今回は「横山大観(よこやまたいかん)」がどんな人だったのか、子どもでも分かるようにやさしく解説しますよ。

横山大観は、日本の美術界でとても有名な画家です。特に「富士山」をよく描いたことで知られ、日本の自然や心を美しい絵で表現した人です。

この記事では、横山大観の生涯や有名な作品、独特な画風、仲間とのエピソードまで、しっかり紹介していきます!

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横山大観はどんな人か簡単に解説!生涯・画風・代表作

横山大観は日本画の巨匠として広く知られ、近代日本画を代表する存在です。明治から昭和にかけて活躍し、日本の風景や精神を描き続けた大観の作品は、今でも多くの人々に愛されています。

ここでは、横山大観の生涯、画風、代表作について詳しく解説します。どんな人物で、どのように日本画を革新したのかを知ることで、彼のすごさをより深く理解できるでしょう。

横山大観はどんな人?明治から昭和を生きた日本画の巨匠

横山大観は、明治・大正・昭和の時代に活躍した日本画の巨匠(きょしょう)です。「巨匠」とは、その道でとても有名で立派な人のことを言います。

彼は1868年(明治元年)に茨城県の水戸で生まれました。お父さんは武士(ぶし)で、昔の時代から続く家系の出身でした。時代が江戸から明治に変わるなか、大観は「日本の伝統を守りながら、新しい表現を生み出す」という使命をもって絵を描き続けたのです。

横山大観は、日本の風景や心を、まるで夢の中のように美しく描く「日本画」のスタイルを生み出し、多くの人々に感動を与えました。今でもその作品は、たくさんの美術館で見ることができますよ。

生涯を簡単に解説!出身地や本名も紹介

横山大観の本名は「横山秀麿(ひでまろ)」といいます。生まれたのは茨城県水戸市。子どもの頃は文京区湯島で育ち、東京の学校に通っていました。

はじめは英語を勉強していましたが、やがて絵の道に進むことを決意し、東京美術学校(今の東京藝術大学)に入学します。この学校で、後に大きな影響を与える先生・岡倉天心(おかくらてんしん)と出会いました。

学校を卒業した後、大観は先生たちと一緒に「日本美術院(にほんびじゅついん)」を作り、日本の絵のすばらしさを広めていきました。そして1958年、89歳でこの世を去るまで、絵を描き続けた情熱の人だったのです。

代表作とは?富士山の絵や『無我』など名作紹介

横山大観の作品の中でも特に有名なのが、富士山を描いた絵です。なんと彼は生涯で1,500枚以上も富士山を描いたと言われています!

たとえば、『神霊不二山(しんれいふじさん)』や『霊峰富士(れいほうふじ)』など、どれも力強くて神秘的な富士の姿を描いています。大観にとって富士山は「神さまのように大切な存在」だったのですね。

また、大観の若いころの代表作には『無我(むが)』という絵があります。これは小さな子どもが無邪気にたたずむ姿を描いた絵で、やさしさと静けさがあふれています。

他にも『夜桜』『生々流転』など、幻想的で美しい名作がたくさんあります。

画風「朦朧体」とは?技法や特徴をわかりやすく解説

「朦朧体(もうろうたい)」という言葉を聞いたことはありますか?これは横山大観が生み出した、日本画の新しい表現方法の名前です。

朦朧体とは、絵の中の線をはっきり描かず、色のにじみやぼかしを使って、モヤモヤっとした雰囲気を出す技法です。たとえば、山や雲、川の流れなどが、まるで霧の中にあるように見えるのが特徴です。

この技法は、岡倉天心から「空気は描けないのか?」と言われたことがきっかけで生まれました。当時の人には「ぼんやりしている!」と批判されましたが、のちに世界中から高い評価を受けました。

今では、この朦朧体こそが横山大観の代名詞になっています。

岡倉天心・菱田春草との関係とは?エピソード付きで紹介

横山大観には、人生においてとても大切な人が2人いました。それが「岡倉天心」と「菱田春草(ひしだしゅんそう)」です。

岡倉天心は、美術の先生であり、考え方や生き方にも強い影響を与えた恩師です。天心が学校を追われたとき、大観も一緒に学校を辞めてついていきました。とても信頼していたのですね。

菱田春草は、大観の一つ下の後輩で、よきライバルであり親友でした。2人で新しい絵のスタイル「朦朧体」を作り出し、共に海外でも活躍しました。大観は春草のことを「本当の天才だった」と語っていて、春草が若くして亡くなったときには、追悼展(ついとうてん)を開いて彼の作品を紹介しました。

