大河ドラマなどの影響によるフィクションの可能性が高い。
- 史実では、処刑前に「ながながとご厄介に相成った」と礼を述べたという記録がある。
- 甥の近藤勇五郎による証言では、最後まで冷静で堂々とした態度だった。
3. 辞世の句「快く受けん電光三尺の剣」
- 「快受電光三尺劔 只將一死報君恩」と詠んだとされる。
- 意味:「雷のように鋭い剣を快く受け入れ、一命をもって主君の恩に報いる」
- 忠義を貫き、潔く死ぬことを覚悟した武士の誇りが表れている。
4. 近藤勇の処刑後の遺体の行方
- 首は京都の三条河原に晒された後、行方不明になった。
- 埋葬地には諸説あり、高台寺(京都)、天寧寺(会津)、法蔵寺(愛知)などが候補。
- 胴体は東京都三鷹市の龍源寺や北区の寿徳寺に埋葬されたとされるが確定はしていない。
5. 近藤勇の死が新選組に与えた影響
- 近藤勇の死後、新選組は土方歳三が指揮を継承した。
- しかし、勢力は衰え、各地で転戦するも徐々に衰退。
- 1869年、函館戦争で土方歳三が戦死し、新選組は事実上終焉を迎えた。
- 近藤の死は「新選組の終わり」を象徴する出来事となった。
