みなさんは「フェノロサ」や「岡倉天心(おかくらてんしん)」という名前を聞いたことがありますか?どちらも、今の日本に残る美しい絵や仏像を守った、すごい人たちなんです。
でも、「何をした人?」と聞かれると、意外と知られていませんよね。
今回は、そんなフェノロサと岡倉天心の活動や、二人の間にあった関係、どんな作品を残したのか、どうして日本美術を守ろうとしたのかを、わかりやすく説明していきます!
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フェノロサや岡倉天心は何した人?日本美術の発展に貢献
フェノロサと岡倉天心、この二人は日本美術を守り、世界に伝えるために大きな役割を果たしました。彼らがどのように日本美術に貢献したのかを解説します。
フェノロサは何をした人?日本美術を世界に広めたアメリカ人
アーネスト・フェノロサは、アメリカ生まれの哲学者で、明治時代に日本に来ました。東京大学で哲学や経済の先生をしていたのですが、日本の仏像や絵にふれて大感動!そこから、日本美術のすばらしさを広めようと決意したのです。
フェノロサは、日本の古いお寺や神社をまわって仏像や絵を調査しました。当時は「西洋のほうがすごい」と言われて、日本の美術があまり大切にされていなかったんです。だから、フェノロサは「これは世界に誇れる宝物だ!」と、みんなに伝えました。
また、東京藝術大学の前身「東京美術学校」の設立にもかかわり、美術教育の大切さも広めました。アメリカに帰ってからは、日本の作品を世界に紹介し、日本美術の価値を高めた功労者なのです。
岡倉天心は何をした人?日本美術の教育と近代化に貢献
岡倉天心は、日本の横浜で生まれました。子どものころから英語が得意で、東京大学を出たあと、文部省で働くことになります。ある日、外国人教師フェノロサと出会い、その通訳をしたことがきっかけで、日本美術に目覚めます。
天心は、日本の伝統的な絵や仏像が壊されたり、海外に売られてしまっている現状にショックを受け、「なんとかして守らなければ」と思ったのです。フェノロサと一緒に、全国をまわって文化財の調査をし、「美術保存ニ付意見」という報告書も書きました。
さらに、天心は東京美術学校の設立をすすめ、校長になりました。そこで新しい日本画を教え、横山大観(よこやまたいかん)など多くの画家を育てました。そして、自らも「茶の本」などの本を書き、日本文化の魅力を世界に発信したのです。
フェノロサと岡倉天心の関係性
二人の関係は、東京大学でフェノロサが先生、岡倉天心が学生だったころから始まります。天心は英語が得意だったので、フェノロサの通訳として一緒に活動することになりました。そこから、ふたりはまるで師弟(しでい:先生と弟子)のように行動をともにします。
一緒にお寺や神社をめぐって美術品を調べたり、美術学校を作ったり、日本の美術を守るために力を合わせました。フェノロサが帰国してからも、天心はその意志を引き継ぎ、文化の発信を続けていったのです。
ふたりは立場も国も違いましたが、「日本美術を守りたい」という同じ思いを持っていたことで、強い絆が生まれました。この出会いがなければ、今私たちが見られる日本の伝統美術の多くは、残っていなかったかもしれませんね。
二人の代表作と功績まとめ
フェノロサと天心は、それぞれ多くの功績を残しました。フェノロサは、明治時代の文化財調査や「日本美術論」などの著作で有名です。彼の発言は、日本の古い美術を「国宝」として大切にする考え方のもとになりました。
岡倉天心は「美術保存ニ付意見」という報告書をまとめ、日本で初めて文化財保護の必要性を訴えました。また、「The Book of Tea(茶の本)」という英語の本を出版し、日本文化の魅力を海外に伝えました。この本は今でも世界中で読まれています。
ふたりが関わった東京美術学校や日本美術院は、現在の芸術大学や美術界に大きな影響を与えています。教育・著作・文化財保護、どの面でも、今につながる大きな成果を残したのです。
なぜ二人は日本美術を守ろうとしたのか
フェノロサと岡倉天心が活躍した明治時代、日本は「西洋の真似をして近代化しよう」という時代でした。その流れの中で、「古いもの=ダサい」とされて、日本の仏像や建物、絵画などが壊されたり売られたりしていたのです。
特に「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」という運動で、お寺の仏像や仏画がたくさん失われました。そんな中、ふたりは「これは日本の宝物なのに!」と感じ、日本美術を守ろうと立ち上がったのです。
ふたりの努力がなければ、多くの貴重な文化財が今に残っていなかったでしょう。日本の伝統を大事にしようという心、そして世界に伝えようとする姿勢は、今の私たちにとってもとても大切なことです。
フェノロサと岡倉天心は何した人か:豆知識や名言
前半では、フェノロサと岡倉天心が「日本美術を守るために何をしたのか」を紹介しましたね。後半では、ちょっと面白い豆知識や、ふたりの名言、さらには今の日本にどんな影響を残しているのかを解説していきます!