こうした深い友情と師弟の絆が、大観の絵にもあたたかさをもたらしたのかもしれませんね。

横山大観はどんな人か:すごさをエピソードで紹介

ここからは、横山大観がどんな性格だったのか、どんなエピソードがあるのかを紹介していきます。偉大な画家というだけでなく、とてもユニークで人間味あふれる人物だったんですよ。

どんな性格だった?大酒飲みとしても有名な一面

横山大観は、実はとってもお酒が好きな人でした。「酒が飲めないやつは弟子にできん!」と言っていたほどで、毎日のように日本酒を飲んでいたといいます。

あまりに飲みすぎて、何度も急性アルコール中毒になりかけたこともあるとか。あるときは倒れてしまったのですが、「最期に一杯だけ…」と頼んでお酒を口にしたら、なんと元気になったというエピソードもあります。

こうした話からも分かるように、大観はとても人間らしくて、親しみのある性格だったのですね。弟子たちにも慕われ、ユーモアのある先生だったようです。

富士山の深い関係!1,500枚以上描いた理由とは?

横山大観といえば「富士山」と言われるほど、彼の代表作には富士の絵がたくさんあります。実に1,500点以上も描いたと言われています!

でも、彼は実際に見た富士山をそのまま描いたわけではありません。心の中にある「理想の富士」を思い描いて描いたのです。富士山を神聖なものとして考え、気持ちが整っていない日は描かないようにしていたとも言われています。

こうしたこだわりが、見る人の心を動かす作品につながったのですね。「富士山=日本の象徴」として、大観の絵は今もたくさんの人に感動を与え続けています。

GHQの意外な関係?証券取引所再開に関与した逸話

横山大観は戦後、GHQ(占領軍)との意外な関係でも知られています。日本が戦争に負けたあと、証券取引所(株を売り買いするところ)は停止されてしまいました。

あるとき、証券取引所を再開させるために動いていた人物が、GHQのある大佐と仲が良かった大観に相談をもちかけたのです。そこで、大観はその大佐に話をしてくれたおかげで、なんと証券取引所の再開に道が開かれたと言われています。

このように、大観は絵だけでなく、日本の再建にもひと役買っていたのですね!

英語力がすごい!実は海外経験も豊富だった?

横山大観は若いころに東京英語学校に通っていて、英語が話せたことでも知られています。英語の授業を受けたり、東京大学の予備門も受けたりしていたので、学ぶことにとても意欲的な人だったのです。

また、絵の活動でもインドやアメリカ、ヨーロッパを訪れ、海外で個展を開いて大成功をおさめました。外国でも「ジャパニーズ・ピカソ」と呼ばれるほど、高い評価を得ていたんですよ。

和服を着て日本食を持参しながらも、外国人としっかり交流するなど、世界に日本の文化を伝える大使のような役割も果たしていたのです。

死後も評価が高い理由とは?文化勲章や記念館も紹介

横山大観は、1958年に89歳で亡くなりましたが、死後もその人気と評価はとても高いままです。その理由は、彼の作品が「ただの絵」ではなく、日本の心や風景、精神を表していたからでしょう。

1937年には、初めての文化勲章を受章しています。これは、日本の文化に大きく貢献した人に与えられる、とても名誉ある賞です。

また、大観が晩年を過ごした東京・台東区の家は「横山大観記念館」として公開されており、今でも多くの人が訪れています。彼の作品だけでなく、暮らしていた場所を体験することで、より一層その偉大さが伝わってくるでしょう。

総括:横山大観はどんな人か簡単に解説まとめ

最後に、本記事のまとめを残しておきます。

  • 横山大観は明治〜昭和を代表する日本画家で、「富士山」を多く描いたことで知られる。
  • 茨城県水戸市出身、本名は横山秀麿(よこやまひでまろ)。
  • 東京美術学校(現・東京藝大)に第1期生として入学し、岡倉天心に師事。
  • 日本美術院を創設し、日本画の近代化に尽力した。
  • 代表作には『無我』『霊峰富士』『夜桜』『生々流転』などがある。
  • 「朦朧体(もうろうたい)」という独自の画風を確立。輪郭をぼかす技法で幻想的な表現が特徴。
  • 岡倉天心や菱田春草と深い関係があり、春草とは強い友情で結ばれていた。
  • お酒好きで有名で、面白い飲酒エピソードが多く伝わっている。
  • 富士山に特別な思いを持ち、1,500枚以上の富士山を描いた。
  • 戦後、GHQとの関係で証券取引所の再開に関わったという逸話もある。
  • 英語が話せ、海外でも高く評価された画家で、個展も成功している。
  • 1937年に初代の文化勲章を受章し、死後も高く評価されている。
  • 現在は「横山大観記念館」で作品や暮らしぶりを見ることができる。