歴史を学ぶとき、こうしたエピソードを知っておくと、もっと楽しくなりますよ。
「凍れる音楽」の真相とは?フェノロサの名言のウワサ
「凍れる音楽(こおれるおんがく)」という言葉を聞いたことがありますか?
これは奈良の薬師寺(やくしじ)の東塔(とうとう)をたたえた名言とされています。「まるで音楽が氷のように固まったような美しさ」という意味です。
この言葉は、フェノロサが言ったとよく言われていますが、じつははっきりとした記録は残っていません。ヨーロッパの哲学者が昔から使っていた表現とも言われていて、フェノロサがそれを引用したかもしれないのです。
でも、誰が言ったとしても、薬師寺の塔がそれほど美しく見えたということは間違いありません。日本の建築や美術が「音楽のように美しい」と評価されていたのは、すばらしいことですね。
「茶の本」とは?岡倉天心が世界に伝えた日本文化の粋
岡倉天心が書いた有名な本に『茶の本(The Book of Tea)』という作品があります。これは1906年にアメリカで英語で出版され、日本の茶道や美意識について世界に向けて語った本です。
「茶道はただお茶を飲むだけではなく、静けさや調和を大切にする心の文化なんだよ」と、天心は世界に伝えました。この本を通して、日本の文化がとても深くて美しいものだと、たくさんの外国の人たちが知ることになったのです。
フランス語やドイツ語など、いろんな言葉に翻訳されて世界中で読まれたこの本は、今でも日本文化を学ぶ人にとって大切な一冊となっています。
フェノロサの妻と日本文化
フェノロサには「メアリー」という妻がいました。彼女も日本文化に興味を持っていて、日本での生活をもとにした小説を書いたり、美術に関する本を出版したりしました。
フェノロサが亡くなったあと、メアリーは夫の遺志を引き継ぎ、アメリカで日本美術の紹介活動をつづけました。彼女の書いた「The Dragon Painter(ドラゴン・ペインター)」という小説は、日本人女性と画家の恋の物語で、アメリカで映画にもなりました。
また、詩人エズラ・パウンドと一緒に、フェノロサのノートをもとに「能(のう)」という日本の伝統演劇を翻訳し、西洋に紹介したことも知られています。夫婦で日本の文化を広めた、すてきなコンビだったのですね。
岡倉天心の最期と遺したもの
岡倉天心は、晩年もボストン美術館で働きながら、日本や中国、インドの美術品を集めて世界に紹介していました。その中で出会ったのが、インドの詩人・プリヤンバダ・デーヴィーという女性です。
ふたりはおたがいに手紙を送り合い、心を通わせていたと言われています。天心はこの女性に対してだけは、自分の弱さや本音を素直に話すことができたそうです。
しかし、その後天心は体調を崩し、1913年、50歳という若さでこの世を去りました。天心の死はとても惜しまれましたが、彼が育てた横山大観や下村観山たちは、その意思をしっかり受け継いで、日本美術の世界で活躍をつづけたのです。
現代の美術教育や文化財保護に残る影響
フェノロサと岡倉天心が残した影響は、今でも私たちの生活に大きく関わっています。たとえば、東京藝術大学は、ふたりが関わった東京美術学校がもとになっています。今でも多くのアーティストがここで学んでいるんですよ。
また、「文化財保護法」など、日本の伝統的な建物や仏像を守るしくみも、ふたりの活動がきっかけになって生まれたものです。天心が書いた「美術保存ニ付意見」は、日本で初めて「文化を守ろう」と真剣に訴えた文章でした。
さらに、「日本文化は世界に誇れるものだ」と自信を持てるようになったのも、ふたりが海外で日本美術のすばらしさを伝え続けてくれたからです。
総括:フェノロサや岡倉天心は何した人かまとめ
最後に、本記事のまとめを残しておきます。
- フェノロサはアメリカ人哲学者で、日本美術を世界に広めた人物
- 明治時代、日本の仏像や絵画を守るために全国を調査し、文化財保護に尽力
- 東京美術学校(現在の東京藝術大学)の設立にも関わった
- 帰国後もボストン美術館で日本美術を紹介し続けた
- 岡倉天心は日本人思想家で、美術教育と日本画の近代化に貢献
- フェノロサの通訳をきっかけに、日本美術の価値に目覚めた
- 文化財保護の提言「美術保存ニ付意見」を執筆し、保護運動を先導
- 「茶の本(The Book of Tea)」などで日本文化を世界に発信
- 横山大観ら若手画家を育て、日本美術院を設立
- フェノロサと天心は師弟関係で、日本美術を守るために協力
- 時代背景には廃仏毀釈や西洋文化偏重があり、危機感が原動力となった
- 「凍れる音楽」や「茶の本」などの名言・作品が現在も知られている
- フェノロサの妻・メアリーも文化紹介に尽力し、能の翻訳などを行った
- 二人の活動は、現代の美術教育や文化財保護制度にもつながっている